第71話 忘却の彼方
「あなたの存在は……私と表裏一体のはず……なぜですか」
安斉が赤瀬先生を睨みつけながら、口を開いた。
表裏一体。
どういう意味なのか。
私には、まったく理解できなかった。
「血迷ったことを……」
赤瀬先生の声は、ひどく冷たかった。
「あなたは長い年月に亘って、人々を苦しめてきた。あなたが人々の“絶望”を糧として生きてきたのならば、私は“希望”を糧として生きてきたのです」
そして――
赤瀬先生は、素早く安斉の方へ歩み寄った。
手には、赤く光るメスのような細い物体が握られている。
私は息を呑んだ。
赤瀬先生はそれを、安斉の喉元へ滑らせるように近づけた。
刃先は安斉の肌へ届いていないように見えた。
それでも、喉元には一本の赤い線が走った。
「う……あ……」
安斉が、喉を押さえる。
真っ白な着物の襟元に、赤い染みがじわりと広がった。
「これは……あなたが奪った名への裁きです」
赤瀬先生の冷たく鋭い言葉が、室内に響く。
「そして、これは……私個人の怒りでもあります」
私は何もできず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
目の前で起こっていることは、果たして現実なのだろうか。
「わ、私を封じたとしても……人間が変わるわけでは……ありませんよ」
安斉は、震える声でそう口にした。
「に、人間は忘れる……奪う……見捨てる。だからこそ……私は、残してあげていたのに……忘れられない形に。永久に……」
安斉の声は、どこまでも穏やかだった。
その穏やかさが、かえって恐ろしかった。
彼は最後まで、自分を悪だとは思っていない。
「忘れないことと、閉じ込めることは違います」
赤瀬先生が、静かに言った。
「あ、あなたは……救ったんじゃありません! ただ……逃げ道を奪っただけじゃないですか」
気がつくと、私までそんなふうに声を出していた。
自分でも驚くくらい自然に。
それを聞いた赤瀬先生は私の方へ目をやると、薄く笑みを浮かべた。
安斉の表情が、わずかに歪んだ。
その時だった――
安斉の周囲に浮かんでいた3つの護符が、淡い光を放った。
赤。
青。
黄。
3つの光が、三角形を描きながら、安斉の身体を包み込んでいく。
「や、やめなさい……私は……私は……」
安斉の声が、少しずつ遠のいていく。
「私は、人間を……救って……」
その言葉は、最後まで続かなかった。
3つの護符が放つ光に包まれた安斉の身体は、輪郭を失っていく。
白い着物。
黒い髪。
整った顔。
それらが、細かな粒子へと変わっていった。
赤い光の粒。
青い光の粒。
黄色い光の粒。
それらはゆっくりと宙に吸い寄せられ、やがて完全に消滅した。
その部屋には、安斉伊佐夫がいたことを示す痕跡さえ残らなかった。
それを見届けるように、3つの護符は静かに床に落ちた。
赤瀬先生は、それらをひとつひとつ丁寧に拾い上げた。
それらは赤瀬先生の手の中で光となり、静かに消えていった。
「ありがとうございます。これで…… “未来に救われる命”があります」
「未来に救われる命?」
私は思わず、口を開いた。
「安斉……いや、サタンは、あなたの命まで狙おうとした。そうなると――」
そこで、赤瀬先生の言葉が途切れた。
赤い左目が、わずかに揺れた気がした。
「それよりも――」
赤瀬先生は一瞬視線を落として、言葉を継いだ。
「私の仕事は、これで終わりました。あなたとは……ここで、お別れです」
その言葉に、胸の奥がざらついた。
赤瀬先生には、まだまだ訊いてみたいことがたくさんあった。
黄島早記のこと。
3つの護符のこと。
安斉伊佐夫のこと。
100年前から続いてきた、この赤い事件のこと。
「では……後日また、お会いできますか」
すぐに私の口から、そんな台詞が出た。
赤瀬先生は、しばらくの間、私の顔をじっと見つめた。
左目の赤い瞳が、温度のない炎のように揺らめいている。
やがて、赤瀬先生は重々しく口を開いた。
「今夜、サタンが封じられたことで、私たちの役目も終わりました。私たちがこの世界から退く時、この事件に深く関わった人々の記憶から、私たちの存在も薄れていきます。それに、安斉に関する記憶も同様に――」
「え……」
私は声を漏らした。
「そして……あなたもお察しの通り、黄島早記も、私と同じ役目を負った人間です。サタンが封じられ、私たちの役目が終わった今、彼女に関する記憶も、あなたの中から消えていきます」
心臓の脈打つ音が、耳の奥にまで響いた。
消える。
赤瀬先生のことも。
黄島早記のことも。
安斉伊佐夫のことも。
ここまで追ってきたものが、私の中から消えてしまう。
「あ……」
“赤瀬先生”と呼ぼうとする。
けれど――
急に、その言葉が口から出なくなった。
喉の奥で、何かが解けていくような感覚があった。
忘れたくない。
