第59話 それでも追う理由
その画像を見た瞬間――
私の血の気が引いていくのがわかった。
漆黒の闇に浮かぶ真っ赤な花が、スマホの画面の中から、凍りつくような冷気を放っているように感じた。
遠藤美幸さん。
倉林明日香先生。
この2人に送られてきたものが、今まさに私のスマホの中にある。
「いけない!」
三沢先生の高い声が、雑然とした研究室の中に響いた。
三沢先生は、送信元と受信日時を自分のスマホで撮影した。
そして――
「画像を消去するんだ!」
その声に背中を押されるように、私は添付画像の画面を閉じると、メールごと削除し、削除済みフォルダからも消去した。
ほんの数秒だったはずなのに、何倍もの時間が過ぎたように感じた。
同じ画像なら、三沢先生の研究室でも見ている。
けれど、今回は違う。
これは、私を選んで送られてきたのだ。
汗ばんでいたのは、手だけではなかった。
首筋も。
背中も。
ほぼ全身から、嫌な汗が滲んでいた。
「……ひとまず、消去できてよかった」
三沢先生は、呼吸を荒くしながら言った。
「警察の後輩から聞いた話では、遠藤さんも倉林先生も、画像を消さずにスマホへ残していたらしい。おそらく気になるところがあって、そのままにしておいたんだろう」
三沢先生は、さらに続けた。
「そうなると、何度も見返したことで影響が強まった可能性はある。ただし……まだ仮説にすぎないけどね」
三沢先生の言葉を聞いて、私は少しだけ安心した。
けれど――
完全に安心できたわけではない。
殺された2人には、この画像が送られていた。
画像を消去し、目に触れなければ、私の言動がおかしくなるという事態は避けられるかもしれない。
けれど、画像が届いた時点で、すでに何かが始まっている可能性もある。
「池内くん――」
三沢先生は、いつになく顔を強張らせていた。
普段の柔和な表情は、すっかり消えている。
「もう“あの絵”を追うのは、ここまでにしよう。少なくとも、事件に関係する人物への接触や現地調査は中断するんだ。博士論文のテーマも、一度見直した方がいい。これ以上追っていけば……取り返しのつかないことになるかもしれない」
三沢先生はそう言って、目を閉じ、項垂れた。
三沢先生の言う通りかもしれない。
このまま“あの絵”を調査すればするほど、私の身に危険が迫ってくるかもしれない。
遠藤美幸さん。
倉林明日香先生。
彼女たちの名前が、頭の中に浮かんだ。
2人とも、彼岸花の画像を受け取った。
そして、もう戻ってこない。
私も目を閉じ、逡巡した。
でも――
私は、この調査を中断するという選択肢を選べなかった。
研究者の卵としての矜持。
そんな青臭い考えが、頭の中から消えない。
それに、ここで止めてしまえば、遠藤美幸さんも、倉林明日香先生も、ただ“奇妙な事件の被害者”として処理されてしまう気がした。
何が起きたのか。
なぜ彼女たちは死ななければならなかったのか。
誰が、何のために、この赤を送りつけているのか。
それを追わずにいることの方が、私には怖かった。
それに、私自身が狙われた以上、目を逸らしたところで危険が消えるとは思えなかった。
気がつくと、私は三沢先生に告げていた。
「心配してくださって、本当にありがとうございます。けれど……私は“あの絵”の調査を続けたいです」
自分でも驚くほど、声はまっすぐだった。
「私も研究者の端くれです。勝手な単独行動はしません。危険を避けるための指示にも従います。だから……調査を続けさせてください」
何者かに狙われているのは、怖い。
しかし、ここで中断してしまうことの方が、もっと怖かった。
三沢先生は、私の顔を見つめながら大きく息を吐いた。
「……わかった。君の意思を無理に変えることはできそうにないな」
三沢先生は、少しだけ肩を落とした。
「ただし、今後の単独行動は禁止だ。警察にも相談し、調査は安全を確保した上で進める。それが守れないなら、僕は協力できない」
