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第54話 もう1人のセラピスト

倉林先生のマンションを出た後――


私たちは近くの喫茶店で昼食を済ませ、三沢先生の研究室へ向かった。


空は、相変わらず青一色だった。

南の空に浮かぶ太陽は、冷たい空気の中へ、わずかな温かさを注いでいた。


けれど――

私の心の中は、外の空気以上に冷えていた。


倉林先生が言っていたシステムエンジニアの患者は、安斉伊佐夫のカウンセリングを受けてから、別人のような思想を口にするようになったのだろうか。


その患者が口にした言葉が、頭から離れなかった。


「倉林先生……僕は安斉先生に、“本当の見方”を教わったんです」


本当の見方。


どういう意味だろう。


その言葉が、患者の異変に繋がっている可能性を、私はどうしても否定できなかった。


*


研究室に到着するなり、三沢先生が口を開いた。


「僕たちで、“安斉伊佐夫”という人物を調べてみよう」


その一言で、私たちは夕方近くまで、パソコンとスマホの画面に向き合うことになった。


検索を始めると、まず見つかったのは、安斉伊佐夫の公式サイトだった。


白を基調とした、洗練されたデザイン。

そこには、穏やかに微笑む安斉の写真が大きく表示されていた。


その下には、安斉の理念らしき短い文章が添えられていた――


《忘れられた痛みは、人の内側で腐っていく。だからこそ、その痛みには、誰の目にも見える“形”を与えなければならない》


さらに説明文によると、安斉伊佐夫は千種区の覚王山に邸宅を持ち、そこを自宅兼セラピールームとして使用しているらしい。


ネットで公開されている写真を見ると、プール付きのモダンな建物が目に入った。

まるで高級住宅雑誌に載っている邸宅のようだった。


セラピーは完全予約制で、予約は専用サイトからのみ受け付けているらしい。


予約専用ページを開いてみる。


表示されたカレンダーには、かなり先の日付まで予約済みの印が並んでいた。


「人気ですね……」


陽菜が、スマホの画面を覗き込みながら呟いた。


たしかに、1か月先まで予約が詰まっている。


けれど、その人気とは裏腹に、安斉伊佐夫の経歴は奇妙だった。


ドイツの大学に留学した経験があるらしい。

だが、大学名や専攻、取得資格、それ以前の経歴は、どこにも記されていなかった。


私はその点に、かなりの不自然さを覚えた。


医療や心理支援を求める人なら、相手がどのような資格や経験を持つのか、気にするはずだ。

自分の身体や心を預ける相手なのだから。


もちろん、これは私の偏見かもしれない。


けれど――

少なくとも、そう考える人は多いはずだ。


それなのに、1か月先まで予約が詰まっている人気セラピストなのだ。


何かが――

どうにも引っかかった。


胸の奥で、ざらざらと音を立てるものがあった。


私はもう一度、スマホの画面で安斉伊佐夫の顔を見た。


画面の中には、人を惹きつけるような笑顔があった。

穏やかで、清潔で、信頼できそうな顔。


それなのに――

その笑顔が、かえって得体の知れないものを隠しているようにも見えた。


*


午後5時――


研究室を後にした私と陽菜が建物の外に出た時、西の空は暗い茜色に染まっていた。


三沢先生は、もうしばらく研究室に残るらしい。

安斉伊佐夫の存在に、相当興味を持ったようだ。


「池内さん、久しぶりに池内さんの部屋に泊まってもいいですか? 今夜はバイト入れてないんで」


薄暗くなった大学の敷地を抜けようとするところで、陽菜が唐突に言ってきた。


「いいけど……病み上がりじゃないの? 私、風邪引きやすいタイプだから、うつされるの嫌なんだけど」


私は陽菜の方に目をやり、つれない口調で言った。


「もう、すっかり元気ですよ。昨日処方してもらった薬が効いたみたい。ほら……今日は1回も咳してないでしょ」


言われてみれば、そうだった。


今日の陽菜はマスクをつけていない。

顔色も明らかにいい。

化粧の乗りも、いつも以上によく見えた。


ずっと頭の中であれこれ考えていたせいか、まったく気づいていなかった。


考え込むと、周囲が見えなくなる時がある――

私の悪い癖だ。


「じゃあ……久しぶりにおいで」


私は、先ほどより少し表情を柔らかくして言った。


「わーい」


陽菜の相変わらず甲高い声が、夕暮れの静かな空間に響いた。


*


賃貸アパートの近くのコンビニで、私と陽菜は夕食を調達した。


陽菜はおにぎりの他に、缶チューハイと、つまみになりそうなお菓子を物色している。


アパートの部屋に到着すると、私も陽菜と同じレモン味の缶チューハイのプルタブを開けた。

普段はほとんど飲まないが、今夜は陽菜に付き合うことにした。


「かんぱーい」


陽菜が缶を掲げる。

私も軽く缶を合わせた。


陽菜がこの部屋に泊まりに来るのは、もう5回目だった。


「20歳になってから、お酒の味を覚えちゃったんですよね。ところで、池内さんって、あの安斉って人……どう思います?」


缶チューハイを一気に半分ほど飲んだところで、陽菜が口を開いた。


「……得体が知れない人物だよね」


私も缶チューハイに口をつけ、そう短く答えた。


「私ですね――」


陽菜は、おつまみの柿の種に手をつけながら言った。


「安斉って人……言葉で人を操ってるんじゃないかって思ってるんです」


その言葉を聞いた瞬間、背筋がひやりとした。


「言葉で?」


「はい。言葉って、人を呪う時にも使われるらしいんですよ。10年くらい前になるんですけど――」


陽菜は柿の種を口に運んでから、続けた。


「伯母さんに連れられて、地元の神社に行った時、変な絵馬を見たんです。まだ小っちゃかったんで、内容まではよく覚えてないんですけど、そこに何かが書いてあった。ずっと後で、伯母さんが言ったんです。あれは“人を呪う言葉”だったんだって」


陽菜の顔は、いつになく真剣だった。

軽い冗談で言っているわけではない。

そうわかる表情だった。


言葉――

人を救うためにも使われるもの。

人を傷つけるためにも使われるもの。

そして、時には呪うためにも使われるもの。


その言葉を使って、安斉伊佐夫は何をやろうとしているのか。


私はしばらくの間、真剣な表情で柿の種を頬張っている陽菜の顔から、目を離せなかった。


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