第57話 死を診る男
倉林先生の変わり果てた姿を発見してすぐ――
まず救急隊が駆けつけたが、倉林先生はすでに心肺停止の状態で、その後、死亡が確認された。
続いて警察も到着して、私たちはその場で事情を訊かれた。
そのうえで、近くの警察署まで同行を求められた。
警察署での事情聴取は1時間ほどで終わった。
比較的短時間で済んだのは、管理人の証言や防犯カメラで、私たちが部屋へ入った経緯をすぐに確認できたからかもしれない。
私たちでさえ、倉林先生の部屋へ入るには、管理人の協力が必要だった。
では、彼女を殺した人物は、どういう手段を使ったのだろうか。
薄手の部屋着姿だったことから、倉林先生は入浴しようとする直前に襲われたのかもしれない。
すると、犯人は倉林先生の顔見知りか、少なくとも彼女を警戒させずに部屋へ入れる人物だったのだろうか。
けれど、ある程度信頼している相手でなければ、警戒していた倉林先生が簡単に部屋へ招き入れるとは思えない。
それに――
倉林先生の遺体に付けられていた、奇妙なポーズ。
あれにも違和感があった。
遠藤美幸さんの遺体を見た時にも、同じ違和感を覚えた。
同じ彼岸花の画像が印刷された用紙。
そして、遺体の奇妙なポーズ。
2人を殺害したのは、同一犯ではないか。
そう思えてならなかった。
ふと、西嶋千晶さんと美崎蛍子さんの言葉を思い出した。
100年前。
40年前。
そして、今、私の目の前で起こっている事件。
これらは繋がっている。
あの言葉が、頭の奥で何度も反響する。
私は昭和区の賃貸アパートに戻ってからも、ずっとそのことばかり考えていた。
一緒に行動していた学部生の真田陽菜にも、今回の顛末を簡単にメッセージで伝えておいた。
返信はすぐに返ってきた。
そこには、倉林先生が殺されたことへの驚きと、私をひどく心配している様子が、文面から伝わってきた。
*
翌日――
朝起きてから、発熱こそなかったが、頭の芯が重く感じられた。
軽い風邪の症状かもしれない。
博士論文の構想のために根を詰めていただけではない。
2度も殺人事件の遺体発見現場に居合わせているのだ。
頭にも身体にも、見えない疲労が蓄積されているのかもしれない。
大学病院で診察を受け、薬を処方してもらうため、午前9時過ぎに受付をした。
大学病院は大学側と連携している。
そのため、私たちのような大学に所属している学生や職員は、医療費の補助を受けられるのだ。
特に、私のような貧乏研究者の卵には、ありがたい制度だった。
30分近く待った後、内科の診察を受けた。
医師からは、疲労に伴う軽い風邪症状だろうと言われた。
その後、薬を処方してもらい、今日は自宅で論文の構想を練ろうと考えた。
病院のロビーを抜け、玄関へ向かおうとした時だった。
「池内さん……ですよね?」
背後から、低い男性の声が聞こえた。
私が慌てて振り向くと、カーキ色のコートを身に着けた長身の男性の姿が目に入った。
先日、三沢先生に紹介してもらった、以前は外科医だったという、法医学者の“赤瀬歩矢”先生だった。
白衣を着ていない。
手には、小さな鞄を持っている。
司法解剖を終え、これから病院を離れるところのようだった。
私は「お久しぶりです」と言って、軽く頭を下げた。
「どこか、具合が悪いのですか」
赤瀬先生が、柔らかい口調で訊いてきた。
「ええ……ちょっと風邪の引き始めみたいでしたので。そこまで体調が悪いわけではありません」
私は笑顔を作りながら答えた。
「そうですか……それならば、安心です」
赤瀬先生は小さく頷いた。
そして、眼鏡越しの鋭い目で、周囲を確認した。
「ところで、もしお時間がおありでしたら、この後……少しだけお付き合いいただけますか」
声は穏やかだった。
けれど、その言い方には、拒みにくい静かな圧があった。
「もしお付き合いいただけるのであれば……少し離れた位置から、私の後を追ってきてください」
赤瀬先生も、倉林先生と同じく、何かを警戒しているように見えた。
私は声を出さずに、軽く頷いた。
歩き出した赤瀬先生の数メートル後を、追うようにして歩き始めた。
心臓が早鐘のように打ち始める。
