第52話 心を診る女
三沢先生からメッセージがあったのは、3日後の木曜日の午前中だった。
《例の精神科の先生が、今日の午後1時30分に大学病院で会ってくれるらしい。真田くんにも連絡する予定だ。急で悪いが、都合は大丈夫か》
いつものように、図書館のブースに籠っている時だった。
私はすぐに、
《了解しました》
と返事を打った。
ブースの机には、美術史の本に加えて、“植物図鑑”も置かれていた。
彼岸花の生態について、調べてみようと思ったのだ。
燃えるような赤い花。
秋の彼岸の時期になると、葉のない地面から突然花茎を伸ばし、赤い花を咲かせる。
考えてみれば、不思議な花だった。
“この世”と“あの世”を繋ぐ花。
妖精や死者の影が隠れている花。
調べるほどに、彼岸花にはいろいろな伝承が残っていることがわかってくる。
そんなものに関わっている自分も、どこか現実世界から切り離されていくような感じがした。
殺された遠藤美幸さんも、彼岸花の画像に触れることで、同じような感覚を持ってしまったのだろうか。
いずれにしても――
今日の午後1時30分には、何らかの情報を得られるはずだ。
私はそう思いながら、しばらくの間、目の前の書籍に目を通していた。
けれど、文字はなかなか頭に入ってこなかった。
*
午後1時20分――
私は約束より少し早めに、大学病院の1階ロビーへ足を踏み入れた。
三沢先生と陽菜は、すでに到着していた。
三沢先生と並んでロビーの長椅子に座っていた陽菜が、私に向かって大きく手を振る。
「2人とも、ずいぶん早いですね。私がいちばん早いと思ってましたけど」
私はそう言いながら、三沢先生の隣に腰を下ろした。
「私、職員・学生用の診療窓口で、風邪薬を出してもらう予定だったので、早めに受付しちゃいました。三沢先生は、私よりも早かったですよ」
陽菜は、今日もマスクをつけたままだった。
私は、隣の三沢先生へ視線を移した。
両腕を組んだまま、静かに目を閉じている。
三沢先生が何かを考え込んでいる時の姿勢だ。
私はこれまでに、何度も同じ光景を見てきた。
その姿を見るたび――
三沢先生は、つくづく研究者なのだと思った。
午後1時30分を少し回った頃。
1人の若い女性看護師が、私たちの方へ近づいてきた。
「三沢先生と、そのお連れさまですね? “倉林先生”がお待ちですので、ご案内いたします」
女性看護師は丁寧な口調でそう言うと、ロビーの奥にある、小さな面談室へ案内してくれた。
部屋の中には、真っ黒な髪を高い位置で結んだ、ポニーテールの女性が座っていた。
その女性は私たちの姿を認めると、立ち上がって軽く頭を下げた。
白衣の下には、細身の黒いスカート。
そこから、すらりとした脚が伸びている。
年齢は、30代の前半くらいだろうか。
顔立ちの整った、モデルのような雰囲気を醸した女性だった。
けれど、印象に残ったのは外見だけではなかった。
こちらを見る目が、静かだった。
私たちの顔色や呼吸まで、自然に拾い上げているような視線――
それが、どこか医師らしかった。
「赤瀬先生からお話は伺っています。初めまして。こちらの精神神経科で医師をしております“倉林明日香”です」
落ち着いた低い声だった。
それにしても、驚いた。
てっきり男性の医師だとばかり思っていたからだ。
「お忙しいところ、申し訳ありません。文学部の准教授をしております三沢秀樹と言います。こちらは、私のゼミ生たちで、大学院生の池内茜くんと、学部生の真田陽菜くんです」
三沢先生はそう言って、私と陽菜を紹介してくれた。
倉林先生は何も言わずに微笑むと、テーブルを挟んだ椅子を私たちに勧めてくれた。
私たちは、そこに並んで腰を下ろす。
三沢先生が、さっそく口を開いた。
「先日、名古屋で起こった女性警官の殺人事件はご存知ですよね」
「ええ……」
倉林先生が、低い声で短く答えた。
その声には、わずかな硬さが混じっていた。
「その事件の被害者である遠藤さんは、ご自分のスマホに“彼岸花の画像”が送られてから、言動がおかしくなられたと聞きました。もしかして……その件で、倉林先生の診察を受けられたのではないですか」
倉林先生は、少しだけ窓の外へ目を向けた。
外の庭先では、冷たい風に木の枝が揺れている。
しばらくして、倉林先生は私たちの方へ視線を戻して、口を開いた。
「個別の患者さんが受診されたかどうかも含めて……私から申し上げることはできません」
三沢先生は小さく頷いて、言った。
「……申し訳ありません。では、質問を変えます」
そして、少しだけ声を低くした。
「私は……遠藤さんがその画像を見たことをきっかけに、言動が変わってしまったのではないか、という仮説を立てております。倉林先生の医学的な見地では、どのようにお考えでしょうか」
「強い不安や恐怖を引き起こす画像によって、睡眠障害や知覚の変化が現れる可能性はあります。ですが、画像そのものが脳へ作用したと断定することはできません。とはいえ――」
倉林先生は、そこで言葉に詰まった。
わずかに顔を上げ、しばらく沈黙した。
何か言葉を続けたいようだ。
けれど、それを言うべきかどうか迷っている。
そんな様子が窺えた。
「何か……お考えをお持ちなのでしょうか」
三沢先生が柔和な口調で尋ねた。
すると倉林先生は立ち上がった。
部屋のドアを開け、廊下の様子を確認する。
誰もいないことを確かめているようだった。
やがて戻ってくると、先ほどまで座っていた椅子に再び腰を下ろした。
「三沢先生は……赤瀬先生から、以前、警察官をされていたと聞きました。今も警察関係者との繋がりがおありだとも……」
「ええ。でも、大した繋がりというわけではありません」
倉林先生の言葉に、三沢先生は少し寝ぐせのある頭を掻きながら答えた。
すると倉林先生は、白衣の内ポケットから小さなメモ用紙を取り出した。
そして、ペンで何かを書き留めていく。
その手つきは落ち着いていた。
けれど、指先にわずかな力が入っているようにも見えた。
「赤瀬先生から、皆さんのことは詳しく伺っています。それに……直接お話しして、相談する価値はあると判断しました」
倉林先生は、書き終えたメモを三沢先生へ差し出した。
「病院の外で、改めてお話ししたいことがあります。明日は非番ですので、午前10時に自宅へ来ていただけますか? そこで、お見せしたいものもあります。それに、この場所では……言いにくいので」
見せたいものと、この場所で言いにくいこと。
いったい何だろう。
病院の談話室は、明るく清潔だった。
けれどその瞬間、白い壁の奥に、何か見えないものが潜んでいるような気がした。
三沢先生はそのメモを受け取ると、
「……わかりました。こちらでご協力できることがあれば、お力になりたいと思います」
と、神妙な顔つきで答えた。
倉林先生の表情が、少しだけ柔らかくなったような気がした。
明日の午前10時――
倉林先生の自宅が、何かの入口になるかもしれない。




