第5話 黄色の教師
翌朝――緋色舎を出た私は、いつものように同級生の笹田良子と森裕子と一緒に、秀麗女学院まで続く緩やかな坂道を上っていた。
良子が大きなあくびをした。
彼女は朝が弱い方だった。
一方の裕子は朝から元気で、よく喋る。
この日も、緋色舎を出てすぐに意外な話を口にした。
「私……聞いたんですの。芳江先輩から」
芳江先輩は2回生で、緋色舎で生活している先輩の1人だった。
「玲子先輩がお付き合いされているって噂の殿方のお話をしたでしょう? 昨日、芳江先輩が市街地にお買い物に出かけた時に……見かけたらしいのよ」
「見かけたって……玲子先輩と、その殿方を?」
良子が、もう一度小さなあくびをしながら口を開いた。
「そうなのよ。で、芳江先輩のお話によればね、その殿方は遠くから見ても、ずいぶん器量のよい方だったらしいのだけれど――」
「らしいのだけれど?」
良子が促す。
裕子は一拍置いてから答えた。
「目つきが……何というか……“怖かった”らしいの。それに、玲子先輩も少し怯えていたように見えたって」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず口を挟んだ。
「芳江先輩は、遠くからちらりとご覧になっただけでしょう? それで決めつけるのは、よくないと思いますわ」
自分でも少し強い言い方だったと思う。
昨日の玲子先輩の話からは、私はそんなふうには受け取れなかった。
たしかに、私の前でだけ気丈に振る舞っていらっしゃる、ということもないとは言いきれない。
けれど、そうであってほしくなかった。
それに、芳江先輩が見かけたというその殿方が、玲子先輩のお相手とは限らないのだ。
私は胸の奥で、そっとそう言い聞かせた。
そのうち、右手には彼岸花の群生が見えてきた。
今朝も相変わらず、燃えるような赤で咲き満ちている。
朝の光を受けたその赤は、遠目にもあまりに鮮やかで、まるで地面の上だけ火が消えずに残っているようだった。
今朝は、先日のような視線を感じることはなかった。
それでも、胸の底には、説明のつかない薄いざわめきだけが残った。
*
午前8時30分になると、校舎全体にベルが鳴り響いた。
それと同時に、水城先生が1人の女性を伴って教室へ入ってきた。
その女性は、水城先生に促されるまま、教壇の上に彼女と並んで立った。
私はその姿を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
金色の髪飾りで留めた長い黒髪が、少しだけ開いた窓の隙間から入り込む風に、そよそよと揺れている。
左の目を覆い隠すように、丸い黄色のレンズの片眼鏡。
眉の上できちんと揃えられた前髪。
切れ長の大きな右目。
黒地に赤い花が描かれた着物に、黄色の袴姿。
まるで、美しい日本人形を見ているようだった。
顔立ちも、誰が見ても整っている。
整いすぎていて、かえっていつまでも見つめていたくなるほどだった。
けれど、その白い顔に、黄色の片眼鏡だけが妙に浮いて見えた。
美しいのに、そこだけが少しだけ狂っている。
「ご紹介します。本日付で本校の図画の先生として着任された、“黄島早記”先生です」
黄島早記――
水城先生からその名が告げられた瞬間、私の胸の奥が微かにざわついた。
「はじめまして。黄島と申します。本日から秀麗女学院の一員として、皆さんと関わっていきたいと思います。どうぞ、よろしく」
耳に残る、少し高めの、特徴のある声だった。
柔らかいようでもあり、どこか底の見えない響きもある。
もしかして、この方が玲子先輩のおっしゃっていた先生なのだろうか。
その答えは、この日の夕方にわかった。
*
学院の授業が終わるとすぐに、私は敷地の東側に建つ木造の平屋へ向かった。
玲子先輩から聞かされていた、“図画部”の部屋となる建物だった。
入口の戸を開けると、左右に広がる細長い廊下が目に入る。
