第74話(最終話) 恩師の式場で
私が再び城野記念館を訪れてから、間もなく――
私は博士論文の執筆に着手した。
題名は――
【私設記念館所蔵「彼岸花図」に関する考察~近代日本における受容史と中国地方の民俗信仰を中心に~】
その年の秋には、研究成果の一部を学会で発表する機会を得た。
緊張と疲労の入り混じる発表だった。
けれど終了後、私はこれまでの人生で経験したことがないような充実感に満たされていた。
その後も執筆と修正を重ね、博士論文を完成させた。
翌年に行われた公開審査は、質疑を含めて約3時間に及んだ。
審査の結果、私は博士(文学)の学位を授与され、その年の3月、無事にN大学大学院文学研究科の博士課程を修了した。
彼岸花の絵。
資料に残された空白。
そして、絵の中に一瞬だけ見えた6体の妖精。
それらは、私の中で完全に整理されたわけではない。
けれど、不思議なことに、論文を書いている時だけは、すべてがひとつの像として結ばれていくような感覚があった。
そして――
同じ年の4月、教授に昇任した三沢先生から推薦を受け、同じ名古屋市内にあるC大学の講師として採用された。
初めて与えられたC大学の研究室には、たくさんの花が届いた。
その中に、“西嶋千晶”さんと“美崎蛍子”さんから連名のものもあった。
彼女たちには、以前に協力してもらった経緯もあり、博士論文のPDFファイルを送っておいたのだ。
その数日後、実際に彼女たちは研究室を訪ねてきてくれた。
「論文を拝読いたしました。よくあそこまで調べて、立派に仕上げられましたね。感服いたします」
西嶋さんは、声を弾ませながらそう口にした。
「亡くなった祖母も……草葉の陰で喜んでいると思います」
美崎さんはそう言いながら、ハンカチで涙を拭った。
私は、その涙を見て胸が熱くなった。
けれど同時に、少しだけ不思議な気持ちにもなった。
美崎さんの祖母だけではない。
他にも、誰かがこの論文を喜んでくれているような気がした。
それはたしかなのに、その“誰か”の輪郭だけが、私の中では少しぼやけている――
そんな感覚があった。
*
それから2年後――
その年の6月の第2土曜日は、私にとって大事な1日となった。
恩師である三沢先生の結婚式が、午前10時から名古屋市内のR式場で開催されたのだ。
三沢先生は1年前、高齢の両親から「孫の顔を見てみたい」と懇願されたらしく、半ば強引に勧められた見合いで相手の女性と意気投合し、その後も交際を続けていたらしい。
相手の女性は、名古屋市内で不動産業を営む事業家の末娘だという。
その女性は妊娠5か月らしく、しかも、双子の女の子らしい。
先日、三沢先生と学会で顔を合わせた際に、彼は綻んだ表情で私に話してくれた。
その話を聞いて、たしかに嬉しかった。
けれど、同時に――
少し複雑な気分にもなった。
式場は、名古屋市内を一望できる小高い丘の上にあった。
東海地方は先日、梅雨入りが発表されたばかりだった。
にもかかわらず、この日は雲ひとつない快晴だった。
遠くにそびえる街並みの上には、澄んだ青が広がっている。
*
式は、白い外壁のチャペルで行われた。
白いタキシードを着た三沢先生と、白いドレスに身を包んだ花嫁が、チャペルの中で永遠の愛を誓っていた。
チャペルの天窓からは、太陽の淡い黄色の光が射し込んでいる。
続く披露宴は、招待客150人の大規模なものだった。
新婦の関係者が3分の2近くを占めていたようだが、三沢先生の研究者仲間と思われる人たちも多かった。
私の席の隣は、真田陽菜だった。
彼女は昨年の4月から大学院の修士課程に進学しており、現在は2年目を迎えている。
指導教員は、もちろん三沢先生だった。
大学院に進学してから、彼女は金髪を黒に染めたらしい。
ラウンジ嬢のバイトは、相変わらず続けているみたいだが。
