第64話 襲撃
それから数日――
何事もない日が続いた。
それでも、城野記念館で受け取った黄色い護符だけは、外出時も必ずバッグへ入れていた。
陣野先生が研究用に借りている家具付きマンションは駅に近く、交通の便もよかったため、大学との往復もそれほど負担ではなかった。
当面の間、一緒に生活をすることになった陽菜は、私の行く先々についてきてくれた。
陽菜は自称、“合気道の達人”らしい。
夜のバイトもしばらく休んで、私の身辺警護をしているかのように振る舞っている。
私よりも年下なのに、まるで保護者のようだった。
陽菜だけではない。
三沢先生も、事あるごとに私の安否を確認してくる。
過保護ではないかと思うくらいに。
けれど、彼らのその気持ちは嬉しかった。
3月も上旬に入り、いよいよ暖かい日も増えてきた。
冬が終わり、春になろうとしている。
*
「それにしても、遠藤さんと倉林先生を殺した犯人って、まだ捕まってないんでしょ? 警察も、仕事が遅いなあ」
夕食が終わり、リビングで寛いでいると、不意に陽菜が口を開いた。
陽菜の言う通り、2人を殺したと思われる犯人は、今のところ捕まっていない。
三沢先生の話によると、警察も曳野庸平の存在自体は把握しているらしい。
ただ、現時点では、倉林先生の患者の1人として確認しているだけで、容疑者としては見ていないようだった。
曳野が疑わしいと感じているのは、私たちだけだ。
警察から見れば、彼は殺害された倉林さんの患者の1人でしかないはずだった。
遠藤さんに至っては、曳野と結びつくような線すらないのではないか。
私たちが曳野を疑っている理由は、倉林先生の記録だけではなかった。
防犯システムの解析に協力した陣野先生によると、倉林先生が殺害された時間帯だけ、防犯カメラとオートロックの記録に、不自然な欠落が生じていたらしい。
こんな真似をするには、卓越したITスキルが必要になるのではないか――
曳野の職業は、“システムエンジニア”だ。
職業だけで疑うのは早計かもしれない。
それでも、気にかからずにはいられなかった。
「犯人が捕まるまで、私、ずーっと池内さんのそばから離れませんからね!」
陽菜が私に顔を近づけ、そう宣言した。
犯人が捕まらなければ、陽菜まで危険に晒すことになる。
私にとって、それは自分のこと以上に避けたいことだった。
「あっ……」
陽菜がいきなり、目を丸くして口を開いた。
「……メイク落とし買うの忘れちゃいました。近くのコンビニで買ってきます。5分で戻りますから。池内さん……絶対に部屋から出ちゃいけませんよ! それに、他の人を部屋に入れたりとか――」
「はいはい。わかってます!」
私は陽菜の言葉を遮った。
本当の保護者みたいだ。
「よろしい」
そう言って、陽菜は白い歯を見せ、腕組みをした。
その姿が、妙にかわいかった。
陽菜がバッグを持って、部屋を後にする。
玄関の鍵が閉まる音がした。
私は、それを聞いてから、ようやくソファに身体を沈めた。
*
陽菜が部屋を出てから、しばらく経った頃だった。
カタン――
玄関の方から、電子錠が外れるような音がした。
次の瞬間、部屋中の照明が一気に消えた。
私はびくりと身体を震わせた。
辺りは、完全な暗闇に沈んだ。
そんな闇の中に、人の気配を感じる。
玄関は施錠されている。
陽菜が戻ってくるには早すぎる。
玄関の方で、もう一度小さな音がした。
直後、照明が一斉に点いた。
闇の中が、一転して明るくなる。
私はその変化に、一瞬視界を奪われた。
徐々に視野が回復した時だった。
私は、恐怖で身体が凍りつき、指一本動かせなかった。
動かそうという意思はある。
それなのに、身体が言うことを聞いてくれない。
目の前に、1人の男が立っていた。
目深に黒いキャップを被っている。
身に着けているものは、どれも黒だった。
右肩から下げている大きなバッグの色も、黒い。
男はゆっくりとした足取りで、私の方へ近づいてきた。
私の身体は、相変わらず動かない。
男の顔が、至近距離まで迫った。
キャップのつばに隠れた両目が見える。
大きく見開かれた目の中で、黒い瞳孔だけが異様なほど小さく縮んでいた。
「きれいに……きれいに飾ってあげよう。そうすれば……あなたは救われる」
男は下げていたバッグの中から、ロープのようなものを取り出した。
どういうふうに使うのか、容易に想像がついた。
まだ、身体が動かない。
もうだめだ。
そう思った時だった。
「池内さん!」
陽菜の声が、玄関の方から響いた。
戻ってきたのだ。
その声が耳に届いた瞬間、身体の奥で何かが弾けたような気がした。
「陽菜ちゃん! 逃げて!」
ようやく大きな声が出た。
気づくと私は、男の腕にしがみついていた。
「池内さんから離れろ!」
陽菜がそう言いながら、こちらへ飛びかかってくる。
すると、男は簡単に私の腕を振り解き、横に身をかわした。
陽菜は男の手首を掴むと、身体を入れ替え、床へ投げようとした。
しかし、男は強引に腕を振りほどいた。
「君みたいな……化粧の濃い小娘に用はないんだ」
「な、何だと!」
陽菜は顔を真っ赤にして、飛びかかる。
しかし、男の拳を腹部に受けて、その場に膝をついた。
「う……」
陽菜の口から、鈍い声が漏れた。
「陽菜ちゃん!」
私は夢中で、男に自分の身体をぶつけた。
自分でも驚くほど、身体が勝手に動いていた。
男はバランスを崩し、テーブルに身体をぶつけて床に転がる。
その時、テーブルの上に置いていた私のバッグから、中身が床へ散乱した。
「う……うわっ」
男がその方向に目をやった時、不意に怯えたような声を漏らした。
「き……黄色……」
男の顔が、恐怖に引きつった。
男の視線の先には、黄色の地に金色の刺繍が施された長方形の“護符”があった。
男は慌てたように立ち上がると、一目散に部屋を出ていった。
「ひ、陽菜ちゃん! 大丈夫?」
私はすぐに、うずくまっている陽菜に声をかけた。
「だ、大丈夫です。これでも……けっこう身体……鍛えてる方なんで」
陽菜は腹部を押さえたまま、苦しそうに笑った。
陽菜の無事を確認すると、私は大きく息を吐いた。
床に落ちた“護符”に目が行く。
これを見て、男は明らかに怯えた。
私は床から“護符”を拾い上げると、埃を払い、丁寧にテーブルの上に置いた。
私と陽菜を――
守ってくれたのだ。
「い、池内さん……これ……」
背後から、陽菜の声が聞こえてきた。
男が逃げた拍子に、床へ落ちたバッグの口が大きく開いていた。
その中には、大量の“彼岸花の画像をプリントした紙”が詰め込まれていた。




