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第3話 玲子先輩

玲子先輩から声がかかったのは、その週の土曜日の夜だった。


「午後8時に、私の部屋まで来ていただけるかしら?」


突然だった。


緋色舎での夕食が終わり、席を立った玲子先輩は、わざわざ私の席まで近づいてきて、そう口にしたのだ。


同級生の笹田良子と森裕子は、目を丸くして私の方を見た。


彼女たちだけではない。

2回生の先輩たちも、玲子先輩以外の3回生たちも、驚いたような表情を隠しきれずにいた。


近寄り難い、特別な存在。


玲子先輩を除く8人にとって、それはほとんど共通した認識だったと思う。


けれど、その“特別な存在”からお誘いを受けたとなれば、周囲がざわつくのも無理はない。


私は、返事をするのが少し遅れた。


「……はい。伺います」


ようやくそう答えると、玲子先輩は小さく頷いた。


それだけで、食堂の空気がほんの少し揺れたような気がした。


玲子先輩が食堂を後にする。


続いて、他の3回生。

そして2回生の3人。


私を含めて1回生の3人だけが残ると、裕子が私の席までいそいそと近づいてきた。


「初音さん、どういうこと?」


裕子が理由を尋ねてくることまでは、予想できていた。


けれど、続いて出た言葉の内容は、私の予想を少し超えていた。


「私、聞いたのよ。3回生の先輩から――」


裕子は、わざとらしく大きく息を吐くと、続けて言葉を出した。


「玲子先輩ね、お付き合いされている殿方がいらっしゃるらしいの。その方と、毎週日曜日に“逢引き”されているなんて噂が――」


私は大きく目を見開いた。


その表情は、しっかりと裕子の瞳に映っていた。


意外だった。


厳格で、誰よりも“お手本”のような女性なのに。


けれど、秀麗女学院では、他の学生たちにも似たような噂は多く聞く。


恋に憧れる年頃でもある。

それに、意外にも学院の中で“殿方との交際禁止”という決まりはない。


ただ、その噂の相手が玲子先輩というだけで、周りが面白おかしく騒ぎ立てているのだろう。


「別によろしいんじゃないですの。玲子先輩が悪事をなさっているわけじゃありませんし」


向かいの席に座っている良子の声だった。

彼女は苦い笑みを浮かべながら、淡々と言い放った。


「ふん」


裕子は軽く鼻を鳴らすと、食堂から出ていった。


続いて良子も立ち上がる。


彼女は薄い笑みを浮かべて私を一瞥すると、裕子の後を追うように出ていった。


私は、しばらくその場に残った。


食堂には、片づけられる前の皿と、ぬるくなった紅茶の匂いが残っていた。


玲子先輩に呼ばれた。


ただそれだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。


嬉しいのか。

怖いのか。


たぶん、その両方だった。


*


緋色舎の間取りは、1階に食堂と談話室、そして3回生の部屋。


2階に、2回生と1回生の部屋がある。


大きな建物で部屋数も多いことから、学生ひとりひとりに個室が割り当てられている。


ひとりになれる場所があるのは、ありがたかった。


相部屋であったなら、きっと気を遣っていただろう。

時々、そう考えてしまう自分がいる。


玲子先輩の部屋は、1階のいちばん奥の突き当たりだった。


私は入浴を済ませて寝衣に着替えると、父から贈られた、もうひとつの丸い置時計に目をやった。


午後7時55分。


そろそろだ。


そう思い、部屋の扉を開けて、薄暗い廊下へと足を踏み入れた。


数メートル間隔で天井からぶら下がる白熱球の光が、弱々しく床を照らしている。


緋色舎の夜は、昼間よりもずっと静かだった。


柱の影。

古い床板の艶。

閉じられた扉の向こうにある、それぞれの息遣い。


そのすべてが、昼間とは別のものに見えた。


3回生が先に浴場で入浴を済ませる。

続いて2回生。

最後に私たち1回生。


玲子先輩はもう入浴を済ませて、今頃は間違いなく自室で寛いでいるはずだ。


階段を下りて、廊下のいちばん奥の突き当たりへ向かう。


玲子先輩の部屋の前まで辿り着くのに、1分も要さなかった。


気軽に声をかけてもらったとはいえ――やはり緊張する。


私は一度、天井を仰いで大きく深呼吸した。


だが、その時――


左手から、また視線を感じたのだ。


その瞬間、鳥肌が立ち、私は左側に目を向けた。


廊下の突き当たりに、大きな窓がある。


そこには、月明かりに照らされた外庭の木々の影が浮かんでいた。


誰もいない――はずだった。


窓硝子には、廊下の白熱球がぼんやり映っている。