陽菜が披露宴の最中に、私の耳元で囁いた。
「私……三沢先生の相手は、てっきり池内さんだとばかり思ってましたよ。それが、まったく別の人で、しかも妊娠まで……三沢先生も、隅に置けませんよね」
陽菜の言葉を聞いた私は、ただ苦笑するしかなかった。
「私は、三沢先生にとっては教え子だよ」
「でも、ちょっとは意識してませんでした?」
「してません」
私が即答すると、陽菜は楽しそうに笑った。
その笑い声を聞いていると、胸の奥にあった重いものが少しだけ解けていく気がした。
*
披露宴が終わると、帰っていく招待客を遠目に、私は敷地内のカフェの外に設置してあるベンチでアイスコーヒーを飲んでいた。
庇の向こうに見える空は、相変わらず青いままだった。
式場の白い外壁が、午後の日射しを受けて眩しく光っている。
その光の中で、ほんの一瞬だけ、黄色い残像のようなものが目の奥をよぎった。
けれど、それが何だったのかはわからない。
「あの……先ほど、三沢先生の披露宴にいらっしゃいましたよね?」
私の左手側から、不意に男性の声が聞こえてきた。
少し高めの、特徴のある声だった。
顔を上げると、そこには1人の男性が立っていた。
紺のスーツに白いネクタイをした、長身の男性だった。
きっと、三沢先生の披露宴の招待客の1人だろう。
やや地味で、印象は薄い。
少し長い髪は、ところどころ寝癖で跳ねている。
ただ――
色白の顔は、目鼻立ちが整っていた。
同じ披露宴会場にいた気はする。
けれど、はっきりとは覚えていない。
彼は「ここ……よろしいですか」と少したどたどしい口調で言い、私の隣に腰を下ろした。
「池内……茜さんですよね? 彼岸花の絵の論文を書かれた――」
男性は私の方へ少しだけ顔を向けて、また正面に向き直った。
「僕は、広島のH大学で講師をしていまして……専門は近世日本史全般です。ご縁があって……三沢先生の結婚披露宴に呼んでいただきました」
同じ研究者だったのか――
胸の内で、何かが小さく弾んだ。
「広島の大学なんですね」
「はい。池内さんの論文も、拝読しました。私設記念館に所蔵された絵を、風土史と美術史の両面から読み解いていく視点が、とても興味深くて」
男性は、そこで少しだけ照れたように笑った。
「……すみません。初対面なのに、いきなり論文の話をしてしまって」
「いえ。研究の話をしていただけるのは嬉しいです」
それから、しばらくの間、私たちはお互いの研究分野について語り合った。
中国地方の民俗。
近代美術に残る信仰の影。
地方の私設記念館が持つ、記録の偏り。
思いのほか、会話が弾んだ。
彼は口下手だった。
話の途中で何度も言葉に詰まり、そのたびに照れくさそうに笑った。
けれど、こちらの話を遮らない。
私が言葉を探している時は、静かに待ってくれる。
時折彼が見せる無邪気で屈託のない笑顔が、なぜか私の心の中に残った。
気づけば、1時間近く、この場所で座ったまま会話を続けていた。
ふと腕時計に目をやり、私は驚いてしまった。
「あ、あの……ご迷惑でなければ、今度……お食事でもいかがですか」
男性は顔を赤らめながら、私にそう言ってきた。
私は――
嫌ではなかった。
むしろ、もう少し話してみたいと思っていた。
「はい」
思わず、そう答えてしまった。
だが、肝心なことを彼の口から聞いていない。
「あの……まだ、お名前を伺っていないのですが」
私がそう言うと、彼はいっそう顔を赤くして、ポケットから取り出したハンカチで額の汗を拭った。
「あ……も、申し訳ありません。なかなか女性と2人きりでお話しする機会がないがないものですから」
彼は呼吸を整える。
その一瞬、庇の向こうから差し込んだ日射しが、彼の横顔を淡く照らした。
白いネクタイが、ほんのり黄色く見えた。
「あ、改めまして……」
彼は一拍置いた。
「“黄島”と申します」




