第67話 再び広島へ
翌日――
私は午前8時過ぎの新幹線に乗り、広島へ向けて出発した。
バッグの中には、陣野先生から渡された代替端末であるスマホを入れていた。
目指すのは、広島市中区にある原爆ドームのそばにある“おりづるタワー”だった。
広島出身の私にとって、縁が深い場所である。
私が広島で通っていた学校では、小学校から高校まで、夏休み中の8月6日が平和登校日となっていた。
午前8時15分にはサイレンに合わせ、全員で黙祷を捧げた。
その記憶は――
広島を離れて8年近く経つ私にとっても、今なお脳裏に焼き付いている。
昨日の通話内容が犯人側へ漏れている可能性があるため、愛知県警と広島県警にも待ち合わせ場所を伝えてあった。
ただ、具体的な警護の配置までは、私には知らされていない。
三沢先生と陽菜も、同じ新幹線で広島へ向かっている。
現地に着いてからは、少し離れた場所で私を見守ることになっていた。
最初は、私と一緒に“黄島早記”と会うと言っていた。
けれど私は、
「1人で会った方がいい気がするんです」
と言って拒んだ。
黄島早記から「1人で来るように」と言われたわけではない。
その声は、スマホのスピーカーから、三沢先生と陽菜の耳にも入っていた。
“オリガ・ストラースチ”の件もあり、2人とも私の身を案じてくれているのだ。
とはいえ――
黄島早記と会うのは、私1人がいい気がする。
そんな感覚が、胸の内から離れなかった。
「じゃあ、僕たちは少し離れた場所で待機していよう」
「何かあったら、すぐ行きますから!」
三沢先生と陽菜は、最終的にはそう言って折れてくれた。
実際に1人で行動するよりは、はるかに心強い。
それでも、黄島早記と会うのは1人がいい。
この時は想像していなかったが、1人で会いながらも、彼らが近くで待機するという判断が、私を救うことになった。
*
私は広島駅に着くと、広島電鉄に乗り、原爆ドーム前まで向かった。
車窓からは、快晴の青の下に、故郷の懐かしい景色が流れていく。
原爆ドーム前の駅に到着したのは、約束の午前11時のおよそ10分前だった。
被爆後も残った鉄骨のドームが、真っ青な空を背景に静かに佇んでいた。
平日にもかかわらず、周囲は観光客などの人々で賑わっている。
そんな人波を通り抜けて、待ち合わせ場所である“おりづるタワー”の最上階を目指した。
エレベーターで最上階の展望台に到着すると、私は右手首のデジタル腕時計を見た。
午前11時ちょうどを表示している。
展望台の窓の向こうには、太陽の光を受けた原爆ドームの壁が輝いていた。
私は、周囲を見渡した。
先ほどまで聞こえていた観光客の声が、そこへ足を踏み入れた瞬間、嘘のように遠のいた。
そして、私が部屋の中央まで進んだ時だった――
「池内茜さんですね」
目の前の柱の周辺から、高い女性の声が響いた。
声の主が、ゆっくりと柱の陰から姿を現す。
サングラスをかけた、金色の長髪を揺らす女性。
窓ガラスを通した光が、彼女の背後から射し込んでいる。
その光が、身に着けている黄色の地の服に反射していた。
黄色地の花柄ブラウスから覗く細長い指先。
同じ黄色の短いスカートから伸びる脚。
均整の取れた、美しいプロポーションの女性だった。
女性は私の方へ近づきながら、サングラスを外す。
そして、右手に抱えていたベージュのバッグの中にしまった。
左目には、向日葵を思わせる黄色い虹彩が輝いていた。
よく見ると、プロポーションだけではない。
顔のパーツも、異様なほど整っている。
そして、私はすぐに理解した。
その女性へ、思わず問いかけた。
「“黄島早記”さん……ですよね?」
その女性は声を出すことなく、微笑みながら軽く頷いただけだった。
「あ、あの……あなたは、いったい何者なんですか? 100年前も、40年前も……ずっと同じような姿のままで生きている。失礼ですが……私と同じ人間なのですか」
よほど興奮していたのだろう。
かなり大胆な台詞が、口から出た。
だが、黄島さんは笑顔を崩さない。
私の質問に、淡々と答えた。
「私が何者かということは……今の私には、まだお答えすることができません。人間かどうかということでしたら……間違いなく、あなたと同じ人間です」
答えをはぐらかされているような気がした。
私は少しムッとしてしまう。
表情に出てしまい、黄島さんに察知されたような気もした。
それでも、彼女の笑顔が崩れることはなかった。
数秒の沈黙の後、黄島さんは、先ほどサングラスをしまったベージュのバッグの中から、今度は青い長方形のものを取り出した。
それを、私の方へ差し出す。
よく見ると、先日城野記念館で畑崎さんに手渡された“護符”と、まったく同じ形をしていた。
ただし、色は青い。
「これは、私の“古い友人”から預かった“慈悲の護符”というものです。これを……あなたにお預けします。あなたがすでに手に入れている“美の護符”と合わせて、きっと、あなたの役に立ってくれることでしょう」
