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第4話 選ばれた指先

翌日の日曜日の朝も、玲子先輩から声がかかった。


「お食事が終わったら、また私の部屋にいらして」


昨夜、玲子先輩の部屋で過ごした約1時間は、夢のようだった。


絵のことだけではなかった。


お互いの生い立ち。

他に好きなもの。

将来、どんなふうに生きていきたいかということまで。


昨日の朝までは、想像もしなかった話ばかりだった。


憧れの玲子先輩と、あそこまで話ができるなんて。


そして、昨夜、ひとつだけ気になることを玲子先輩は口にした。


「私……最近、誰かに見られているような気がしますの」


その言葉を聞いた瞬間、私は全身が粟立つのを感じた。


この部屋に入る直前、左手の窓越しに感じた視線――

あれは、いったい何だったのか。


それだけではない。


数日前、学院へ続く坂道で感じた視線。

その後、教室の窓越しに感じた視線。


「あの……」


そこまで言いかけて、私は口を引き結んだ。


ここで玲子先輩に、余計な不安を感じてほしくない。


ここ数日、何となく周囲の様子がおかしいと思う時がある。

“何か”に見られているように思う瞬間も、たしかにある。


けれど、そのほとんどは、きっと“気のせい”なのだろう。

そう思って、私は自分の胸の奥へ押し戻した。


「気のせいだと思いますわ」


そう答えるのが、私にとっても、玲子先輩にとっても、いちばんよい気がしたのだ。


*


私が部屋に入ると、玲子先輩は「いらっしゃい」と笑顔で迎えてくれた後、続けて言った。


「本日は正午くらいまで付き合っていただけますか? この図案について、いろいろとご意見をお聞かせいただきたいの」


昨夜見せてくれた彼岸花の群生を描いた図案を、玲子先輩は私の正面に掲げた。


「もちろんですわ」


私は満面の笑みで、ほとんど考える間もなく答えていた。


自分でも驚くほど、返事はするりと口から出た。


それが何より、昨日までとの違いのように思えた。


だからだろうか。

その後、さらに言葉が続いてしまった。


「正午までとおっしゃらず……夕方や夜まででも――」


言ってから急に気恥ずかしくなって、私は玲子先輩から視線を逸らした。


だが、玲子先輩は笑顔を崩さずに言った。


「ごめんなさい。気持ちはすごく嬉しいのですけれど、午後からは“別の方”とのお約束がありますの。お夕食の時間まで外出いたしますわ」


別の方。


毎週日曜日に“逢引き”されているなんて噂が――


同級生の森裕子が口にしていた言葉が、ふと胸の奥に甦った。


私は思わず、深く頭を下げた。


「そうなのですね。差し出がましいことを……申し訳ございません」


胸のどこかが、ほんの少しだけ痛んだ。


けれど、玲子先輩の私事に後輩の私が口を挟むなど、礼を失していると思ったのだ。


私は一度、部屋の隅に視線を向けた。


すると、目に入ったものがあった。


白い布がかけられたもの。


横から少しはみ出している部分から察するに、たぶん画板だ。


3枚くらいある。


「れ、玲子先輩……あ、あれは?」


少々気まずくなったので、思わず質問してしまった。


すると玲子先輩は、少しも気にする気配を見せず、微笑んだままその場所まで移動した。


「ご覧になる?」


玲子先輩は私を手招きした。


やはり、重ねてあったのは画板で、それは3枚あった。


玲子先輩はまず、いちばん上に重ねてあった画板を見せてくれた。


街並みの風景画だ。


見たことがある風景だった。


この場所は、広島の市街地を遠景に臨む高台にある。

おそらく、そこから描いたものだ。


「これは……玲子先輩が?」


「そう」


私の問いかけに、玲子先輩は涼しい口調で答えた。


玲子先輩の構図や色使いは、私よりもはるかに優れている――

私は素直にそう思った。


線に迷いがない。

遠くの屋根も、空の薄さも、こちらへ吹いてくる風までも、絵の中に閉じ込められているようだった。


そのすぐ下の絵は、海辺の夕日を描いたもの。

これも玲子先輩の作だという。

やはり、素晴らしかった。


けれど、いちばん下にあった画板――それを見た時、私は思わず息を呑んだ。


白い薄衣をまとった女性が1人、椅子に座って微笑んでいる絵だった。


肩や腕の線が、学校で見る肖像画よりもずっと柔らかく描かれている。


見てはいけないものを見てしまったようで、私はすぐに視線を逸らしかけた。


しかも――

その女性は、どことなく玲子先輩に似ている気がした。


気のせいだろう。

他人の空似だろう。


そう思っていたところで、玲子先輩から静かに告げられた。


「これは……私」


私は、言葉を失った。


まさか、今ここにいる憧れの先輩が、こんなふうに絵の中に残されているなんて。


一瞬、頭が追いつかなかった。


玲子先輩によれば、お付き合いしている殿方が画家志望で、乞われて肖像のモデルを引き受けたという話だった。


裕子が言っていた噂というのは――やはり本当だったのだ。


しかも、その事実を玲子先輩本人から聞くとは思わなかった。


驚いた。

けれど、それ以上に、嬉しかった。

そんな秘密を、私なんかに打ち明けてくださるなんて。


でも、どうして?