板張りの床は古びていたが、きちんと磨かれていた。
窓から射し込む夕方の光が、その上に長く伸びている。
私は左右を見回した。
すると、右手前の部屋に「図画部」と達筆な文字で書かれた木製の大きな看板が掛かっているのが見えた。
この字は、玲子先輩のものだ。
彼女は図画だけでなく、筆で書く文字も美しい。
緋色舎に設置されている看板はすべて、玲子先輩の手によるものだと聞いている。
だから私は、その文字を一目見ただけでわかった。
部屋の扉は少しだけ開いていた。
中には人の気配がする。
おそらく2人。
話し声でわかった。
1人は玲子先輩。
そして、もう1人は、たぶん――
「失礼します」
私は半開きの扉に手をやって横へ滑らせると、そう言って頭を下げた。
「いらっしゃい、初音さん」
視線を床へ落としていても、それが玲子先輩の声であるとすぐにわかった。
私はゆっくりと姿勢を戻す。
そこには玲子先輩と――
「あなたが久世初音さんね。玲子さんから聞いています」
そう声をかけた黄島先生がいた。
窓から射し込む西日が、2人の姿を幻想的に包んでいた。
玲子先輩の緋色の袴も、黄島先生の黄色の袴も、その光の中では少しだけ色を変えて見えた。
赤は深く、黄は鈍く、どちらも昼間より濃かった。
「初音さん。図画部は当面の間、私とあなたの2人で活動を始めるつもりなの。黄島先生のご指導を受けるには、やはり人数は少ない方がよろしいでしょうから」
緋色舎だけでなく、学院でも玲子先輩と2人だけ。
その言葉を聞いた瞬間、胸の辺りがふわりと浮いた。
また一歩、玲子先輩に近づけたのだと思った。
「ところで玲子さん、絵を入れる額なんですけど――」
黄島先生がそう言いかけると、すぐに玲子先輩が口を開いた。
まるで、最初からその問いを待っていたかのようだった。
「こちらを用意して参りました」
玲子先輩は、部屋の隅に立てかけてあった大きめの包みを持ち上げ、黄島先生に差し出した。
黄島先生は部屋の中央にある大きな長机にそれを置くと、丁寧に包みを解いていった。
やがて中から現れたのは、金色に縁どられた立派な額縁だった。
縦は1メートル、横はその1.5倍ほどあるだろうか。
なかなかの大きさだった。
「これは……」
心なしか、その瞬間だけ黄島先生の表情が、すっと冷えたように見えた。
けれど、次の瞬間にはもう笑顔に戻っていた。
「では、この額に入れる絵を、あなたたち2人で完成させてください」
黄島先生は、私たちの顔を交互に見つめた。
右の目は細められていて、柔らかく見えた。
けれど、左の目は黄色のレンズに隠れて、その奥がまるで読めなかった。
私は、ふと玲子先輩が持ってきた額縁の方へ目をやった。
金色の縁には、細かな模様が幾筋も彫り込まれている。
けれど、それは左右対称ではなかった。
蔓草のようにも見える。
羽のようにも見える。
ただ飾りが並んでいるだけのはずなのに、じっと見ていると、どこかで形がずれている気がする。
「あなたたち2人は、きっと美しい絵を完成させるのでしょうね。でも、覚えておいてください――」
黄島先生は一拍置いて、さらに言った。
「美しいものは、時として見る向きひとつで意味を変えることがありますので」
まさに意味ありげな言葉だった。
その時、長机の向こうに立てかけてあったイーゼルと画板が目に入った。
先日、玲子先輩に見せていただいた図案だろうか。
彼岸花の群生のように見える。
けれど、ほんの一瞬、私はそこに別の形を見た気がした。
花弁と花弁の間から、細いものが覗いている。
指のようにも見える。
小さな羽のようにも見える。
もちろん、次の瞬間にはただの彼岸花にしか見えなかった。
けれど、一度そう見えてしまうと、胸の奥に小さな棘が残る。
一昨日の夜に玲子先輩から言われた言葉を、私は思い出した。
「あなた……花の見え方が少し違うのね」
同じような違和感を覚えたのは、私だけなのだろうか。
それとも――




