第6話 図案の選択
翌日の授業が終わった後は、図画部の部屋へ、いろいろな道具を運び込んだ。
緋色舎に戻ってから、玲子先輩の部屋にある画材一式を移すのを手伝った。
それと同時に、私も自室に置いていた道具を運び出した。
玲子先輩との共同の作業だった。
それだけのことが、私にはひどく嬉しかった。
秀麗女学院の離れの平屋までは、往復しても30分とかからない。
いつもの通学路を通るだけだが、ひとつだけ違っていたのは、玲子先輩と並んで歩いたことだった。
幸い、荷物はそれほど多くなかった。
2人で2回往復すれば済み、1時間とかからなかった。
西日は、まだ沈みきっていなかった。
準備が一通り終わると、黄島先生を交えた3人で、部屋の中央にあるテーブルを囲むように腰を下ろした。
「ご苦労さま。だいたいのものは揃ったみたいですね」
黄島先生が部屋の中を見回しながら言った。
「はい」
玲子先輩と私は、大きく頷いて答えた。
テーブルの上には、玲子先輩の図案が広げられていた。
彼女に続いて私が指でなぞった、あの図案だ。
「玲子さん――ひとつ伺ってもよろしいかしら」
しばらくその図案に目をやっていた黄島先生が、不意に口を開いた。
「彼岸花といえば、秋のお彼岸の頃に咲くものです。ですが、あなたの図案の背景には入道雲が描かれている。入道雲は夏の空に現れるものですが、こちらに何か思い入れでも?」
そうなのだ。
それは、先日、私が違和感を覚えた点とまったく同じだった。
黄島先生が、それをそのまま言葉にしてくれた形になった。
やはり先生も、同じところに目を留めたのだろう。
すると玲子先輩は、一瞬だけ俯いた。
それから目を細めて、静かに言った。
「去年の夏でした。ちょっと“忘れてしまいたいこと”がありまして……それで、つい場違いな夏の景色を描いてしまったのかもしれません」
忘れてしまいたいこと。
いったい、何だろう。
玲子先輩のことは、まだまだ知らないことばかりだ――私はそう思った。
けれど、実際にこうして言葉を交わすようになったのは、ついここ数日のことにすぎない。
それまでは、遠くから見上げるばかりの“憧れの先輩”だったのだ。
知らないことが多いのは、当たり前なのかもしれない。
私は、胸の内でそっとそう言い聞かせた。
「そうですか」
黄島先生の口から出た言葉は、意外にもそれだけだった。
それ以上、深く尋ねる気配はない。
右目は柔らかく細められていた。
けれど、その表情の奥には、どこか淡々とした冷たさのようなものもあった。
そして相変わらず――黄のレンズに隠された左目の様子は見えなかった。
「では、玲子さんの図案を生かしながら、これをあなたたち2人で完成させてくださいね。それと――」
黄島先生はそう言うと椅子から立ち上がり、奥に立てかけてあったイーゼルから画板を外し、それを持って戻ってきた。
昨日、少しだけ目にした黄島先生の図案だ。
よく見ると、玲子先輩の図案とほとんど同じだった。
彼岸花の形も位置も、絵全体の構図も、驚くほど似ている。
玲子先輩は、以前から黄島先生に師事していると言っていた。
おそらく、この図案をもとに、自分の下絵を描いたのだろう。
ただ、ひとつだけ明らかに違っていた。
玲子先輩の背景が入道雲なのに対して、黄島先生のそれは、幾重にも重なる鰯雲だった。
玲子先輩の絵には、夏の名残のような熱がある。
けれど黄島先生の絵には、もっと乾いた、秋の高い空気のようなものがあった。
「背景は入道雲にするのか、それとも鰯雲にするのかは、あなたたちで話し合って決めてください」
黄島先生はそう言って、左手の親指と人差し指で片眼鏡の縁に触れた。
「はい。では、今日は初音さんと、どちらの背景を使うか話し合ってみます」
