第53話 病んだシステムエンジニア
翌日の午前10時少し前――
私は、三沢先生と陽菜と一緒に、中村区にある高層マンションの前に立っていた。
朝日を受けて銀色に輝く建物が、快晴の青い空に向かって伸びている。
「やっぱり、お医者さんって、お金持ちが多いですよね? 倉林先生、きれいな人でスタイルも抜群だったから、私のバイトのスタッフに紹介しようと思ったんだけどな」
陽菜が建物のてっぺんを仰ぎながら、そう口にする。
「わざわざラウンジ嬢のバイトをするほど、倉林先生はお金に困ってないでしょ」
私は陽菜の方を一瞥して、乾いた口調で言った。
「……さて、倉林先生の部屋は506号室か」
三沢先生は、私と陽菜の会話をよそに、昨日受け取ったメモを片手にマンションの玄関まで進む。
空には、雲ひとつない青が広がっていた。
けれど、時折頬を撫でていく風は冷たい。
三沢先生は部屋番号を入力し、エントランスのインターフォンを押した。
「お待ちしておりました」
倉林先生の声がインターフォン越しに聞こえる。
同時に、エントランスのガラス扉が左右に開いた。
506号室の前で再びインターフォンを鳴らすと、倉林先生が笑顔で迎えてくれた。
昨日、病院で会った時より、いくらか表情から険が取れていた。
羽織っているのは、灰色のカーディガン。
その下に身に着けているのは、黒のトレーナーと黒のパンツだった。
化粧も控えめだ。
中に通された私たちは、リビングの中央にあるクリーム色のソファを勧められた。
正面には、同じ色の1人掛けソファが置かれている。
その間に、分厚いガラスのテーブルがあった。
部屋の中を見回す。
置物が極端に少なく、整然としていた。
透明なガラス張りの大きな窓からは、名古屋市内のビル群が一望できる。
病院で見た白衣姿とは違う。
けれど、この部屋にも、医師らしい几帳面さが滲んでいるように感じた。
倉林先生は、トレーに載せた3つのカップを、私たちの前にそれぞれ置いた。
カップを載せたソーサーには、小さな角砂糖が添えられている。
私の目に入った倉林先生の白い指先は、外から射し込む日の光を受けて、少しだけ黄色味を帯びて輝いていた。
「キリマンジャロです。気に入っていただければいいのですが」
「恐れ入ります」
倉林先生の言葉を受けて、三沢先生がそう言う。
そして、カップを手に取り、口をつけた。
私と陽菜も軽く頭を下げ、コーヒーに口をつけた。
ほどよい苦みが口に広がり、甘い香りが鼻をくすぐった。
「ところで……ご相談とは?」
三沢先生が、正面の1人掛けソファに腰を下ろした倉林さんに向かって訊いた。
倉林先生は一瞬、テーブルの上に視線を落とした。
けれどすぐに顔を上げ、私たちの顔を見回す。
そして、重々しく口を開いた。
「私の患者さんの中に、気がかりな方がいるのです。お名前は……守秘義務上、申し上げられないのですが――」
「気になる……とおっしゃいますと?」
三沢先生が少しだけ身を乗り出し、声を出した。
「……はい。その患者さんは、とあるIT関連の企業にお勤めのシステムエンジニアの方です。過労によって心身ともに疲弊されており、診察と投薬に加え、継続的に話を伺っているのですが――」
倉林先生は呼吸を整えるように、そこで間を置いた。
膝の上に置かれている両手が、わずかに震えているように見える。
「診察を重ねるたび、症状が改善しているように見える一方で、別の異変が強まっているように感じるのです」
「ほう……具体的には?」
三沢先生は右手で顎に触れながら、神妙な面持ちで尋ねる。
陽菜も、真剣な表情を崩さない。
私も、無意識に背筋を伸ばしていた。
倉林先生は軽く頷くと、立ち上がって別の部屋へ移動した。
そして、すぐに戻ってくる。
手には、A4判の用紙を持っていた。
「これは、本人の同意を得た上で、診療内容を個人が特定できない形にまとめたメモです。私がマーカーで線を引いている箇所を見てください」
倉林先生に促され、私たちは用紙に目を落とした。
マーカーを引かれた部分には、短い文章が並んでいる。
私は、本当の姿を見ている――
私は、人の傷を見つめている――
私は、残してあげることが救いになると考えている――
三沢先生が、小さく息を吐いた。
「これは……かなり偏った考え方に思えますが」
「ええ……ですが、それ以外では顔色もよくなり、言葉もはっきりと話すようになられたのです。ただ……お話をする中で、時々このような趣旨の言葉が出てくるので、気になっていまして」
倉林先生は目を閉じ、低い声で続けた。
患者を責めている声ではない。
むしろ、どうにか救い出そうとしている人の声だった。
「何か、これって――」
私の隣に座っている陽菜が、不意に声を出した。
「誰かに……“こう言え”って言われてる気がしません?」
倉林先生は閉じていた目を開け、陽菜の方へ視線を向けた。
「鋭いですね。実は……私も、そう考えています」
倉林先生の声が、少しだけ低くなる。
「この患者さんは、私とは別に、もう1人から継続的なカウンセリングを受けていると話してくれたのです」
「その方とは?」
三沢先生が口を挟む。
すると、倉林先生は俯き、口を引き結んだ。
よほど口に出したくない人物なのだろうか。
「倉林先生……あなたは、赤瀬先生からの紹介を受け、私たちへ相談しようと判断されたのではないのですか? 昨日申し上げた通り、できる限りの協力は惜しみません」
三沢先生が静かに促す。
倉林先生は、ようやく口を開いた。
「……わかりました。その方は、大学病院に多額の資金援助を行っている資産家です。ですから……昨日は、あの場で詳しくお話ができなかったのです。以前、院内の上司へ相談しようとしたのですが、その方の名前を出した途端、深入りしないよう止められました」
「資産家? そんな方が、カウンセラーをなさるんですか」
私は思わず目を見開き、率直な疑問を口にした。
「資産家でもあり……“心理セラピスト”を名乗って活動している方です」
倉林先生が、私の方へ目をやって言う。
心理セラピスト。
その言葉が耳に入って、私の中の何かがざらついた。
倉林先生は羽織っているカーディガンのポケットからスマホを取り出すと、慣れた手つきで画像を表示させた。
それを、私たちに見えるように差し出す。
そこには、1人の男性の画像が表示されていた。
襟足まで伸びている黒い髪は、丁寧に整えられている。
色白で、彫りの深い顔立ち。
銀縁の細い眼鏡。
40代半ばくらいの印象だった。
「この方は?」
三沢先生が口にする。
「先ほど申し上げた……心理セラピストの“安斉伊佐夫”という人物です」
倉林先生の声は、わずかに強張っていた。
私は、改めて表示されている画像にじっと目をやった。
画像の中の“安斉伊佐夫”は、一見すると、爽やかで屈託のない笑みを浮かべている。
人当たりのよさそうな表情だった。
けれど――
眼鏡の奥から覗く両の瞳には、底の知れない光のようなものがあった。
「そして、その患者さんと最後にお会いした時、彼はこう言ったんです。『倉林先生……僕は安斉先生に、“本当の見方”を教わったんです』と」
倉林先生の言葉で、部屋の空気が、一段沈んだように感じた。




