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第47話 託された写真

翌金曜日の午後2時――


私は大阪市淀川区にある高級マンションのエントランス前にいた。


今朝、急に大阪へ行くと母に告げたら、


「もっとゆっくりしていけばいいのに」


と言われた。


けれど、研究者魂に点いた火は、簡単には消せない。


私がそう伝えると、母は小さく溜め息を漏らした。

そして、半ば諦めたような口調で、


「それじゃあ、頑張りなさい」


と送り出してくれた。

おまけに、小遣いまで持たせてくれた。


私は玄関先で、昨夜聞いていた部屋番号のインターフォンを押した。


「どちらさまでしょうか」


少し高めの女性の声が聞こえてくる。


「昨夜ご連絡しました、池内と申します」


そう答えると、エントランスの瀟洒な両開きの扉が、静かに開いた。


ほとんど音を立てない高速のエレベーターで、9階まで上がる。


9階の905号室。


ここが、“西嶋千晶”さんの部屋だった。


再び玄関脇のインターフォンを押す。


すると、中から女性が顔を出した。


ショートカットで、目鼻立ちがはっきりとした、上品な感じの女性だった。

58歳と聞いていたが、その年齢より、ずいぶん若く見える。


「本日はお忙しい中、お時間をいただき、申し訳ありません。改めまして……N大学の池内と申します」


私がそう言うと、その女性は丁寧に頭を下げてくれた。


「わざわざ遠方からお越しいただき、ありがとうございます。初めまして。西嶋千晶と申します」


そして西嶋さんは、私をリビングまで案内してくれた。


リビングには、もう1人女性がいた。


「ご紹介しますね。私の40年来の友人で、旧姓を“工藤”という“美崎(みさき)蛍子”さんです。今日は彼女にも同席してもらいますね」


西嶋さんが紹介すると、美崎蛍子という女性は、座っていたソファから立ち上がり、私に向かって深々と一礼してくれた。


美崎さんは、西嶋さんよりも少し年上に見える。


けれど2人の佇まいには、どこか共通した気品が漂っていた。


勧められたソファの前のテーブルには、高級そうなチーズケーキが用意されていた。


西嶋さんが紅茶を持ってきて、ケーキの横に置く。

白磁のカップから立ち上る紅茶の香りが、部屋の中にふわりと広がった。


私の正面に座った西嶋さんが、静かに口を開いた。


「池内さんが所属されている研究室のホームページを拝見しました。あの彼岸花の絵を描いた方をお探しだとか――」


私は「はい」と頷いた。


「あの絵は、2人の方が描かれたものです。そのうちの1人は……こちらの美崎蛍子さんのおばあさまなのです」


私は思わず、


「えっ」


と声を漏らした。


美崎さんは、穏やかな表情のまま、少しだけ目を伏せた。


「実は……あの絵は昔、私の母校である広島の“星華女子学院”という学校の旧校舎に飾ってあったものなのです。当時は、“森崎千晶”という名前でした。私が在校生だった頃、いろいろとありまして――」


