第73話 記憶の残像
陣野渉先生が借りているマンションを出て、本来の住まいである昭和区の賃貸アパートに戻ってから、1週間が経とうとしていた。
その間、博士論文の構成は、ずいぶんと進んだ。
指導教員である三沢秀樹先生が、いろいろとアドバイスをくれた結果でもある。
けれど――
時として、スマホのメモ帳に残された内容を、何度も読み返してしまう。
しばらくの間、陣野先生から借りていた端末から、自分のスマホへ移したものだった。
これは、いつ、何のために書いたものなのだろうか――
少なくとも陣野先生から代替端末を借りていた時期であったことは推測できるが、それ以外は、まったく思い出せなかった。
赤い医師。
黄色い女。
3つの護符。
美。
慈悲。
峻厳。
倫理の三角形。
彼岸花の絵。
6体の妖精。
忘れないで。
忘れないで。
忘れないで。
まるで――
何かを忘れないようにするため、必死にメモしたとしか考えられない。
ただ、“彼岸花の絵”と“6体の妖精”の意味は理解できる。
城野記念館に保管されている絵。
そして、陣野先生の研究室で見た不思議な光景。
禁忌とされていた向きをコンピューター上で解析し、女性たちの顔が浮かび上がった時は、肝を冷やした。
その出来事がきっかけで、論文の構想は一気に膨らんだ気がする。
しかし、他の単語の意味は、まるで掴めない。
“赤い医師”と“黄色い女”――
いったい、誰のことだろう。
“3つの護符”――
いったい、何のことだろう。
“倫理の三角形”――
こちらは、ネットで検索してみた。
すると、興味深い記事が目に留まった。
“セフィロトの樹”。
それぞれ異なる色を持つ“セフィラ”からなる図形のようなもの。
その中で、“美”、“慈悲”、“峻厳”の3つのセフィラが形作る三角形――
それが“倫理の三角形”であるという情報が目に入った。
“美”は黄色。
“慈悲”は青。
“峻厳”は赤。
“赤い医師”と“黄色い女”は、もしかして関係があるのか。
やはり、私の研究テーマの中心となる“彼岸花の絵”に纏わるものを、無意識のうちにメモ帳に書き残していたのだろうか。
どんなに考えても、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
さらに、もうひとつ、とても不思議なことがあった。
論文執筆の参考資料にしようと、城野記念館で撮影した画像を確認していると、いくつか、文字だけが欠落した箇所があったのだ。
撮影した時には、たしかに存在していたはずのもの――
そうでなければ、撮影した時点で、間違いなくおかしいと思っていたはずだ。
ただのピンぼけではない。
ただの光の反射でもない。
そこにあった一部の文字だけが、抜き取られたように白く空いていた。
私は城野記念館の執事である畑崎勤さんに事情を話し、翌日の午後2時に再び訪問する約束を取り付けた。
*
翌日の午後2時少し前――
私は城野記念館を訪れた。
赤い屋根と、白と黒のストライプ状の外壁は、相変わらず周囲の景色から浮いていた。
畑崎さんが出迎えてくれて、以前と同じ1階玄関脇の応接室に通してくれる。
テーブルの上には、私が事前に調べてみたいと伝えてあった資料一式が用意されていた。
岡崎多香子という星華女子学院の卒業生が書いた日記。
1920年代に起きた事件の資料。
まず、岡崎多香子の日記を手に取って、付箋が貼ってあるページを確認する。
そこには、誰かの名前が書かれていたと思われる箇所に、不自然な空白が存在していた。
紙が破れているわけではない。
修正液で消された跡があるわけでもない。
ただ、その部分だけ、インクが最初から乗っていなかったように白く空いている。
けれど、紙の繊維には、そこに文字が記されていたことを示す、わずかなインクの滲みだけが残っていた。
同じく1920年代の資料にも、宗教家を名乗る人物について書かれていたと思われる箇所に、やはり空白があった。
念のため、もう一度、スマホに保存しておいた画像に目を通す。
やはり、まったく同じ状態だった。
まるで――
その名前そのものが、最初からそこに存在しなかったかのように。
それなのに、紙だけが、かつてそこに何かがあったことを覚えているように見えた。
畑崎さんが、不意に口を開いた。
「池内さまからご連絡をいただき、私自身も、この目で確かめてみました。実に……不思議なことでございます」
そして、一度だけ壁際に飾ってある城野賢志の肖像画に目をやった。
「それに……城野先生から、生前に何か大事なものをお預かりしていたような気もするのです」
畑崎さんの言葉が耳に入った瞬間、私の心の中で何かがざらついた。
何か大事なもの――
その言葉に、妙な重さがあった。
「けれど、何をお預かりしていたのか、どうしても思い出せません。記録にも残っていない。私の思い違いなのかもしれませんが……」
畑崎さんは、困ったような笑みを浮かべた。
私は何も言えなかった。
私自身も、似たような空白を抱えている。
胸の中には、たしかに何かがあったはずなのに――
そこだけが、きれいに抜き取られている。
一通りの確認が済んだ後、私は畑崎さんにお願いをした。
「最後に……あの“彼岸花の絵”を見せていただけないでしょうか? 画像自体は私のパソコンに保存しているのですが、やはり……どうしても現物を見たくて」
私がそう言うと、畑崎さんは微笑みながら頷いた。
畑崎さんの顔認証でセンサーが反応し、玄関先にある両開きの扉の鍵が、かちりと音を立てて解錠された。
扉を開けると、暗い赤の絨毯が床一面に広がっていた。
奥の窓から射し込む日の光を受けて、鈍い艶を帯びている。
突き当たりを右手に進む。
階段の手前に、その絵はあった。
以前見た時よりも、咲き誇る彼岸花の赤、湧き上がる入道雲の白、背景の澄んだ空の青は、よりいっそう鮮やかに見えた。
私は絵の前で足を止めた。
なぜか胸の奥が、微かに痛んだ。
懐かしいような。
怖いような。
それでいて、なぜか泣きたくなるような。
そんな感覚だった。
さらに、目を凝らしてみる。
それは、ほんの一瞬だった。
絵のあちらこちらに、それぞれ違う形の“6体の妖精”の姿が見えた気がした。
何かを導くように、身体を曲げた妖精。
静かに立ち尽くしている妖精。
羽で自分を包み込むような妖精。
身体を捻り、遠くを指し示している妖精。
両腕を胸の前で交差させている妖精。
そして、何かを探るように、片腕を差し出している妖精。
私は息を呑んだ。
だが次の瞬間には、もう何も見えない。
ただ、彼岸花の赤と、入道雲の白と、背景の青空だけがそこにあった。
ほんの一瞬だけ、たしかに見えたと思う。
けれど、それが本当に目に映ったものなのか、記憶の残像なのかはわからなかった。
記憶はない。
名前もわからない。
けれど、絵の中にはまだ、何かが残っている。
消えたはずのものの輪郭が、赤い花びらの隙間に、薄く焼き付いている。
私はしばらく、その絵から目を離すことができなかった。
彼岸花の赤が、まるで網膜の奥に沈み込んでいくようだった。
記憶ではない。
記録でもない。
けれど――
それはたしかに、残像だった。