その理由は、その後の玲子先輩の言葉で明らかになった。


「私と同じように図画に興味がある方って、少ないの。なかなか、同じものが好きな方と話をする機会がなかったから、初音さんがそうだとわかった時……私は嬉しかった。だから“図画部”にお誘いしたんです」


玲子先輩は、笑みを崩さずにそう言った。


その声は優しい。

優しいのに、なぜか私は少しだけ胸が苦しくなった。


秘密を分け与えられたような気がしたからだ。


「では、さっそく――」


玲子先輩はそう言って、私のそんな心中など察した様子もなく、昨夜と同じ椅子を私に勧めてくれた。


*


テーブルに置かれた玲子先輩の図案は、改めて見ても素晴らしいものだった。


紙の白さの上に映えるように、花の形も、色を置く場所も、細い線の運びも、丁寧に整えられている。


「あの……こちらは、いつ頃からお描きになっているのですか」


私は正面にいる玲子先輩を恐る恐る見つめ、そう尋ねてみた。


「先週の土曜日からだったかしら。私が土曜日の午後に、市街地にある図画教室へ通っているのはご存知でしょう?」


たしかに、緋色舎の先輩からそういう話を耳にしたことがあった。


「そちらの先生のご指導なの。そして、その先生が明日、学院に着任されるのよ。先日あなたをお誘いした図画部の顧問も引き受けてくださるって……私、嬉しくって」


玲子先輩は顔を少しだけ上げ、目を細めながら、透き通るような白い歯を見せた。


普段は決して見る機会のないような、無邪気な少女の笑顔だった。


その笑顔を見て、私はまた勝手に特別な親近感を抱いた。


この笑顔は、私の前だけで見せるものなのではないか――

そう思いたくなるほどの笑顔だった。


「明日の授業が終わったら、学院の東にある平屋へおいでなさい。そこに“図画部”の部室を作る予定なの。“先生”もいらっしゃるから、その時にご紹介しますわ」


「はい。よろしくお願いします」


私は笑顔で返事をした。


玲子先輩も、同じように微笑んだ。

まっすぐ顔を見るのがためらわれるほど、眩しかった。


そして笑顔を崩さないまま、玲子先輩は意外なことを言った。


「初音さん……あなたには、この線をなぞって輪郭をつけてほしいの」


そう言って、画用紙を私の方へ差し出した。


「えっ?」


思わず声が漏れた。


玲子先輩の下書きに、私が線を添える。


あまりに畏れ多くて、私は一瞬固まった。


「で、でも……本当によろしいのでしょうか?」


震える声で訊き返す。


すると玲子先輩は立ち上がり、私の座っている椅子の横で中腰になった。


私と同じ高さ。


お互いの顔の距離は、ほんの数センチほどしかなかった。


私の心臓は、早鐘のように鳴っていた。


顔をまともに玲子先輩の方へ向ける勇気はなかった。

視線だけをわずかに向けるのが精いっぱいだった。


玲子先輩の右手の、細い人差し指が、鉛筆で下書きされた線を丁寧になぞっていく。


その指先は、部屋の窓から射し込む朝の光で白く光っていた。


紙の上を、するり、するりとすべっていく。


花びらの反り返りも、茎の細さも、玲子先輩の指にかかると、最初からそこにそうあるべきもののように見えた。


「あなたも……私がしているように、してごらんなさい」


玲子先輩は左手で、私の右手首をそっと掴み、画用紙の上まで運んだ。


その瞬間、こめかみの辺りが熱くなった。

背中に、薄らと汗が滲むのもわかった。


玲子先輩の手は、思っていたより少しだけひんやりしていた。

その冷たさが、かえって私の熱を際立たせた。


私は玲子先輩に言われるまま、画用紙の線を右手の人差し指でゆっくりとなぞる。


紙の感触が、指先に微かに引っかかった。


けれど、そのすぐ横には、さっきまで玲子先輩がなぞっていた線がある。


同じ場所を、同じように辿っている――そう思うだけで、息が浅くなった。


「お上手。それに、あなたの指……私の指と同じように動くのね」


その言葉で、私の心臓がまた一段跳ねた。


私は返事もできず、ただ自分の指先を見つめていた。


まるでそこだけが、玲子先輩に見つけられ、選ばれたもののように思えた。


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