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第2話 女学院の朝

秀麗女学院の朝は、午前8時30分から始まる。


けれど、私たち緋色舎の学生は、午前7時30分には登校を終えている。


これは今年から始まったもので、室母となった玲子先輩の発案だった。


誰よりも早く登校して、学院全体の見本となるように――それが玲子先輩の方針だった。


全校生徒は90人ほど。

そのうち1割ほどに当たる私たち緋色舎の者が、他の学生たちの見本になる。


そんな意味が込められているらしい。


緋色――

口にすると、どこか美しい響きがある。

それと同時に、少しだけ胸の奥がざわつく色でもあった。


朝の光に照らされると、私たちの袴の色は明るく見える。

けれど廊下の薄暗がりでは、同じ緋色が、ずいぶん濃く沈んで見えることがある。


まるで、乾ききらない何かの色のように。


国語や数学といった学問から、裁縫や修身まで、一通りの科目が3年間でびっちりと教えられる。


けれど、私のいちばんのお気に入り――それは“図画”だ。

要するに、絵を描くこと。


幼い頃から、ずっと好きだった。


父から小学校に上がる時に贈られた画用紙には、いろいろなものを夢中で描いた思い出がある。


人。

動物。

植物。

家にある身近なもの。

そして風景。


最初の頃は、思い出すだけでも恥ずかしくなるような“絵にならない絵”ばかりだった。


けれど、不思議なことに、描けば描くほど少しずつ形になっていく。


目で見たものを、紙の上に写す。

そうすると、それまでただ通り過ぎていたものが、自分だけのものになったような気がした。


台所の薬缶。

庭に落ちた椿の花。

母の縫いかけの白い布。

雨上がりの石畳に映った空。


どれも、絵にしようと思って見つめると、それまでとは違って見えた。


この女学院に入学する前の年には、私の絵が市の美術展で賞を受けた。


実家の2階から見えた何気ない風景を、ふと絵にしようと思い立ったのだ。


気がつくと、イーゼルを立てて画板を乗せ、絵の具を使って何か月も手を動かしていた。


窓の外にある、いつもと変わらない屋根。

遠くの畑。

川面に落ちる夕方の光。


それらを描いている間だけ、私は自分がどこか遠くへ行けるような気がした。


賞を受けたことは、私に初めて小さな自信をくれた。


大きな声で誰かに誇れるほどのものではない。

けれど、胸の奥にそっとしまっておける、温かい石のようなものだった。


*


午前8時を回る頃には、学生たちがひとり、またひとりと登校してくる。


1回生は30人。

教室は3階のいちばん奥の部屋だ。


6人が縦に並び、それが5列ある。


私の席は、いちばん窓側の後ろから2番目だった。


右に目をやると外の景色が見えるので、“画家の卵”には打って付けの席だ。


遠くには、先ほど目にした彼岸花の群生が見える。


空の青と、周囲の緑。

そのどちらにも負けないくらい、赤がはっきりと主張していた。


あの赤は、ただ咲いているだけなのに、どうしてあんなに目を引くのだろう。


私は机の上に置いた両手を、そっと握った。


先ほど、花の向こうに見えた白いもの――


あれは本当に、人だったのだろうか。

それとも、私がそう思っただけなのだろうか。


午前8時30分には始業のベルが鳴り、担任である水城(みずき)恒(つね)先生が入ってきた。


国語と裁縫に加えて、図画も受け持つ才媛だ。


学院の教師の7割を女性が占め、殿方の教師は3割程度だという。

学院長が女性で、彼女が積極的に女性の教師を採用しているらしい。


これは、緋色舎の2回生から聞いた話だ。


「皆さん、おはようございます」


水城先生は、教室の床より一段高い教壇に立つと、私たちを見回しながら声を出した。


白地の着物には矢絣の模様が施され、澄んだ水色の袴、そして舶来製の黒いブーツという出で立ち。


やや丸みを帯びた頬と、短めの黒髪がよく似合っている。


水城先生は美しいというより、凛とした人だった。


着物の襟元も、袴の襞も、黒いブーツの先も、すべてがまっすぐに整っている。

そのせいか、先生の前に立つと、自分の心の中まで少し見透かされるような気がした。


「では、今から点呼を取ります」


水城先生がそう口を開いた瞬間、私はふと外の景色に再び目をやった。


遠くで赤を放っている彼岸花たち。


その方角から、一瞬、また視線を感じた。


たぶん気のせいだろう。


登校している時もそうだった。


彼岸花は――“あちら”と“こちら”の境に咲く花。


