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第72話 赤と黄の光

大型のクルーズ船が、早春の海を航行していた。


暗く沈んだ海面を、満月の光が優しく照らしている。


赤瀬歩矢――ゲブラの客室からは、窓越しにイルカの群れが水面から跳ねる姿が見えた。

彼の左目の赤い虹彩に、その神秘的な光景が映る。


ゲブラは左腕を軽く上げると、腕時計に目をやった。

時計の針は、午後6時55分を指している。


彼は窓際の椅子からゆっくりと立ち上がり、部屋を出た。


白いスーツに、真っ黒なシャツ。

胸元には、燃えるような赤いネクタイ。

縁なし眼鏡のレンズの向こうで、左目だけが赤い光を湛えていた。


客室の並ぶ廊下を抜けて甲板へ出ると、潮風がゲブラの頬を撫でた。


甲板から階段を上った船尾近くに、プライベートダイニングとして使われる一室があった。


ゲブラは扉を軽くノックして、中へと足を踏み入れた。

正面には海を望む大きな窓があり、やや薄暗い室内に、月の光が淡く射し込んでいる。


「お待ちしておりました」


室内に響いたのは、高く澄んだ女性の声だった。

声の主は、中央に置かれた豪華な装飾のテーブルの片側に腰を下ろしていた。


黄島早記――ティファレト。


彼女は、眩しいくらいの黄色のドレスを纏っていた。

そして左目だけが、黄色の虹彩で輝いている。


月明かりと相まって、薄暗い室内が明るく見えるほどの黄色だった。


彼女の左右には、2人の若い女性が控えていた。

年齢は、2人とも20歳前後だろう。


2人の顔立ちや髪型は、見間違うほどによく似ていた。

服装も、同じ意匠のクラシカルなメイド服のようなものを着ていた。


ただひとつだけ違っていたのは――髪の色だった。


1人は、明るい茶色。

もう1人は、真っ黒。


ティファレトは立ち上がってゲブラの方へ向き直る。


「あなたのおかげで、“サタン”を封印することができました。100年以上に亘る因縁に終止符を打っていただいたこと、そして……“あの人”を守っていただいたこと……感謝します」


そう言って、深々と頭を下げた。


「私たちは役目を負っている間、直接顔を合わせるべきではないのですが……“旅立ち”の前ですので、今日だけは特別です。どうぞ、お掛けください」


ティファレトはゲブラに、テーブルを挟んだ向かい側の席を勧めた。


「ありがとうございます。とはいえ、私の“個人的な事情”もありましたので――」


ゲブラは言いながら、席に腰を下ろした。


「ところで……その方たちは?」


ゲブラがティファレトの横に控える2人の女性に目をやりながら、再び口を開いた。


「ああ……そうでした。“春華(しゅんか)”さん、“秋華(しゅうか)”さん、ご挨拶を」


「はじめまして、春華です」


「はじめまして、秋華です」


ティファレトが促すと、2人はほぼ同時に声を出した。


明るい茶色の髪が、春華。

真っ黒の髪が、秋華。


2人は優雅に一礼すると、奥の厨房のような場所へ移動した。

それから、料理を次々と運んでくる。


テーブルの上に、豪華なフランス料理が並べられた。


最後に、それぞれの席の前にグラスのワインが置かれる。


ゲブラには、血のように真っ赤なワイン。

ティファレトには、淡い光で黄色味を帯びた白ワイン。


ゲブラとティファレトは、静かにグラスを合わせた。

カチン、という乾いた音が室内に響く。


白ワインを少しだけ口に含んだところで、不意にティファレトが口を開いた。


「実は……ひとつ、気になっていたことがありまして」


ゲブラを見つめるティファレトの表情は、柔らかかった。


「かつて、秀麗女学院に“水城恒”という教師の方がいらっしゃいました。彼女はサタンの手にかかったわけですが、実は……当時3歳くらいの女の子の母親でもありました。」


ゲブラは、表情を変えなかった。


「彼女は未婚の母で、女手ひとつで娘を育てていた気丈な方でした」


ゲブラは赤ワインを飲み干すと、ナイフとフォークを手に取り、肉を切り始めた。

その手つきは無駄がなく、医師らしい正確さを感じさせた。


ティファレトは、そんなゲブラの様子を見ながら、話を続けた。


「彼女が行方知れずになって以降、“片岡志津”という女医の方が、その女の子を養子として引き取ったそうです。片岡志津は、生涯独身を通しました。そして、成長した女の子は立派な医師となり、片岡志津の志を継いだと言われています」


ティファレトは、そこで一度言葉を切った。


「ひょっとして――」


そこまで言いかけた時、ゲブラが口を開いた。


「サタンを封じたことで、“救われる未来”がありました。私は……その事実だけで十分なのです」


その言葉を聞いて、ティファレトは視線をテーブルの上に落とした。


飲みかけの白ワインのグラスは、淡い黄色を湛えている。


春華と秋華は、何も言わずに2人のそばに控えていた。

その横顔はよく似ている。

けれど、片方の髪は春の陽溜まりのように明るく、もう片方の髪は秋の夜のように深かった。


ティファレトは、白ワインを一気に飲み干す。

そして、ゲブラの方へ再び目をやった。


ゲブラも眼鏡のレンズ越しに、鋭い赤い視線を送る。


赤と黄の光が、薄暗い空間の中で静かに交差した。


窓の外では、月に照らされた海面が、微かに揺れている。


その揺らぎの中に、一瞬だけ、遠い陸地の赤い花の影が浮かんだように見えた。

だが、次の波が来た時には、もう何も残っていなかった。


ただ――

赤と黄の断片だけが、2人の間に淡く漂っていた。


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