第62話 封印を解く
応接室の中を、沈黙が支配した。
俯いた姿勢の私へ、隣に座っている三沢先生の視線を感じる。
何度も私の方へ目をやり、何かを言いたそうにしていた。
あの絵を追うのはやめた方がいい――
この期に及んでも、そう言いたげな気配を感じる。
反対側に座っている陽菜も、珍しく快活な表情を消していた。
そんな状況の中――
私は意を決した。
正面に座る畑崎さんへ、はっきりと告げた。
「畑崎さん……例の“封印された箱”の中身を確認させてください」
三沢先生も、陽菜も、びくりと身体を震わせた。
そして、ほぼ同時に私の方へ顔を向けた。
ついに――
言ってしまった。
気づけば、全身から、嫌な汗が噴き出すのを感じた。
けれど、不思議と後悔はなかった。
覚悟は決めていた。
深く呼吸を繰り返すうちに、震えは少しずつ収まっていった。
畑崎さんは、しばらくの間、私の顔を見つめていた。
まるで――
私の覚悟を見定めているような目だった。
「……承知いたしました」
やがて、畑崎さんが重い口を開く。
「城野先生からも、いつかこの箱を必要とする方が現れた時は、その方の判断に委ねるよう申しつかっております。しばらくお待ちください」
そう言うと、畑崎さんはゆっくりと立ち上がり、応接室を後にした。
*
およそ5分後――
畑崎さんが戻ってきた。
両腕には、例の“封印された箱”を抱えている。
畑崎さんは、それを私の目の前のテーブルに置いた。
トン――
微かな音が、私の耳の中に落ちる。
本当に微かな音のはずなのに、なぜか重々しく、大きな音に聞こえた。
鈍い光沢を放つ黒。
十字に貼られた封印紙。
そして、紙と箱に跨る城野賢志の朱印。
以前目にした時よりも、その存在はいっそう異様なものとして映った。
再び正面に座った畑崎さんが、神妙な面持ちで口を開く。
「もう一度だけ、申し上げます。開けるかどうかは……池内さまがお決めください」
畑崎さんの言葉に、私の背筋が無意識に伸びた。
同時に、喉元が大きく動く。
私はゆっくりと、封印紙へ指をかけた。
封印紙を剥がすと、紙と箱にまたがって押されていた“城野”の朱印が裂けた。
その瞬間、後戻りできない場所へ足を踏み入れた気がした。
そして――
黒いプラスチック製の箱の蓋を外した。
中身は、幾重にも積み重なった古い紙の資料だった。
長い年月、密閉されていた古紙特有の匂いが鼻を突いた。
畑崎さんが用意した薄手の手袋をはめ、私は資料へ手を伸ばした瞬間――
一度、私の手が止まった。
怖い。
その感情は、まだ身体の奥に残っていた。
ふと、西嶋千晶さんの言葉が脳裏を掠めた。
「あの資料は、“1人で見てはいけない”と言われていました。複数なら……」
私は右隣の三沢先生に声をかけた。
「三沢先生……この資料は、複数で見れば大丈夫なのかもしれません。一緒に……見てもらえますか」
「もちろんだ。けれど、複数なら安全だという保証はない。それでも開けるなら――」
三沢先生は、すぐに答えてくれた。
そして、陽菜の方へ目を向けると、
「……真田くんまで無理をする必要はない」
と口にした。
「嫌です。池内さんだけに見せる方が危ないなら……私も見ます」
三沢先生だけでなく、陽菜までそう言ってくれた。
「2人とも……ありがとう」
目頭に、温かいものを感じる。
迷いを振り払った私は、資料の束を慎重に取り出した。
そして、ひとつひとつをテーブルの上に並べていく。
書簡。
手記。
目録。
宗教家に関する記録。
九鬼貞一に関係する断片。
彼岸花の絵に関する覚書。
それから2時間近く、私たちは手分けして資料を読み進めた。
畑崎さんは口を開かず、固い表情のまま、私たちの作業を見守っていた。
その中で、私の目に引っかかる文字があった。
宗教家に関する記録――
誰が書いたものかわからないその資料の中に、宗教家を名乗る人物の名前が記されていた。
1920年代に恋人の殺害を疑われ、その後、家族や使用人を殺害した“九鬼貞一”。
その九鬼貞一に接触していたとされる人物。
名前は――
“安斉伊佐夫”。
やはり、私の予感は正しかった。
“黄島早記”と同様に、“安斉伊佐夫”という名の人物も、時代を跨いで存在していたのだ。
「池内くん……ここ」
三沢先生が、別の資料のページを私の方へ向けた。
三沢先生の右手の人差し指が示す先には、どこかで聞いたような文章があった。
傷を見つめなさい――
本当の姿を残しなさい――
忘れられることこそが残酷なのです――
「倉林先生の記録にあった、曳野という患者の言葉に似ているな」
三沢先生は、低い声で呟く。
そして――
私は、これらに続く文章を目にした瞬間、背筋が凍りついた。
救済のために、絵の中に閉じ込めなさい――
「これは……この“安斉伊佐夫”という宗教家の言葉だと思います」
私は自分の読んでいた資料を、三沢先生に手渡した。
「“安斉伊佐夫”って……この前に調べた心理セラピストと同じ名前じゃ?」
陽菜が声を震わせた。
私は無意識に、“安斉伊佐夫”という文字を指先で宙になぞっていた。
その文字だけは、紙の中でまだ生きているように見えた。