そんな母の言葉を思い出したりしたから、心がいつもより過敏になっているのかもしれない。


私は目を凝らして、その方向をじっと見た。


けれど、何も見えない。


赤く咲き誇る彼岸花の群生以外は――


「……初音(はつね)さん」


その声が聞こえてきて、私ははっと我に返り、教壇の方へ目を向けた。


「久世(くぜ)初音さん!」


二度目に水城先生が出した声は、一度目よりも幾分か大きかった。


「は、はい!」


私――久世初音は、少し裏返った声で返事をした。


教室に居合わせている同級生たちから、軽い笑い声が漏れる。


耳の辺りが熱くなった。


「お静かに」


水城先生がそう言うと、声はすぐに引っ込んだ。


「朝から上の空は感心しませんね」


水城先生が低く言う。


さらに目を細めながら、一拍置いて続けた。


「これからの時代は、女性も殿方に負けず、社会に出ていくことになります。ですから、皆さんひとりひとりがしっかりと教養を身につけなければなりません。わかりましたか?」


水城先生は正面に向き直ると、教室を左右に見回し、少し厳しい口調で声を出した。


「はい!」


ほぼ同時に、私たち全員の声が教室の中に響き渡った。


私も声を出した。


けれど胸の奥には、まだあの赤が残っていた。


彼岸花の赤。

そして、その向こうに見えた、白いもの。


*


ようやく1限目の国語が終わった。


私は席を立って教室を出ると、急いで厠へ向かった。


今朝はどうも調子が悪い。

“月のもの”の影響かもしれない。


下腹のあたりが重く、足先が少し冷えている。

それでも、授業中に顔をしかめるわけにはいかない。


学院の中にいると、そういうことまで誰かに見られているような気がする。


厠を出ると、廊下に人だかりができていた。


廊下の左手には、3回生の教室がある。


人だかりの中心にいたのは――玲子先輩だった。


私と同じ、いや、他の学生たちとも同じ、花柄の着物に緋色の袴。


けれど、玲子先輩のそれは、まるで違って見えた。


同じ衣装を纏っているはずなのに、内側から何かが滲み出ている。


それが何なのか、私にはうまく言えない。


美しさ。

気品。

それとも、もっと別のもの。


玲子先輩の纏う雰囲気は、同じ人間とは思えないくらい、他の生徒たちとは違っていた。


廊下の窓から射し込んでいる日の光が、ちょうど彼女の周囲を照らしている。


だから、玲子先輩だけが明るく見えるのだ。


そう思おうとした。


けれど、それだけでは説明がつかないような気がしてしまう。


私は、そういう自分が少し恥ずかしかった。


玲子先輩と目が合った私は、直立不動になって一礼した。


すると、顔を上げた私の方へ、玲子先輩が近づいてくるのが見えた。

数人の取り巻きたちの間を抜けて、ゆっくりと。


右腕には、絵画用のキャンバスを挟んでいた。


たしか、3回生の1限目は“図画”だったはずだ。


「初音さん」


「はい」


玲子先輩の透き通るような声に、私は無意識に短い返事をした。


「新しい先生が着任なさるそうなの。その方、今度“図画部”という課外活動を始められるらしいのだけれど――」


玲子先輩は私の顔をまじまじと見つめながら、続きを口にした。


「あなた……以前、図画に興味があるとおっしゃっていたでしょう? よろしければ、“図画部”に入部しないかしら?」


私は大きく目を見開いた。


それと同時に、心臓がどくんどくんと速く脈打つのを感じた。


私が“図画”に興味があること。

玲子先輩は、それをちゃんと覚えていてくれたのか。


そして――同じ課外活動に誘ってくれた。


この瞬間、私の胸はどうしようもなく高鳴った。


憧れの玲子先輩に近づける。


そんな幼くて気恥ずかしい感情が、少しずつ私の心に満ちていくのがわかる。


「あ、あの……私でよろしいのですか」


ようやく出した声は、自分でも情けなくなるほど小さかった。


玲子先輩は、目を細めて微笑んだ。


「もちろん。初音さんなら、きっときれいな絵をお描きになると思いますから」


きれい。


その一言だけで、胸の奥に火が灯ったようだった。


「新しい先生が着任されたら、ご紹介いたしますわ」


そう言って、玲子先輩は踵を返した。


その時、玲子先輩の画板が少しだけ目に入った。


鉛筆で丁寧に描かれた図案の一部。


細い線が、幾重にも外へ反っている。

花びらのようで、炎のようでもあった。


それは――

群生している“彼岸花”のように見えた。


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