そう思った瞬間、私は無意識のうちにスマホを取り出していた。
メモ帳機能を開く。
指が震えている。
それでも、不思議と私の指は流れるような速さで文字を打ち込んでいった。
赤い医師。
黄色い女。
3つの護符。
美。
慈悲。
峻厳。
倫理の三角形。
彼岸花の絵。
6体の妖精。
忘れないで。
忘れないで。
忘れないで。
ふいに、もう一度だけ、赤瀬先生の姿を見た。
彼は、静かに微笑んでいた。
「ご安心ください。あなたをお2人のもとへお戻ししてから、私は去ります。それと……あなたは、記録する人です。たとえ記憶が消えても……記録の残像までは、完全には消せないかもしれません」
「それは……どういう――」
問いかけようとした時だった。
目の前に、真っ赤な光が迫ってきた。
赤い光。
彼岸花のような赤。
血ではなく、夕焼けでもなく、絵の奥に沈んでいたような赤。
その赤が、私の視界をすべて覆い尽くした。
*
私は気づくと、ランドクルーザーの後部座席に眠っていた。
車の窓から射し込む朝の光で、目が覚めたらしい。
前方の運転席には三沢先生。
隣の助手席には陽菜。
2人とも、同じように眠っていた。
私は急いで、2人を起こす。
「三沢先生、陽菜ちゃん……起きてください」
ダッシュボードのアナログ時計が指していた時刻は、午前6時15分だった。
「うん? あれ? ここは、どこだ?」
三沢先生は目を擦りながら、声を出した。
「三沢先生……池内さん……私たち、どうしてこんなところで一緒に寝てるんですか?」
陽菜も大きなあくびをしながら、ゆっくりと言葉を出した。
私も――
いったいなぜ、こんな場所にいるのかわからない。
三沢先生がエンジンをかけて、ナビを起動させる。
画面に表示された現在地は、名古屋市千種区の覚王山周辺だった。
覚王山――
なぜ、こんなところにいるのだろう。
私は必死に記憶を辿ろうとした。
けれど、頭の中には濃い霧のようなものが広がっているだけだった。
何か大切なことがあった気がする。
誰かと会った気がする。
誰かの声を聞いた気がする。
けれど、その輪郭に指を伸ばそうとすると、すぐに崩れてしまう。
*
私たちは、なぜこの場所まで来たのかわからないまま、車を走らせて、陣野先生から借りているマンションまで向かった。
途中で私が三沢先生と運転を代わり、三沢先生は後部座席に移った。
「それにしても、曳野庸平が逮捕されてよかったな。そろそろ、昭和区の賃貸アパートに戻ってもいい頃合いじゃないか」
後部座席に座っている三沢先生が、不意に口を開いた。
「池内さんと一緒にいるの、楽しかったんだけどな。でも、いつまでも陣野先生に迷惑かけるのも悪いですしね」
助手席の陽菜が、窓の外に目をやりながら言った。
たしかに、そろそろ自分の賃貸アパートに戻るタイミングなのかもしれない。
けれど――
私を襲った曳野庸平が逮捕されてから、もう1週間近くが経っている。
なぜ、すぐにそうしなかったのだろう。
何か――理由があったような気がする。
だが、どうしても思い出せなかった。
「私たち、何か……忘れてませんか」
私は、思わず口にしていた。
三沢先生も、陽菜も、しばらく黙った。
「……変だな」
三沢先生が、低い声で言う。
「僕も、何か大事なことを見落としている気がする」
「陽菜もです。何か……すごく怖いことがあったような、でも、思い出せないような」
車内に、奇妙な沈黙が落ちた。
その時、センターコンソールに置いていたスマホの画面が、勝手に点灯した。
通知は何も表示されていない。
私は妙に気になり、路肩にハザードランプを点灯させて、車を停車した。
見ると、メモ帳アプリが開いたままになっている。
そこには、私が打ったとは思えない言葉が並んでいた。
赤い医師。
黄色い女。
3つの護符。
美。
慈悲。
峻厳。
倫理の三角形。
彼岸花の絵。
6体の妖精。
忘れないで。
忘れないで。
忘れないで。
「何……これ」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
赤い医師。
黄色い女。
その言葉を読んだ瞬間、胸の奥が痛んだ。
知らない。
知らないはずなのに――
なぜか、何かを失ったような感覚がある。
私はふと、窓の外を見た。
河川敷に、真っ赤な彼岸花の群生が見えたような気がする。
3月の朝――
彼岸花が咲く時期ではない。
そんなことは、植物の伝承や風土史を研究してきた私には、すぐにわかった。
なのに――
そこにはたしかに、赤い花が揺れていたように見えた。
ほんの一瞬だけだった――
瞬きをすると、河川敷には何もなかった。
ただ、朝の光を受けた草が、風に揺れているだけだった。
けれど、私の網膜には、赤い残像が残っている。
忘れたはずの何かが、まだそこにあるように。
彼岸花の赤だけが、忘却の彼方から、私を見つめ返していた。