黄色の護符は“美の護符”というのか――今も、バッグの中に忍ばせてある。
黄島さんがそう口にして手渡そうとした時、彼女の細い指が、伸ばした私の手に触れた。
微かに触れた彼女の指は、思いのほか温かかった。
私が慌てて顔を上げると、黄島さんの左目の黄色い虹彩が、私の顔を静かに射抜いていた。
「なぜ……これを私に?」
私がそう訊いても、黄島さんは何も答えなかった。
私は仕方なく、受け取った“慈悲の護符”を自分のバッグの中にしまい込んだ。
それからすぐ――
背後から、何者かがこちらへ近づいてくるような気配を感じた。
振り返った瞬間、男が猛スピードでこちらに突進してくるのが目に入った。
男は私を突き飛ばすと、その勢いのまま黄島さんの背後へ回り込み、左腕で身体を拘束した。
黒いキャップ。
全身黒ずくめの服。
一昨日の夜、私を陣野先生のマンションで襲った男だった。
この男が、この場にピンポイントで現れた。
昨日の通話内容が盗聴されていたなら、午前11時に私がここへ来ることも、犯人側へ筒抜けだったのだ。
男は左腕を黄島さんの身体に回して、がっちりと掴んでいる。
右手に持ったナイフの刃は、彼女の喉元へぴたりと押し当てられていた。
男はナイフを一度左手へ持ち替えると、右手をポケットへ入れ、ライターを私の足元へ放り投げた。
すぐにナイフを右手へ戻し、再び黄島さんの喉元へ押し当てる。
「それで……あの“護符”を燃やせ。この場で、すぐ……だ。早くしないと、この女を――」
私は、全身の震えが止まらなかった。
だが、男の言う通りにしなければ、黄島さんの命が危ない。
その時、黄島さんが声を出した。
「“黄色い護符”に火を点けてください!」
護符を燃やせというのか。
だが、黄島さんは“黄色い護符”と言った。
青い護符ではない。
黄島さんの表情は、まったく動揺していなかった。
もしかしたら――
何か考えがあるのではないか。
私はバッグから、あの時以来、肌身離さず持っていた“美の護符”を取り出した。
きっと、男もそうだと確信していたのだろう。
「そう……それだよ。見るだけで……気分が悪くなる。さあ……早く――」
私は覚悟を決め、ライターで“美の護符”に火を点けた。
赤い炎が、護符を包み込む。
けれど、次の瞬間――
護符が炎を纏ったまま宙に浮かんだ。
そこから、黄色い羽を持つ鳩のような光が2つ飛び出し、男の方へ向かっていく。
1羽は微かに明るい光を、もう1羽はやや仄暗い光を放っているように見えた。
まるで、手品を目にしているようだった。
「うわあっ!」
男は黄島さんから身体を離すと、奇声を上げながらエレベーターの方へ走っていく。
だが、男がエレベーターの前に立ち、階数ボタンを押そうとした瞬間、扉が開いた。
エレベーターから、屈強な男性2人が真っ先に飛び出した。
その後ろには、三沢先生と陽菜の姿があった。
男性の1人が声を上げる。
「警察だ! 曳野庸平だな!」
そう叫びながら、もう1人の男性とともに、曳野の身体を拘束した。
「ち、ちくしょう……救いを、救いを……完成させないと……」
曳野は叫びながら、2人の刑事に拘束され、エレベーターの中へ連行されていった。
一瞬の出来事に、私は口を半開きにしたまま、その場から動けなかった。
三沢先生が近づいてくる。
「実は……昨日、やはり黄島早記との通話内容が犯人側へ漏れていた可能性が高いと、陣野先生から連絡を受けたんだ。そこで愛知県警と広島県警へ待ち合わせ場所を知らせ、周囲を警戒してもらっていた」
三沢先生は、陽菜へ視線を向けた。
「真田くんも、警察庁に勤める伯母さんへ相談して、両県警の連携を早めてくれたんだ」
「み、三沢先生……それは言わない約束じゃ」
陽菜は顔を真っ赤にして、口を尖らせた。
「警察が警護することは伝えていたが、曳野に悟られないよう、具体的な配置までは君に知らせなかった。曳野は警戒中の刑事の目を一時的に逃れ、非常階段から展望フロアへ侵入したらしい」
三沢先生は、曳野が連行されたエレベーターへ視線を向けた。
「刑事から連絡を受け、僕たちはエレベーターで急行してきたんだ。下には、協力要請を受けた広島県警の警察官も待機している。もう……曳野は逃げられない」
「三沢先生……陽菜ちゃん……本当にありがとうございます」
私は、思わず頭を深々と下げた。
そして、
「黄島さん、大丈夫でしたか?」
と声をかけながら、後ろを振り向いた。
だが――
そこには、誰の姿も見えなかった。
展望室のあちらこちらを目で追ってみても、そこには私以外に、三沢先生と陽菜の姿しかない。
ふと、床に目をやると、“美の護符”が落ちていた。
拾い上げて確認しても、不思議なことに、火で焦げたような跡は一切見当たらない。
窓から射し込む光を受けて、静かに光沢を放っている。
「池内さん……黄島早記とは会えたんですか?」
陽菜の質問で、私は急に不安に駆られた。
今度は、バッグの中を確かめた。
けれど――
そこには、間違いなく青い地の“慈悲の護符”が入っていた。




