↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
70/74

第70話 倫理の三角形

翌日の夜――


陣野先生から借りていた代替端末のスマホに、赤瀬先生からメッセージが届いていた。


《決行は、今週末の土曜日にします。安斉の邸宅の近くに、立体駐車場があります。そこで、午後8時に待ち合わせをしましょう。私が、必ず池内さんをお守りします》


そのメッセージを受け取った時、思わず武者震いがした。


安斉伊佐夫という得体の知れない人物に対して、恐怖や不安といった感情はたしかにある。


けれど――


私がここで躊躇してしまえば、この世界の未来そのものが崩れてしまうような気がした。


それは、途方もない妄想かもしれない。

にもかかわらず、私の気持ちは少しずつ高揚に変わっていった。


赤瀬先生が一緒に行動してくれるからかもしれない。

三沢先生と陽菜が、途中までついてきてくれるからかもしれない。


「池内さん、これ――」


陽菜が、私に大きな袋を手渡した。

開けてみると、黒いトレーナーの上下が入っている。

上着には、ファスナー付きのポケットも付いていた。


「私がジムで使ってるやつです。私、池内さんと体格が変わらないから、当日はこれを着てください。動きやすい服装の方がいいと思って――」


陽菜の気遣いに、胸が熱くなった。


「ありがとう、陽菜ちゃん」


私は気づくと、陽菜をぎゅっと抱きしめていた。


*


土曜日――


私は事前に打ち合わせた通り、三沢先生と陽菜と一緒に、愛車のランドクルーザーで赤瀬先生との待ち合わせ場所へ向かった。


三沢先生が運転をしてくれて、陽菜が助手席に座っている。


少しでも体力を温存するようにという三沢先生の計らいで、私は後部座席に身を沈めていた。


午後8時少し前――


安斉の覚王山の邸宅から数百メートル離れた場所に位置する、立体駐車場の屋上に到着した。


駐車している車は疎らで、辺りは静寂と薄闇に包まれていた。


私は代替端末のスマホで、到着した旨のメッセージを赤瀬先生へ送った。

そして、車内の照明を点灯させた。


すると、しばらくして、1人の男性のシルエットがゆっくりと近づいてきた。


赤瀬先生だ。


前回会った時と同じ、カーキ色のジャケットにズボン。

そして、赤いタートルネックのシャツ。


違っていたのは、眼鏡をかけておらず、両手に真っ黒な手袋をはめていることだった。


赤瀬先生が後部座席のドアをノックし、私は彼を車内に通した。


「来ていただき、心から感謝します。100年以上に亘る因縁を、今日こそ終わらせましょう」


赤瀬先生はそう言いながら、右手の手袋を外して、指を左目に触れさせた。

彼の指先には、ダークブラウンのコンタクトレンズが載っている。


赤瀬先生が私の方を向いた瞬間、心臓が一段跳ねた。


前の席に座っている2人も、思わずぎょっとした表情をする。


赤瀬先生の左目は、血のように真っ赤な虹彩を湛えていた。


「驚かせて、申し訳ありません。私は左右の目の色が異なる“ヘテロクロミア”なのです。生まれつきではないのですが、“あること”をきっかけに、こんなふうになってしまいました」


赤瀬先生は、外したレンズを小さなケースへ収めて、静かに続けた。


「“峻厳の護符”を使用するためには、この姿の方が都合がいいのです」


そういえば黄島早記も、左目だけが黄色だった。


陽菜はコンタクトレンズと言っていたが、本当は彼女も“ヘテロクロミア”ではないのか。


しかし、今はそんなことを深く考える余裕はなかった。


陽菜が唐突に声を出した。


「……かっこいい」


赤瀬先生は、その言葉を聞いて薄く笑った。


*


三沢先生と陽菜をランドクルーザーの車内に残し、私は赤瀬さんと一緒に安斉の邸宅の門の前に立った。


午後9時までに連絡がなければ、警察へ通報する――

三沢先生とは、そう打ち合わせていた。


建物の白い外観が、不自然なくらい夜の闇に溶け込んでいる。


閑静な住宅街だけあり、周囲には私たち以外に人の気配を感じない。


赤瀬先生が、小声で口を開いた。


「長く動向を調べてきましたが、安斉は毎週土曜日の午後8時から10時まで、必ず離れにある建物の中で瞑想します。おそらく……もうすでに、その建物に入っていると思われます」


