第58話 診療記録
赤瀬先生と話をした夜――
三沢先生からメッセージが届いた。
《重要な情報が手に入った。明日の午前9時に、研究室に来てくれるか》
重要な情報。
いったい、どんな情報なのだろうか。
私もそのメッセージに返信した。
《了解しました。私も今日、赤瀬先生とお会いしました。今後、私たちに協力していただけるようです》
明日から、いよいよ3月に入る。
けれど、外の気温は相変わらず低かった。
まだまだ厚手の服は手放せない。
私の心の中も、相変わらず冷えたままだ。
2つの事件に巻き込まれていながら、まだ何ひとつとして解決していない。
それどころか、謎は深まっていくばかりだ。
とはいえ――
ここまで来てしまった以上、解き明かしたいという思いも膨らんでくる。
私は、思わず小さく笑ってしまった。
やはり自分は研究者なのだ――
そう思いながら。
*
翌日の午前9時ちょうど。
三沢先生の研究室を訪ねた私は、相変わらず雑然とした室内へ入った。
「赤瀬先生と会ったんだって? 何か情報を教えてくれたの?」
私が山のように積まれた書籍の間にある小さな椅子へ腰を下ろすなり、回転式の椅子で私の方へ向き直った三沢先生が口を開いた。
「ええ。赤瀬先生が、倉林先生の司法解剖を担当されたそうです。彼女の死因は後頭部を鈍器のようなもので殴打されたことによる脳挫傷で、死亡推定時刻は私たちが遺体を発見した前日の午後9時から11時の間だとか」
私は淡々と説明した。
口にしているうちに、昨日見た赤いスムージーの色が、ふと頭に浮かんだ。
「ほう……赤瀬先生が、そんな貴重な情報を君に教えてくれたわけか」
三沢先生は両腕を組みながら、口を開いた。
「そうなんです。考えてみたら、不思議な話ですよね。私のような民間人にそんな情報を教えるなんて。ですから、訊いてみたんです」
「それで……彼は何て?」
三沢先生は、少しだけ前に身を乗り出した。
「“古い友人”から頼まれてのことだそうです。三沢先生は、何かご存知ですか」
「うーん……赤瀬先生の“古い友人”ねえ?」
三沢先生は目を閉じ、首を傾げながら答えた。
「正直なところ、彼とはそれなりに親しくしているが、知り合ってから、まだ1年くらいだからね。実際……彼の昔の話は聞いたことがない。だから、まったく心当たりがないよ」
古い友人。
その言葉だけが、妙に引っかかった。
けれど三沢先生は、すぐに目を開け、後ろの机に手を伸ばした。
ホッチキスで留められた資料を一束手に取り、私の方へ差し出す。
「それよりも、この資料に目を通してほしい」
三沢先生の声が、少しだけ熱を帯びる。
「倉林先生の自宅から、僕宛ての封筒が見つかったそうだ。警察の確認が終わった後、中身を受け取った。例の患者について、倉林先生が診療記録をもとに作成した、個人的な調査記録らしい。彼女は、どうしても病院内には置いておきたくなかったんじゃないかな」
三沢先生の口調には、興奮が隠しきれていなかった。
私は資料を受け取り、目を通した。
患者の名は、“曳野庸平”。
年齢は27歳。
名古屋市内に本社を置く、大手IT企業のシステムエンジニア。
私は、さらに資料を目で追っていく。
倉林先生の記録には、曳野が徐々に別人のような言葉を使うようになったことが残されていた。
本当の姿を残す――
傷は、見られて初めて意味を持つ――
忘れられることが、いちばん残酷だ――
曳野という人物の口から出たと思われる言葉は、どれも異様だった。
それは、以前見た安斉伊佐夫の公式サイトに記されていた言葉――傷に形を与える、という奇妙な理念と、どこかで同じ匂いを放っているように思えた。
しかし、その異様さの奥には、どこか弱々しさもあった。
自分のものではない言葉を、内側から無理やり押し出されているような――
そんな印象を受けた。
そして、最後のページへ目を移した時、私の掌に汗が滲んだ。
そこには、朱書きでこう記されていた。
【彼は治っていない。誰かの言葉に置き換えられている】
誰か。
それは――
心理セラピストの“安斉伊佐夫”ではないのか。
記録の中に、“安斉伊佐夫”という名前は記されていない。
けれど、倉林先生は私たちに話した内容からも、安斉を疑っていたはずだ。
それに――
意図的に名前を書かなかったのかもしれない。
“安斉伊佐夫”という名が、禁忌であるかのように。
私は、思わず大きく息を吐き出した。
彼岸花の画像。
曳野庸平の言葉。
そして、倉林先生の死。
そのすべてに、安斉伊佐夫という同じ影が差しているように思えた。
その時だった。
ぶるっ。
ポケットに入れていたスマホが震えた。
「あれっ?」
私は思わずスマホを取り出して、画面を覗く。
1通のメールが届いていた。
「おや? もしかして、真田くんからかな? 彼女も呼ぼうと思ったんだけど、昨日は遅くまでバイトだと言っていただろう? だから、今朝は声をかけなかったんだ。彼女だったら、謝っておいてくれる?」
三沢先生は私の手元を見るなり、軽い口調で言った。
私は気になって、メールを開いてみた。
送信元は、陽菜ではない。
陽菜どころか、まったく身に覚えのないアドレスだった。
画像ファイルが1つ添付されていた。
その時点で、嫌な予感がした。
けれど、私は添付画像を開いてしまった。
画面いっぱいに表示されたのは――
漆黒の背景に浮かぶ、真っ赤な彼岸花の画像だった。




