第66話 オリガ・ストラースチ
翌日の朝――
昨夜、三沢先生が部屋を出る際に、
「念のため、今日は外出を控えた方がいい」
と言っていた。
陽菜も「大したことないですよ」と強がってはいる。
けれど、男に腹を殴られたのだ。
後で駆けつけた救急隊員からは腹部の打撲だろうと言われたものの、完全に痛みが引いたわけではないようだ。
私はリビングのソファに寝転がってスマホを眺めている陽菜を横目に、昭和区の賃貸アパートから持ち込んだノートパソコンを開いていた。
テーブルの上に乗せ、画面を見ながら両手の指を動かす。
博士論文の構成を纏めるためだ。
明日はいよいよ、広島の原爆ドームが見える“おりづるタワー”で“黄島早記”と会う。
約100年に亘って記録が残る“黄島早記”という人物と、ついに対面することになる。
しかも、相手の方から接触してきたのだ。
緊張が半分。
期待が半分。
彼女と会うことで、私が追っている暗闇の中に、光が射し込むかもしれない。
どうか……必ずお越しください――
黄島早記の最後の言葉が、何度も耳の中で反響していた。
*
午前10時を過ぎた頃だった。
突然、ノートパソコンの横に置いていたスマホが鳴り出した。
三沢先生だった。
「池内くん、緊急事態だ! 今日は外出を控えるように言ったんだけど、今から迎えに行く。陣野先生の研究室に行こう! それと、この通話が終わったら、必ずスマホの電源を落としてくれ。じゃあ、後ほど」
三沢先生は早口でそれだけ言うと、ぶつりと通話を切った。
いったい、何が起こったというのか。
おまけに――
スマホの電源まで落とせとは、どういうことだろう。
それから約20分後。
三沢先生が部屋へ駆けつけた。
「池内くん、スマホの電源は切ってるね?」
再度、念を押してくる徹底ぶりだった。
「……はい。言われた通りに」
私は言いながら、スマホを三沢先生に手渡した。
「いったい、どういうことなんですか」
私は思わず問い詰めた。
「結論から言えば……君のスマホには、追跡型のマルウェアが侵入している可能性がある」
三沢先生は、私のスマホを裏返したり表に戻したりしながら、それに視線を落としたまま答えた。
「マルウェア?」
ソファに座っていた陽菜が立ち上がり、声を出した。
三沢先生は私のスマホを、持参した銀色の電波遮断袋へ入れた。
「詳しいことは、陣野先生の研究室で、彼の口から聞いてくれ。下にタクシーを待たせてある。急いで出よう!」
私と陽菜は、三沢先生に促されるまま、タクシーで大学の陣野研究室まで向かうことになった。
*
陣野先生の研究室を訪ねると、彼は壁際のテーブルに置いてある大きなデスクトップパソコンの前に座ったまま、画面を見つめて腕組みをしていた。
3台並んだモニターのうち、中央の画面に、複雑な英数字の列が表示されていた。
「あ……お待ちしていました。どうぞ、お掛けください」
折り畳み式の椅子が3脚、陣野先生が座っている周囲に、事前に準備されていた。
私たち3人が着席するなり、陣野先生が口を開いた。
「池内さん……君のスマホを貸してくれないか?」
陣野先生に言われて、私は自分のスマホを彼に手渡した。
陣野先生は、ネットワークから隔離された解析専用端末へ、スマホをUSBケーブルで接続した。
画面の中を、デジタルの英数字が高速で流れ始めた。
しばらくすると、画面の中に、消去したはずの“彼岸花の画像”が表示された。
真っ黒な背景に浮かんだ赤。
数日ぶりに目にしても、その色は私の背筋を冷たくした。
「池内さん、君は……この画像を受け取った段階で、マルウェアに感染してしまったようだ」
「ど、どういうことですか」
私は陣野先生の顔に視線を移し、思わず声を漏らした。
「このマルウェアは厄介でね。画像を受け取った段階で、端末の中に入り込むんだ。君が添付画像を開いた時、画像表示機能の脆弱性を突かれたらしい。その瞬間に、追跡型のプログラムが端末へ入り込んだようだ」
陣野先生の声は、淡々としていた。
「いわば……君のスマホが、相手のGPS代わりになっていたということだよ」
私の全身が、凍りついたような感覚に襲われた。
「さらに厄介なのは、一度画像を消去しても、その効果が継続していることなんだ。ちょっと、待ってて――」
陣野先生が高速でキーボードを叩く。
画面が切り替わり、再び英数字の列が高速で動き出した。
そして、その動きが止まったのを確認してから、陣野先生は別のスマホを私に手渡した。
「侵入していたプログラムは隔離できた。ただ、完全に安全だと断定はできない。端末はこのまま預かり、初期化してOSを入れ直す。しばらくは、この代替端末を使ってくれ」
私は陣野先生から渡されたスマホを、震える手で受け取った。
「これが……倉林先生や遠藤さんのスマホにも仕込まれていたということでしょうか」
三沢先生が、陣野先生の方へ向き直って尋ねる。
「はい。警察の正式な依頼を受け、2人の端末から作成された解析用データを調べました。その結果、同じマルウェアの痕跡が確認できました」
「なるほど……だから犯人は、わずかな時間で遠藤さんを殺害できたわけだ。それに……位置情報だけじゃない。マイクが遠隔で起動され、周囲の音声まで外部へ送られていた可能性がある。そうなら、同僚が車を離れ、遠藤さんが1人になったことも把握できたはずだ」
三沢先生が、腕を組んだまま呟いた。
「待ってください! 昨日、このスマホで黄島早記に電話しました。明日の待ち合わせ場所も、通話の中で――」
陣野先生の表情が変わった。
「通話内容まで盗聴されていたなら、その約束も相手に知られている可能性がある」
怖かったのは――
見た人間の精神を侵食する“彼岸花の画像”だけではなかった。
それに加えて、その画像を利用して侵入したマルウェアが、犯人の目になっていたという事実だ。
「こ、これって……何ていう名前のマルウェアなんですか」
陽菜が小さな声で、陣野先生に訊いた。
「厳密には、追跡型スパイウェアに近い。昨年秋頃から、限られたセキュリティ研究者の間で追跡されている、一般には公表されていないマルウェアだ」
陣野先生は、画面に表示された文字列へ目を向ける。
「通称は、“オリガ・ストラースチ”。出所については諸説ある。ロシア語圏の研究機関で開発されたという説もあるが、裏付けはない」
陣野先生は、一拍置いた。
「僕は仲間の研究者たちと、このマルウェアの解析と駆除方法を研究していたんだ。存在自体は知られていたが、完全な検体が手に入らず、感染経路も特定できていなかった。今回、同じ画像を受け取った3人の端末を比較して、ようやく全体像が見えてきた」
そう言って、陣野先生は大きく息を吐いた。
オリガ・ストラースチ――
私を襲った男。
あるいは、その背後にいる者。
その背後には、怪異だけでなく、高度な技術を操る組織まで存在しているのかもしれない。
もちろん、何の備えもなく向かうわけにはいかない。
それでも――
やはり、明日の午前11時、原爆ドームを望む“おりづるタワー”で“黄島早記”と会う必要がある。
私の直感が、そう告げていた。