西嶋さんが“星華女子学院”の出身であるという事実に、まず驚いた。

所作のひとつひとつに品が感じられたのも、それで少し納得できた。


そして――


続けて西嶋さんから語られた内容は、さらに衝撃的だった。


彼女が星華女子学院の美術部に所属していたこと。

美術部の先輩と、顧問の先生が立て続けに殺されたこと。

そして、自分自身も殺されそうになったこと。


さらに、美崎さんの祖母が星華女子学院の前身である“秀麗女学院”の出身で、100年近く前の殺人事件に巻き込まれた人物であること。


私は、言葉を失っていた。


資料で読んだ過去の事件が、急に生身の記録として目の前に現れたようだった。


新聞記事の文字とは違う。

そこには、事件の当事者にしか語れない声があった。


「ところで……あなたは、あの絵をご覧になったことがあるのですよね」


一通り話し終えたところで、西嶋さんが不意にそう言った。


私は、短く頷いた。


西嶋さんは、続けて尋ねてきた。


「彼岸花の隙間に、何か“別のもの”が見えたりしませんでしたか」


その瞬間、私の脳裏に記憶が甦った。


見えた。


ほんの短い時間だったが――

“妖精”の姿が。


私がそのことを話すと、西嶋さんは大きく目を丸めた。


「私も見たことがあるんです……“妖精”の姿を」


また驚いた。

私と同じ体験をした人が、他にもいた。


では、あれは幻覚などではなかったのか。


でも、見える人と見えない人がいるようだ。

少なくとも、あの場にいた三沢先生や畑崎さんには、見えていた様子はなかった。


今度は、美崎さんが口を開いた。


「私の亡くなった祖母も、あの絵の中に“妖精”が見えたと申していました。後に、千晶さんと仮説を立てたんです。あの絵の中に妖精が見えるのは、“ある体験”をした人ではないかと――」


「ある体験?」


私が聞き返す。


「はい。“ある特殊なご遺体”を目の当たりにした人物だけに、見えるのではないかと」


ある特殊なご遺体。


その言葉を聞いた瞬間、私はまさかと思った。


「そ、それって……彼岸花に囲まれるように飾られたご遺体ですか」


美崎さんと西嶋さんは、同時に静かに頷いた。


喉の奥が、ひやりと冷えた。


「わ、私……見たんです。ニュースにもなったので、ご存知かと思います。名古屋で女性警官が殺された事件……あれ、私は第一発見者の1人なんです」


「やはり、そうなのですね」


西嶋さんは、驚くというより、何かを確かめるように呟いた。


「ただ、だからといって、誰にでも見えてしまうわけではないようです。先輩のご遺体を最初に見たのは私ですが、先生のご遺体は別の友達と先輩も見ています。それに、蛍子さんのおばあさまも、ご遺体をご覧になったと聞きましたが、他のお友達もいらっしゃったそうです」


西嶋さんの言葉に、私は合点がいった。


三沢先生も、遺体発見現場に居合わせていた。

けれど、彼に妖精が見えている様子はなかった。


「それと――」


西嶋さんが続けた。


「あの絵は……決して“逆さまに見てはいけない”と言われています」


私の背筋に、冷たいものが走った。


絵は、私のスマホに画像データとして保存してある。


今まで幸運なことに、逆さまに見たことはなかった。

けれど、それは偶然にすぎない。


西嶋さんの言っていることが本当なら、これからは十分に気をつけなければならない。


スマホの画面を不用意に回転させるだけでも、どうなるかわからない。


後で画像をパソコンに移し、向きが変わらないよう設定しておこう――

そんな現実的な対策を考えている自分が、少しおかしかった。


でも、笑えなかった。


*


私が目を細めて俯いていると、西嶋さんが声をかけた。


「紅茶……冷めないうちに、どうぞ。それに、このケーキ……この辺りで有名なお店の人気スイーツですので、ぜひ召し上がってください」


明らかに、私の顔色の変化に気づいて、気を遣ってくれているようだった。


私は「いただきます」と言って、紅茶を一口含んだ。

ほどよい渋みと豊かな香りが、口の中に広がった。


ケーキをフォークで切り分けて口に入れると、こちらも美味しかった。

濃厚な甘みが、口の中で溶けた。


ようやく、少しだけ呼吸が整った。


その時、西嶋さんがふと訊いてきた。


「ところで、池内さん。つかぬことをお伺いしますが――」


西嶋さんは、呼吸を整えるように一拍置いた。


「“下のお名前”は、何とおっしゃるのでしょうか」


私は質問の意図が読めずに、目を丸くした。


「“茜”です……それが、何か」


すると西嶋さんは、隣に座っている美崎さんと顔を見合わせた。

そして、静かに頷く。


「少々お待ちいただけますか」


西嶋さんはそう言って席を立ち、別の部屋へ移動した。


リビングには、私と美崎さんだけが残された。


美崎さんは、何も言わなかった。

ただ、テーブルの上に置かれた紅茶のカップを、じっと見つめている。


その沈黙が、妙に重かった。


しばらくして、西嶋さんが1通の封筒を手に戻ってきた。

ずいぶんと年季の入った封筒だった。


西嶋さんは、それを私に差し出した。


「これを……あなたにお渡しします。中身をご覧ください」


私は封筒を受け取った。

紙の表面は、少しざらついている。


封を開け、中身を取り出す。


それは――

女性が写った2枚の写真だった。


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