第70話 倫理の三角形
翌日の夜――
陣野先生から借りていた代替端末のスマホに、赤瀬先生からメッセージが届いていた。
《決行は、今週末の土曜日にします。安斉の邸宅の近くに、立体駐車場があります。そこで、午後8時に待ち合わせをしましょう。私が、必ず池内さんをお守りします》
そのメッセージを受け取った時、思わず武者震いがした。
安斉伊佐夫という得体の知れない人物に対して、恐怖や不安といった感情はたしかにある。
けれど――
私がここで躊躇してしまえば、この世界の未来そのものが崩れてしまうような気がした。
それは、途方もない妄想かもしれない。
にもかかわらず、私の気持ちは少しずつ高揚に変わっていった。
赤瀬先生が一緒に行動してくれるからかもしれない。
三沢先生と陽菜が、途中までついてきてくれるからかもしれない。
「池内さん、これ――」
陽菜が、私に大きな袋を手渡した。
開けてみると、黒いトレーナーの上下が入っている。
上着には、ファスナー付きのポケットも付いていた。
「私がジムで使ってるやつです。私、池内さんと体格が変わらないから、当日はこれを着てください。動きやすい服装の方がいいと思って――」
陽菜の気遣いに、胸が熱くなった。
「ありがとう、陽菜ちゃん」
私は気づくと、陽菜をぎゅっと抱きしめていた。
*
土曜日――
私は事前に打ち合わせた通り、三沢先生と陽菜と一緒に、愛車のランドクルーザーで赤瀬先生との待ち合わせ場所へ向かった。
三沢先生が運転をしてくれて、陽菜が助手席に座っている。
少しでも体力を温存するようにという三沢先生の計らいで、私は後部座席に身を沈めていた。
午後8時少し前――
安斉の覚王山の邸宅から数百メートル離れた場所に位置する、立体駐車場の屋上に到着した。
駐車している車は疎らで、辺りは静寂と薄闇に包まれていた。
私は代替端末のスマホで、到着した旨のメッセージを赤瀬先生へ送った。
そして、車内の照明を点灯させた。
すると、しばらくして、1人の男性のシルエットがゆっくりと近づいてきた。
赤瀬先生だ。
前回会った時と同じ、カーキ色のジャケットにズボン。
そして、赤いタートルネックのシャツ。
違っていたのは、眼鏡をかけておらず、両手に真っ黒な手袋をはめていることだった。
赤瀬先生が後部座席のドアをノックし、私は彼を車内に通した。
「来ていただき、心から感謝します。100年以上に亘る因縁を、今日こそ終わらせましょう」
赤瀬先生はそう言いながら、右手の手袋を外して、指を左目に触れさせた。
彼の指先には、ダークブラウンのコンタクトレンズが載っている。
赤瀬先生が私の方を向いた瞬間、心臓が一段跳ねた。
前の席に座っている2人も、思わずぎょっとした表情をする。
赤瀬先生の左目は、血のように真っ赤な虹彩を湛えていた。
「驚かせて、申し訳ありません。私は左右の目の色が異なる“ヘテロクロミア”なのです。生まれつきではないのですが、“あること”をきっかけに、こんなふうになってしまいました」
赤瀬先生は、外したレンズを小さなケースへ収めて、静かに続けた。
「“峻厳の護符”を使用するためには、この姿の方が都合がいいのです」
そういえば黄島早記も、左目だけが黄色だった。
陽菜はコンタクトレンズと言っていたが、本当は彼女も“ヘテロクロミア”ではないのか。
しかし、今はそんなことを深く考える余裕はなかった。
陽菜が唐突に声を出した。
「……かっこいい」
赤瀬先生は、その言葉を聞いて薄く笑った。
*
三沢先生と陽菜をランドクルーザーの車内に残し、私は赤瀬さんと一緒に安斉の邸宅の門の前に立った。
午後9時までに連絡がなければ、警察へ通報する――
三沢先生とは、そう打ち合わせていた。
建物の白い外観が、不自然なくらい夜の闇に溶け込んでいる。
閑静な住宅街だけあり、周囲には私たち以外に人の気配を感じない。
赤瀬先生が、小声で口を開いた。
「長く動向を調べてきましたが、安斉は毎週土曜日の午後8時から10時まで、必ず離れにある建物の中で瞑想します。おそらく……もうすでに、その建物に入っていると思われます」
しかし、入口の頑丈な門扉には、しっかりとセキュリティが施されている。
