第1話 彼岸花
“緋色舎”の朝は早い。
緋色舎とは、私が寝食をしている寄宿舎の名前だ。
寄宿舎の屋根の色。
制服である袴の色。
学院旗の下地の色。
そのどれかに因んで付けられたものだと、2回生の先輩から聞いたことがある。
午前6時――緋色舎に入る時に母から贈られた舶来製の目覚まし時計が、優雅な旋律を奏でる。
けれど、その旋律とは裏腹に、私の気分はなかなか晴れない。
のそのそとベッドから身を起こすと、2階の窓から外の景色に目をやった。
朝靄で煙っていたが、たしかに朝日は昇ろうとしていた。
窓硝子には、寝起きの私の顔がぼんやり映っている。
まだ少女と呼ばれる顔。
けれど、緋色舎では誰も、私を子ども扱いなどしない。
ここでは、起きる時刻も、食べる順も、歩く列も、言葉の返し方も決まっている。
そういうものだと、頭ではわかっていた。
だけど、胸の奥だけが、まだそれに追いついていなかった。
*
「おはようございます」
1階の食堂へ向かう。
「おはようございます」
「おはようございます……」
同じ言葉が、あちこちから返ってくる。
声の大きさも、目礼の角度も、誰もが少しずつ違っていた。
けれど、どの声にも、朝の冷えた空気に似た硬さがあった。
「おはようございます。あなたが、いちばん最後よ。早く席について」
そう言って私を促したのは、“室母”と呼ばれる3回生の二階堂玲子という先輩だった。
長い髪を黄色のリボンで結い上げている。
端整な顔立ちは、同性から見ても息を呑むほど美しかった。
玲子先輩がそこにいるだけで、食堂の空気は少し変わる。
誰かが大きな声を出したわけでもない。
叱られたわけでもない。
それなのに、皆の背筋が、ほんの少しだけ伸びるのだ。
「はい」
私は頭を下げて、テーブルの1席に腰を下ろした。
長方形のテーブルの、入口からいちばん手前の席――いわゆる“末席”だ。
*
“秀麗女学院”――広島市の郊外にある女学院。
私は今年の春に入学し、ここの緋色舎で生活することになった。
実家も広島市の近郊なのだが、父が、
「これからは、女も社会に出ていく時代なのだ」
というふうに語り、私の緋色舎生活が決まった。
母は反対した。
けれど、父の言うことは絶対だ。
私も母も、父には逆らえない。
そうして、私にとっては生まれて初めてとなる、“他人”たちとの共同生活が緋色舎で始まった。
緋色舎で暮らす女学生は9人。
3回生が3人。
2回生が3人。
1回生が3人。
ちょうど各学年3人ずつだった。
緋色舎を管理する老夫婦はいるのだが、彼らの仕事は食事の手配が主だった。
舎内だけでなく、敷地内の清掃まで、私たちが輪番で行うことになっていた。
室母である3回生の玲子先輩を筆頭に、緋色舎の中では厳格に序列が決まっている。
1回生は、3回生より先に席を立ってはならない。
食器を下げる順も、廊下ですれ違う時の挨拶も、細かく決まっている。
それは礼儀なのだと、玲子先輩は言う。
女学生として、恥ずかしくない振る舞いを身につけるためなのだと。
たぶん、それは正しい。
けれど、正しいことばかりが並んでいる場所は、時々、息をするのが難しい。
息苦しさはあった。
だが幸いにも、“癖のある”上級生や同級生がいないことだけが、唯一の救いだった。
*
「それにしても、帝都は大変ですわね。まさか、あんなことが起きるなんて……」
2回生の1人が、朝食の紅茶を一口飲んで、そう言った。
「新聞で見ましたわ。ずいぶん多くの方が被害に遭われているみたいですね」
玲子先輩は最奥の席に優雅に腰を下ろしたまま、先ほどの2回生を一瞥して口を開いた。
ちょうど2週間前――
我が国の首都を、大きな地震が襲った。
被害の様子が少しずつ明らかになるにつれ、大人たちはもちろん、私たち学生の間にも動揺が広がっていた。
ここ数日は、折に触れて誰かがこの話題を口にする。
けれど、そのたびに、食堂の空気はどこか奇妙に乾く。
本当に心を痛めているのか。
それとも、話題にしておかなければならないから口にしているのか。
私には、よくわからない。
“癖のある”上級生や同級生はいない。
けれど、癖のある人がいないことと、心を許せる人がいることは、まるで別のことだった。
うまく言葉にはできない。
ただ、息の詰まるようなものが、この寄宿舎にはあった。
いや、ここだけではない。
女学院の中も、概ねそんなものだった。
着物の襟元。
袴の着こなし。
黒い靴。
磨かれた廊下。
正しい挨拶。
美しい姿勢。
どれも清らかで、どれも美しい。
それなのに、時々私は思う。
この美しさは、何かを隠すためにあるのではないか、と。
けれど、その時の私はまだ知らなかった。
やがて、その美しさの奥に隠されていたものを、玲子先輩の変わり果てた姿によって思い知らされることになるなんて。
*
