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第55話 赤の浸食

倉林先生から話を聞いてから、1週間――


目立った進展もないまま、時間だけが過ぎていった。


私は少しずつ、博士論文に向き合う日常へ戻ろうとしていた。


あの彼岸花の絵の来歴。

それに関連する地域の風土史と近代美術史。

さらに、彼岸花に纏わる伝承。


これらを複数の角度から検証し、論文として構築できないかを試行錯誤する日々が続いた。


三沢先生は、相変わらず“安斉伊佐夫”の件を調べているようだった。


陽菜は、風邪で休養していた期間を取り戻すため、ラウンジ嬢のバイトによりいっそう励んでいるらしい。


気がつくと、2月も残りわずかになっていた。


その日、私は図書館のブースで、資料の山を前に頬杖をついていた。


なかなか構想が纏まらない。


関わっている一連の事件についても、同じだった。


彼岸花の赤。

絵の中に見えた妖精。

黄島早記。

安斉伊佐夫。

遠藤美幸。


ひとつひとつは繋がり始めているのに、まだ全体の形が見えない――

そう思っていた時だった。


いきなりスマホが鳴り出した。


三沢先生だった。


私は慌ててスマホを手に取り、通話可能なスペースへ移動した。

声を抑えて電話に出た。


「池内くん……大変なことが起きた」


静かな館内で、スマホから三沢先生の高い声が漏れた。

いつになく切迫していた。


「ちょっと待ってください」


私は小声でそう言い、小走りで図書館の外へ出た。


羽織っていたコートは、ブースのそばに置きっぱなしだ。


3月まであとわずかとはいえ、外はまだ冷えていた。

吐いた息が白く広がり、すぐに消えていった。


「ど、どうしたんですか? 急に」


私はスマホを耳に押し当てた。


「例の“彼岸花の画像”が、どうやら倉林先生にも届いたみたいなんだ」


「えっ? そ、それって、いつですか」


思わず言葉が出た。

急に身体が熱を持ったような感覚になり、首筋に汗が滲んだ。


「昨日届いたメッセージによると、画像が送られてきたのは、先週、僕たちと会った日の夜だったらしい。最初は偶然だと思って、気にしないようにしていたそうなんだ」


通話口の向こう側で、三沢先生の声が少し大きくなる。


「けれど、それ以降……周囲から指摘され、自分が無意識のうちにおかしな言動をしていると知ったらしい。特に今週に入ってから幻覚が酷くなって、病院を休んでいるそうだ」


幻覚――

その言葉が、耳の奥で冷たく響いた。


遠藤美幸。

彼岸花の画像。

赤いものが道路の向こうに立っている。

信号の向こうに赤い服の女が見える。


以前聞いた話が、頭の中で次々と甦ってくる。


「殺された遠藤美幸さんにも、同じような現象が起きていました。やっぱり、あの画像が影響しているんじゃないでしょうか? それって……倉林先生も危ないと思います」


私は言いながら、心臓の鼓動が耳の奥にまで響いているような感覚になった。


警察官だった遠藤美幸さん。

医師である倉林明日香先生。


職業は、まったく違う。


2人に共通するのは、“彼岸花の画像”を受け取った直後から、異変が始まったことだった。


さらに――


遠藤美幸さんは、その後に殺害されている。


嫌な予感が、頭の中をぐるぐると巡り始めた。


「僕も……そう思う」


三沢先生も、一段声を低くして答えた。


「実は……昨日、倉林先生に直接連絡を取ってみたんだ。だけど、電話に出なくてね。その代わり、しばらくしてメッセージが送られてきたんだよ。昨日読んだ時は、そこまで切迫した内容だとは思わなかった。でも、今朝読み返して、どうにも様子がおかしいことに気づいたんだ」


「ど、どんな内容だったんですか?」


自分の声が、明らかに震えているのがわかった。


「通話を切ったら、すぐに転送する。君自身の目で確かめてもらった方がいい」


三沢先生は、そこで一度言葉を切った。

そして、改まった声で続けた。


「そこで……相談がある」


「はい」


「今朝から気になって何度か電話をしているんだけれど、彼女からは応答もなければ、折り返しもない。病院にも確認したが、今週に入ってから休んでいるそうだ。警察に相談することも考えたが、まずは自宅の様子を確認したい。異常があれば、すぐに通報する」


三沢先生の声が、少しだけ迷った。


「だけど……女性の1人暮らしだ。男の僕が1人で訪ねるより、君にも立ち会ってもらった方がいいと思ってね」


「はい……わかりました」


自分でも意外なほど、返事はすんなりと口から出ていた。


怖くないわけではない。

むしろ、怖かった。

けれど、放っておくことなどできなかった。


あの血を思わせる赤い彼岸花。

その“赤”が、また1人の人間に浸食しようとしている。


そう思えた。


私がスマホの通話を切った瞬間、周囲を一陣の風が通り過ぎていった。

首筋に滲んだ汗を撫でるように。


その冷たさに、私は思わず身震いをした。


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