きっと敷地の中も、同じような対策がなされているのではないか。
どうやって、中に入ろうというのだろうか。
私がそんなふうに考えを巡らせていると、赤瀬さんはジャケットの内ポケットから“峻厳の護符”を取り出した。
それを宙に掲げる。
すると不思議なことに、入口のセキュリティが解除された。
門扉の電子音が短く鳴り、施錠が外れた。
同時に、防犯カメラの赤いランプも消える。
赤瀬先生は門扉を開くと、敷地の中へ入り、周囲に人影がないことを確かめた。
しばらくして、私に向かって手招きをした。
私は緊張した足取りで、敷地の内部に踏み入れた。
敷地の中はしんと静まり返り、辺りには闇が広がっている。
私は赤瀬先生のすぐ後ろについて、生け垣や塀の内側に沿って、ゆっくりと歩を進めた。
すると――
邸宅の裏手に、小さな建物が見えてきた。
小窓から、淡い光が漏れている。
その瞬間――
身体に冷たい感覚が走った。
いる。
安斉伊佐夫は間違いなく、あの場所にいる。
私の直感が、そう告げていた。
*
赤瀬先生が建物の扉に手をかける前に、囁くように言った。
「今の安斉……いや、サタンなら、瞑想に入り、外へ意識を閉ざしています。今なら、私の峻厳の護符だけで、一時的に動きを封じられるかもしれません。まず私が動きを止めます。完全に封じる時は、あなたの持つ2つの護符が必要です。」
言い終えると、赤瀬先生は扉のノブをゆっくりと回した。
ぎい、と鈍い音がして、扉が開いた。
赤瀬先生がゆっくりと中に入り、私も後に続く。
20畳ほどの部屋の奥で、1人の男が真っ白な作務衣を纏い、座禅を組んでいた。
着物の白が、天井の照明の光に淡く輝いている。
眼鏡をかけていなかったが、髪型と顔つきで、その男が“安斉伊佐夫”であるとすぐに理解した。
私たちの気配を察してか、安斉は目を閉じたまま口を開いた。
「おや? こんな夜分に何事です? 瞑想の邪魔をされるのは、感心しませんね」
安斉の声は、思いのほか柔らかかった。
だが、この柔らかい声色の裏に、人の心を侵す魔性が潜んでいる。
「安斉……いえ、サタン! あなたを封じます」
そう言うや否や、赤瀬先生は、峻厳の護符を手にしながら、安斉へ一気に踏み込んだ。
しかし――
ドン、と鈍い音が響いた。
「こ、ここまで……力をつけているというのか」
赤瀬先生は、息を弾ませながら言葉を漏らした。
安斉は、ゆっくりと両目を開いた。
その視線は、凍るように静かだった。
「この100年以上の間、私は“心ある人たち”に教えてきました。人は忘れられることこそ残酷であり、その姿を永遠に残すことで救われるのです」
安斉は、穏やかな声で続ける。
「私が心を込めて作った額の中で、彼女たちは永久に生き続けるのですよ。あなたたちには、その素晴らしさが理解できないのですか」
ぞっとした。
彼は、自分を悪だと思っていない。
むしろ、本気で人を救っているつもりなのだ。
「……忘れないことと、逃げ道を奪うことは違います。池内さん――」
赤瀬先生が、私の方へ顔を向けた。
「“美の護符”と“慈悲の護符”を!」
赤瀬先生の声に押されるように、私はトレーナーの上着にしまっておいた2つの護符を取り出した。
すると安斉は立ち上がり、目を大きく見開く。
「い、いつの間に? な、なぜ……護符が3つも――」
安斉から声が漏れた瞬間、私の手元を離れた護符が、淡い光を放ってふわりと宙を舞った。
同じく、赤瀬先生が持っていた護符も、彼の手から飛び出して宙に浮かぶ。
3つの護符は、それぞれ光を放ちながら、安斉を囲むように三角形を描いて浮かんだ。
黄。
青。
赤。
「こ、これは……か、身体の力が……抜ける」
安斉は表情を歪めながら、片膝を床についた。
「さすがのあなたも……“倫理の三角形”は想定外だったでしょう。友人たちが託してくれたものですよ」
赤瀬先生は、言葉を続けた。
「慈悲だけでは甘さに流れ、峻厳だけでは残酷に堕ちる。その2つを美が調和させる。我々は、この3つの均衡を“倫理の三角形”と呼んでいます」
倫理の三角形。
その単語が、私の胸の中に静かに響いた。