そう言って机の上に置かれていたスマホを取り出すと、いくつかメッセージを送り始めた。
スマホの画面に目を落として指を動かす三沢先生の姿が、いつになく頼もしく見えた。
*
三沢先生は私に、
「僕が戻るまで、決してこの研究室から出ないでくれ」
と言って、1人で研究室を出ていった。
およそ30分後――
三沢先生が、小さな袋を手にして戻ってきた。
「ちょっと、今から付き合ってもらえるか? 今から安全な場所へ移る。場所は……移動中には口にしない」
三沢先生に促され、私たちは2人で大学の最寄り駅まで向かった。
外は、また一段と気温が低くなっているように思えた。
高く昇っている太陽の光の中を、冷たい風が吹き抜けていく。
私たちは地下鉄に乗り込み、1駅目の八事日赤で降りた。
そこから徒歩5分ほどの場所に、比較的大きなオートロック式のマンションがあった。
ベージュを基調とした外観が、周囲の建物に溶け込んでいる。
三沢先生は、手にしていた袋から合鍵を取り出した。
合鍵を差し込むと、ロックが外れ、ガラス扉が左右に開いた。
そして3階まで移動すると、302号室のドアの前に立った。
大学の研究室からこの場所まで移動する間、三沢先生はほとんど口を開かなかった。
ただ――
私は、言葉がなくても安心できた。
三沢先生が、私を安全な場所に誘導してくれているのだろう。
そういう直感があったからだ。
部屋の鍵を開けると、私は中へ促された。
2LDKの間取りで、私の賃貸アパートよりも一回り広かった。
ようやく、三沢先生が口を開く。
「ここ……陣野先生が長期契約している、家具付きの滞在用マンションだ。研究に集中して作業したい時だけ、ここを使っているらしい。定期的に清掃は入ってて、電気や水道もそのまま使えるらしい。事情を話したら、ここ数か月は使用していないから、自由に使ってくれと言ってくれたよ」
陣野先生が大学にいたため、合鍵を直接受け取れたらしい。
「あ、ありがとうございます」
私は思わず声を出した。
私の身の危険を察して、ここまで準備してくれた。
それが、素直に嬉しかった。
「家具は最低限のものしか置いていないようだが、少なくとも、自宅よりは安全だ。住所を知る人間も限られている。それと……そろそろ来てもいい頃合いだけど――」
三沢先生がそう言いかけた時、玄関のモニターが鳴った。
覗いてみると、陽菜の顔が映っている。
オートロックを解除すると、陽菜が部屋までやって来た。
「彼女にも知らせておいた方がいいと思ってね。そしたら真田くん……しばらく君とここに泊まり込むと言って聞かなくてね。僕は危険もあるからと止めたんだけどね……」
三沢先生はそう口にしながら、呆れたような表情で陽菜へ顔を向けた。
「大丈夫ですよ! 私……これでも高校時代の部活は合気道部だったんですから!」
陽菜はそう言って、口を尖らせた。
「池内さんを1人にするのは心配ですよ。かといって、男性だと“間違い”があっちゃいけないし、武道経験がある同性の私がいちばん適任ですよ。足手まといなんかに、なりませんから!」
陽菜は私の方へ向き直ると、ニッと白い歯を見せた。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった冷たいものが、少しだけ緩んだ気がした。
陽菜の気持ちも、三沢先生の気持ちも、本当に嬉しかった。
彼らの気持ちに応えるためにも、私は“彼岸花の絵”を追う。
次に調べるべきなのは、絵そのものではない。
“絵を城野記念館へ移した者たち”だ。
そして――
なぜ、同じ記念館に、封印された箱まで保管されていたのか。
そこを調べれば、事件の全体像へ一気に近づけるかもしれない。
そんな予感がした。
私は、窓の外を見た。
冬の日射しに、名古屋の空は薄く白んでいた。
その向こう側に、まだ見えない赤い花が咲いている気がした。