その淡い光の向こうに、黒い枝が何本も重なって見えた。

まるで、細い指のようだった。


数日前、彼岸花の群生の向こう側に“何か”を見て以来、私は時折、視線を感じるようになっていた。


いや、やはり気のせいだ。


半ば強引に、自分にそう言い聞かせた。


胸のざわつきは収まらなかった。

それでも、もう一度深呼吸をして、息を整えた。


そして、軽く玲子先輩の部屋の扉を叩いた。


「どうぞ」


中から玲子先輩の声が聞こえてきた。


耳に心地よい、高くて澄んだ声だった。


*


「失礼します」


そう言いながらゆっくりと扉を開けると、正面に玲子先輩が立っていた。


夜の立ち姿でさえ、整っていて品がある。


日中に私たちに見せる姿とは違って、黄色のリボンは外されていた。


長く艶やかな黒髪が、腰の辺りまでまっすぐに垂れている。


白い寝衣も、玲子先輩が着ると、ただの寝支度には見えなかった。


どこか眩しい――

そう思ってしまって、私は慌てて視線を伏せた。


考えてみれば、緋色舎に来て以来、玲子先輩の部屋に入るのは初めてだ。

そう思うと、また心臓の動きが速くなった。


「かけて」


玲子先輩は、小さな木製のテーブルのそばにある椅子を勧めてくれた。


テーブルの上には、洒落たティーカップが2つ置いてある。

香りから察するに、紅茶だろう。


その2つのカップの間には、小皿に積まれた洋物らしい菓子があった。


玲子先輩は、私と向かい合って座った。


改めて、至近距離にある彼女の顔が目に入った。


やはり――美しい。

そう形容する以外に、言葉が見つからなかった。


部屋の中には、紅茶の香りと、微かな絵の具の匂いが混じっていた。


窓際には小さな机があり、そのそばに画材箱が置かれていた。


鉛筆。

刷毛。

小瓶に入った絵の具。

布でくるまれた何枚かの画板。


玲子先輩の部屋は、私が想像していたよりもずっと、絵を描く人の部屋だった。


「今日は、あなたに見ていただきたいものがあって――」


玲子先輩はそう言うと、脇に置いてあった画板を私の方へ向けた。


画板には、“彼岸花”の図案が描かれていた。


鉛筆で、きれいに下書きしてある。


幾重にも重なって群生する彼岸花。

そして背景には、空へ突き上がる入道雲が描かれていた。


色を塗れば、赤、青、白といった様々な彩りの絵が完成するのだろう。


けれど、私は少しだけ不思議に思った。


彼岸花は、秋の花だ。

なのに、その背後にある雲は、どこか夏のものに見えた。


季節が、少しだけずれている。

そのずれが、妙に目に残った。


玲子先輩は一度それを脇に立てかけると、紅茶を一口飲んだ。


そして、私にも「どうぞ」と勧めてくれた。


私はやや緊張した面持ちでカップの取っ手に指をかけ、飲み物に口をつけた。


やはり紅茶だった。


ほどよく甘く、ほどよく苦い。


「英国製の紅茶ですの。お口に合いまして?」


玲子先輩は微笑みながら問いかけた。


「はい。とても」


「それで、本題なのですけれど――」


そう言って、玲子先輩は先ほどの彼岸花を描いた画板を、再び私に見せた。


「あなたの率直な感想を聞かせてちょうだい」


私の心臓は、再び高鳴りだした。


嬉しさが半分。

緊張が半分。


けれど、素直な感想はひとつだけだった。


「素晴らしいと思います」


「ありがとう」


玲子先輩は静かにそう言って、笑みを浮かべながら頷いた。


私の方が恐縮してしまい、また気恥ずかしくなった。


きっと色を足せば、さらに素晴らしくなるだろう。


私は「よろしいですか」と言って、画板を手元に引き寄せた。


その瞬間――


少しだけ、違和感を覚えた。


彼岸花。


たしかに、彼岸花に見える。


細い花びらが反り返り、いくつもの線が外へ向かって伸びている。


けれど、よく見ると、その線の重なりが少し不思議だった。


花びらの間の白い余白が、別の形にも見える。


小さな人影。

あるいは、羽のある何か。


絵なのだから、そう見えるだけかもしれない。


けれど一度そう思ってしまうと、もう普通の彼岸花には見えなかった。


それを玲子先輩に伝えていいものか。


少しだけ迷った。


けれど、私のことを信頼してくれた玲子先輩に、ただ褒めるだけでは失礼な気がした。


私は意を決して、言葉を出した。


「玲子先輩……これは……“彼岸花”ですよね?」


玲子先輩が、一瞬だけ目を見開いたように見えた。


けれど、笑顔は崩れなかった。


そして、こう口にした。


「あなた……花の見え方が少し違うのね」


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