いつの間にか、風邪の症状と思われた頭の重さは、ほとんど意識しなくなっていた。
好奇心による興奮が、私の身体に影響を与えているのかもしれない。
*
赤瀬先生が入ったのは、大学病院から徒歩5分ほどの喫茶店だった。
鮮やかな赤を基調としたモダンな外観には、「スカーレット」という看板が掲げられている。
「いらっしゃいませ」
体格のいい初老の男性が、赤瀬先生に続いて入ってきた私に声をかけた。
天井からぶら下がった奇妙な形の電灯が、弱々しい光で店内を照らしている。
他に客はいなかった。
いちばん奥の窓際に座っていた赤瀬先生が、私に向かって軽く手を振る。
私はその席まで足早に歩み寄ると、テーブルを挟んで赤瀬先生と向き合って腰を下ろした。
「突然のお誘いで、申し訳ありません。ここは私が持ちますので、何でもお好きなものをどうぞ――」
赤瀬先生はそう言いながら、テーブルの上に立て掛けてあったメニューを私に手渡した。
ずいぶんと種類が多い。
私がなかなか決められずにいると、
「このお店は、こちらの“スムージー”がお勧めです」
と声をかけてくれた。
私が“バナナスムージー”を選ぶと、赤瀬先生が手を挙げて初老の男性を呼んだ。
「彼女には、“バナナスムージー”を。私は……“いつものやつ”を」
初老の男性は「畏まりました」と言って頭を下げると、店の奥に姿を消した。
「ここは信頼できる知人が経営している店でしてね。この時間は、他に客もほとんど来ません。ここでなら、病院関係者に聞かれる心配はない」
赤瀬先生は言いながら、右手で眼鏡の縁を軽く摘まんだ。
「ところで――」
その声が、少しだけ低くなる。
「私が……倉林先生の司法解剖をしました」
私は思わず息を止めた。
「死因は、後頭部を鈍器のようなもので殴打されたことによる脳挫傷です。死亡推定時刻は、発見前日の午後9時から11時の間です」
私は大きく目を見開いた。
それと同時に、大きな疑問が胸の中に湧き上がってくる。
「あの……どうして私のような民間人に、そんな重要な情報を? 私が……第一発見者の1人だからでしょうか」
赤瀬先生は一瞬、目を閉じた。
そして、わずかに顔を上げた。
天井から落ちる淡い光が、彼の端整な白い顔を照らしていた。
赤瀬先生は、しばらく口を開かなかった。
店内に、静かな沈黙が落ちる。
そうしているうちに、注文していた品が2つ、テーブルの上に運ばれてきた。
私の目の前に置かれたのは、やや黄味を帯びた乳白色のスムージーだった。
一方で、赤瀬先生の前にも、同じ背の高いグラスに注がれたスムージーが置かれる。
ただし、その色は――
血のように真っ赤だった。
赤瀬先生はようやく目を開くと、前に置かれたスムージーに視線を落とした。
「これは、メニューに載っていない“ブラッドオレンジ”のスムージーでしてね。この色と酸味が好みなのです」
彼はグラスに挿してあったストローで、スムージーを一口吸った。
私も「いただきます」と言って、同じようにストローですする。
甘みの効いた、私好みの味だった。
スムージーを半分ほど飲んだところで、赤瀬先生が口を開いた。
「先ほどの質問への答えですが……私の“古い友人”から頼まれています。池内さん……あなたに有益な情報を提供するように、と」
赤瀬先生の視線は、まっすぐに私の顔を捉えていた。
私は、思わず訊いてみた。
「古い友人? 三沢先生ですか」
すると、赤瀬先生は薄い笑みを浮かべた。
「いいえ。ただ、三沢先生とは、別件を通じて以前から親しくさせてもらっていますので、彼への情報提供も拒むつもりはありません」
三沢先生ではない。
では、誰なのか。
私はさらに訊こうとした。
けれど、その前に、赤瀬先生はスムージーを最後まで飲み干した。
「今日お話しできるのは、ここまでです」
赤瀬先生はそう言うと、さらに言葉を継いだ。
「次回は、三沢先生もご一緒に。時期が来たら、日時と場所を私から連絡します。あなたも薄々感じていると思うのですが……この事件は根が深い」
赤瀬先生のレンズ越しの視線は、さらに鋭くなった。
その目は、医師の目だった。
死を診て、なお何かを待っている男の目だった。