玲子先輩はそう言って、私の方へ目を向けた。
私は一瞬どきりとしたが、すぐに居住まいを正して深く頷いた。
玲子先輩は続けた。
「そういうわけで、実際の作業は明日からにしたいと思います」
黄島先生は、その言葉を聞いて静かに頷いた。
そして、「私がいれば、気が散るだろうから」と言って、部屋を後にした。
黒いブーツの乾いた音が、床板の上に小さく響いた。
*
黄島先生が去った後――
玲子先輩が、さっそく口を開いた。
「ごめんなさいね。驚いたでしょう? 私のこの下絵ね……黄島先生のお描きになったものを真似した……というより、ほとんど模写ね」
玲子先輩は一拍置いて、さらに続けた。
「先生、何もおっしゃらなかったけれど……絵を嗜む者としては、褒められたことではないわね」
そう言って、目を細めて苦笑した。
けれど、私は迷わず答えた。
「でも……模写だって、誰にでもできることではありません。玲子先輩のお力があってこそだと思いますわ」
正しいことを言っているのかどうか、本当のところはわからなかった。
それでも、その言葉は私の口から、驚くほどするりと出た。
「黄島先生は、私たちにどちらを選ぶか決めるようにおっしゃいました。私は――」
私は玲子先輩の方へ向き直り、はっきりと言った。
「玲子先輩の方を選びます」
そんな私の言葉に、玲子先輩は少しだけ驚いたようだった。
切れ長の目を大きく見開き、じっと私の顔を見る。
私は、言ったそばから急に照れくさくなった。
けれど、この時は不思議と目を逸らさなかった。
すると、玲子先輩の口から「ありがとう」という言葉が出てくるまで、そう時間はかからなかった。
日が緩やかに傾き、窓から眩しい西日が射し込んでいた。
部屋の中に立てかけられたイーゼルの影が、床に長く伸びていた。
*
しばらくして黄島先生が部屋に戻ってきた時には、もう外は薄暗くなりかけていた。
「日が暮れるまでに帰りなさい」
先生のその一言を受けて、玲子先輩と私は帰路についた。
途中の坂道では、夕闇の中で彼岸花が揺れていた。
薄い闇の中にあっても、その赤だけは眩しかった。
ちょうど彼岸花の咲く辺りを通り過ぎようとした時だった――
感じた。
また、誰かの視線を。
私が一瞬、肩をびくりと震わせると、玲子先輩がすぐに気づいたようだった。
「どうかなさいましたの?」
玲子先輩は、感じていないのだろうか。
この得体の知れない、突き刺すような視線を。
「また、誰かに見られているような気がして……」
私がそう話すと、玲子先輩は立ち止まり、周囲を見渡した。
群青が空の端からじわじわと広がり始めている。
彼岸花の群れる場所。
反対側の、薄暗い林。
木々の間に沈みかけた夕方の色。
前方に目をやると、100メートルほど先には、もう緋色舎の建物が見えていた。
それに、前にも後ろにも、ぽつりぽつりと他の学生たちの姿がある。
「やはり、気のせいですわ」
玲子先輩は、私の横に並んで再び歩き出しながら、そう言った。
やはり、気のせいなのだろうか。
その時、私の頭にひとつ浮かんだことがあった。
玲子先輩が以前、口にしていた言葉。
「私……最近、誰かに見られているような気がしますの」
朝は、私たち1回生が緋色舎を出てからおよそ5分後に2回生、さらにその5分後に3回生がこの道を通る。
その日の朝、教室で一瞬視線を感じた時も、校舎の中には全学生が居合わせていた。
そして先週の土曜日の夜――
視線を感じたのは、玲子先輩の部屋のそばだった。
もしかして。
この視線の先にいるのは、私ではなく、玲子先輩なのではないか。
今この瞬間は、玲子先輩ご自身は気づいていないだけで。
そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。