朝食を済ませ、身支度を整えると、緋色舎を出る。
同学年ごとに登校する決まりになっており、私は笹田良子、森裕子と一緒に緋色舎の外庭を抜けた。
秀麗女学院の本校舎まで、緩やかな坂の一本道が伸びている。
顔を上げると、朝日の逆光を受けた木造の校舎が目に入った。
古い校舎だった。
けれど、単に古びているのではない。
長い時間を、きちんと畳んでしまってあるような建物だった。
朝の光を受けた窓硝子が、ところどころ白く光っている。
その光の中に、誰かの顔が一瞬だけ浮かんだような気がして、私は目を細めた。
もちろん、そんなものはない。
ただの光だ。
「私……やはり玲子先輩は苦手ですわ」
途中、良子がおもむろに口にした。
隣の裕子も、声は出さずに小さく頷いている。
「あら、どうしてかしら?」
私は思わず訊いてみた。
以前から薄々感じ取ってはいたが、改めて尋ねたのは初めてだった。
しかも、今は同学年の3人だけ。
緋色舎で生活する私たちは、通学組よりも早めに学院へ到着する。
周囲に、他の学生たちの気配はまだなかった。
「私たち後輩に気を遣ってくださるのは、わかるの。でも……その……」
良子はしどろもどろで、先の言葉が続かない。
「……取っ付きにくいんですのよ」
裕子が代弁するように口を開いた。
けれど、口にしたことをすぐ後悔したのか、私や良子とは目を合わせず、視線を地面に落としていた。
彼女たちの言うことも、もっともだ。
実際、私も同じように感じている。
玲子先輩は優しい。
少なくとも、意地悪ではない。
後輩の失敗を大声で責めたりもしない。
身だしなみが乱れていれば、そっと直してくれる。
食事の作法を間違えれば、人前ではなく、後で静かに教えてくれる。
だからこそ、怖いのかもしれない。
怒らない人の方が、何を考えているのかわからない。
だが、私は少しだけ違っているのかもしれない。
良子と裕子は、どちらかといえば玲子先輩に“畏れ”を感じているのだろう。
私は――
“憧れ”の方が強い。
玲子先輩に近づきたい。
認められたい。
あの人の隣に立っても、恥ずかしくない自分になりたい。
そして――
その先に何を望んでいるのかは、まだ自分でも、うまくわからなかった。
*
学院の本校舎へと続く坂道の右手に、私はふと目をやった。
息を呑んだ。
真っ赤な細い花びらが、秋の朝日を受けて輝いている。
昨日までは気づかなかった。
きっと、今朝開いたのだろう。
この時期になると必ず姿を見せる“赤”――“彼岸花”が、辺り一面にびっしりと群生していた。
朝方の水色の空を背景にして、はるか遠くまで、その赤が鮮やかに映えている。
赤。
赤。
赤。
まるで、誰かが学院へと続く斜面に、燃える糸を幾重にも縫いつけたようだった。
私は足を止めた。
良子と裕子は、そのまま並んで歩いていた私を追い越して、先へ進んでいく。
「どうかなさって?」
良子が振り返った。
「いいえ。少し、花がきれいで」
私がそう答えると、良子は不思議そうに彼岸花の方を見た。
「本当……いつの間に咲いたのかしら」
裕子も足を止めかけたが、すぐに前を向いた。
「早く参りましょう。玲子先輩に遅いと言われますわ」
そう言って、2人はまた歩き出す。
私は、もう少しだけその場に残った。
彼岸花は美しい。
けれど、あまり近づいてはいけない花だと、昔、母に言われたことがある。
手で折ってはいけない。
家に持ち帰ってはいけない。
“あちら”と“こちら”の境に咲く花なのだと。
幼い頃の私は、それをただの迷信だと思っていた。
けれど今、目の前に広がる赤を見ていると、母の声が不意に耳の奥で甦った。
しばらく、その風景から目を離せずにいると――
何?
“それ”は、視力に自信がある私にも、はっきりとはわからなかった。
白い衣のようなもの。
女性?
いや、違うかもしれない。
そう見えただけかもしれない。
彼岸花の向こう。
朝靄の薄いところ。
林の影と、赤い花の群れが重なる辺り。
そこに、誰かが立っているように見えた。
白いものが、微かに揺れた。
人ならば、あんなに静かに立っていられるものだろうか。
風ならば、なぜそこだけが揺れるのだろう。
その瞬間――私自身も誰かに見られているような感覚に襲われ、悪寒が背筋を走った。
慌てて後ろを振り返る。
だが、誰もいない。
気配があるのは、やや前方を歩く良子と裕子だけだった。
細い一本道には、他の学生たちの姿も見えない。
左手には、鬱蒼と高木が立ち並ぶ林。
しんと静まり返っている。
鳥の声さえ、なかった。
私はもう一度、右手へ視線を向けた。
だが――
“それ”は、もういなかった。
まるで、彼岸花の赤の中に溶けてしまったかのように。
私はしばらく、その場から動けなかった。
ただ、朝の光の中で、彼岸花だけが静かに揺れていた。