しかし、入口の頑丈な門扉には、しっかりとセキュリティが施されている。

きっと敷地の中も、同じような対策がなされているのではないか。


どうやって、中に入ろうというのだろうか。


私がそんなふうに考えを巡らせていると、赤瀬さんはジャケットの内ポケットから“峻厳の護符”を取り出した。


それを宙に掲げる。


すると不思議なことに、入口のセキュリティが解除された。

門扉の電子音が短く鳴り、施錠が外れた。

同時に、防犯カメラの赤いランプも消える。


赤瀬先生は門扉を開くと、敷地の中へ入り、周囲に人影がないことを確かめた。


しばらくして、私に向かって手招きをした。


私は緊張した足取りで、敷地の内部に踏み入れた。


敷地の中はしんと静まり返り、辺りには闇が広がっている。


私は赤瀬先生のすぐ後ろについて、生け垣や塀の内側に沿って、ゆっくりと歩を進めた。


すると――


邸宅の裏手に、小さな建物が見えてきた。

小窓から、淡い光が漏れている。


その瞬間――

身体に冷たい感覚が走った。


いる。


安斉伊佐夫は間違いなく、あの場所にいる。


私の直感が、そう告げていた。


*


赤瀬先生が建物の扉に手をかける前に、囁くように言った。


「今の安斉……いや、サタンなら、瞑想に入り、外へ意識を閉ざしています。今なら、私の峻厳の護符だけで、一時的に動きを封じられるかもしれません。まず私が動きを止めます。完全に封じる時は、あなたの持つ2つの護符が必要です。」


言い終えると、赤瀬先生は扉のノブをゆっくりと回した。


ぎい、と鈍い音がして、扉が開いた。


赤瀬先生がゆっくりと中に入り、私も後に続く。


20畳ほどの部屋の奥で、1人の男が真っ白な作務衣を纏い、座禅を組んでいた。

着物の白が、天井の照明の光に淡く輝いている。


眼鏡をかけていなかったが、髪型と顔つきで、その男が“安斉伊佐夫”であるとすぐに理解した。


私たちの気配を察してか、安斉は目を閉じたまま口を開いた。


「おや? こんな夜分に何事です? 瞑想の邪魔をされるのは、感心しませんね」


安斉の声は、思いのほか柔らかかった。

だが、この柔らかい声色の裏に、人の心を侵す魔性が潜んでいる。


「安斉……いえ、サタン! あなたを封じます」


そう言うや否や、赤瀬先生は、峻厳の護符を手にしながら、安斉へ一気に踏み込んだ。


しかし――


ドン、と鈍い音が響いた。


「こ、ここまで……力をつけているというのか」


赤瀬先生は、息を弾ませながら言葉を漏らした。


安斉は、ゆっくりと両目を開いた。


その視線は、凍るように静かだった。


「この100年以上の間、私は“心ある人たち”に教えてきました。人は忘れられることこそ残酷であり、その姿を永遠に残すことで救われるのです」


安斉は、穏やかな声で続ける。


「私が心を込めて作った額の中で、彼女たちは永久に生き続けるのですよ。あなたたちには、その素晴らしさが理解できないのですか」


ぞっとした。

彼は、自分を悪だと思っていない。

むしろ、本気で人を救っているつもりなのだ。


「……忘れないことと、逃げ道を奪うことは違います。池内さん――」


赤瀬先生が、私の方へ顔を向けた。


「“美の護符”と“慈悲の護符”を!」


赤瀬先生の声に押されるように、私はトレーナーの上着にしまっておいた2つの護符を取り出した。


すると安斉は立ち上がり、目を大きく見開く。


「い、いつの間に? な、なぜ……護符が3つも――」


安斉から声が漏れた瞬間、私の手元を離れた護符が、淡い光を放ってふわりと宙を舞った。


同じく、赤瀬先生が持っていた護符も、彼の手から飛び出して宙に浮かぶ。


3つの護符は、それぞれ光を放ちながら、安斉を囲むように三角形を描いて浮かんだ。


黄。

青。

赤。


「こ、これは……か、身体の力が……抜ける」


安斉は表情を歪めながら、片膝を床についた。


「さすがのあなたも……“倫理の三角形”は想定外だったでしょう。友人たちが託してくれたものですよ」


赤瀬先生は、言葉を続けた。


「慈悲だけでは甘さに流れ、峻厳だけでは残酷に堕ちる。その2つを美が調和させる。我々は、この3つの均衡を“倫理の三角形”と呼んでいます」


倫理の三角形。


その単語が、私の胸の中に静かに響いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。