第46話 名古屋から広島、そして大阪へ
この日は、木曜日だった。
朝一番に名古屋駅を出る新幹線に乗り、私は広島へ向かった。
私は、一度決めたら、すぐにでも行動に移したくなるタイプだった。
だから、昼頃までに着けばいいなどと、悠長に構えてはいられなかった。
実家にいる家族にも、今日帰省するという連絡はしていない。
いきなり顔を出したら、きっと驚くだろう。
そもそも、帰省が目的ではない。
広島県庁で、“黄島早記”の痕跡を調査すること――
それが今回の目的だった。
三沢先生が、共同調査の旅費として、研究費から支出する手続きをしてくれた。
調査の背中を押してくれただけでなく、金銭の工面までしてもらったのだ。
私は、つくづく幸せ者だと思った。
*
広島駅に到着したのは、午前9時前だった。
広島駅で広島電鉄に乗り換え、十数分で紙屋町東電停に降り立った。
電停を降りると、県庁の建物が目に入った。
広島市の気温は、名古屋よりも低く感じた。
朝の光は、空を覆う薄い白雲に遮られていた。
駅の周辺に流れてくる風も、妙に冷たかった。
県庁の建物に入ると、受付で“歴史研究所”という組織について訊いてみた。
受付の女性は首を傾げながら、
「担当者にお繋ぎします」
と言って、内線電話をかけた。
もしかして、“歴史研究所”はもう存在しないのだろうか。
受付の女性が電話で話している間、私はそばの壁に掲示されていた案内板に目をやった。
案内板に並んだ部署名を、上から順に目で追った。
けれど、やはりその名前はなかった。
しばらくして、受付の女性から、
「文化芸術課の担当者がお話を伺えるそうです」
と言われた。
私は礼を言い、本館の2階にあるという文化芸術課の執務室へ向かった。
*
対応してくれたのは、40歳前後の女性職員だった。
室内のカウンター越しに向かい合う。
私はN大学の大学院で風土史と美術史を研究しており、その調査の一環で訪れた旨を説明した。
「“歴史研究所”は、2000年代の初め頃に閉鎖されていますね」
女性職員から出た言葉は、やはり予想通りだった。
「こちらに、当時の資料などは残っていませんか」
私は尋ねた。
女性職員は、
「少々お待ちください」
と言って席を立つ。
5分ほどして、奥の部屋からいくつかの資料を持って戻ってきた。
歴史研究所に関する資料一式が、カウンターの上に並べられた。
その中に、歴史研究所が毎年発行していた年報があった。
巻末には、その年度に所属していた職員の名前が記されている。
歴史研究所は、1980年から2003年まで存在していたようだ。
私はページをぱらぱらとめくる。
そして――
その中に、“黄島早記”の名前を見つけた。
1983年から1985年まで名前の記載がある。
指先が、一瞬止まった。
やはり、いた。
40年前の広島に、黄島早記は実在していたのだ。
私は、再び女性職員に尋ねた。
「こちらの“黄島早記”という方……お写真などは残っていないでしょうか」
女性職員は、「なぜそんなことを訊くのか」と言いたげに、怪訝そうな顔をした。
そして、淡々と答える。
「おそらく存在しないと思います」
たしかに、県庁に当時の職員の顔写真まで保管されているとは限らない。
在籍していた事実は掴んだ。
けれど、それ以上には進めなかった。
私は目の前にある年報を見下ろしながら、胸の奥に小さなもどかしさを覚えた。
*
行き詰まった私は、県庁を後にすると、しばらく広島市内を散策することにした。
よく考えてみると、大学院に進学して以来、まともに帰省していなかった。
きちんと実家に泊まるのは、およそ4年ぶりだ。
特に市の中心部は、私が知っている景色から、ずいぶんと変わっていた。
母に、今日の夕方には実家に戻るというメールを送った。
予想通り、かなり驚いた返事が返ってくる。
事前に連絡してくれればよかったのに、という小言めいた文章まで添えられていた。
私の実家は、広電西広島から徒歩10分ほどの距離にある。
途中、車窓の向こうに、白い外壁の立派な校舎が見えた。
“星華女子学院”の建物だ。
今から40年以上前――
そこで凄惨な殺人事件が起こったとは思えないほど、西日が建物の白に映えていた。
その白さが、かえって不自然に感じた。
過去の血も、悲鳴も、噂も――
すべてが、きれいに塗り込められているように見えた。
*
実家に到着したのは、午後5時を少し回った頃だった。
住宅街の中にある、何の変哲もない木造2階建ての家。
けれど、高校卒業まで過ごした家だ。
やはり真っ先に胸に込み上げてきたのは、懐かしさだった。
母と、10歳年下の妹が私を迎えてくれた。
メーカー勤めの父は、ちょうど関東に出張中らしい。
夕食の時間――
女同士で食卓を囲んでいる時に、私はふと母に訊いてみた。
「お母さん、広島市内に“星華女子学院”って女子校があるでしょ? そこで、40年くらい前に殺人事件があったって聞いたことある?」
「40年前? 私もお父さんも九州の生まれだから、ここに家を建てたのは、あなたが生まれた年なのよ。まだ広島にいなかったんだから、わかるわけないでしょ」
そうだった。
父も母も、もともとは広島の人間ではない。
「へえ……そんな話、私も初めて聞いた」
妹も、そう言って口を挟んできた。
やはり、40年という時の流れは、短いようで長いのだと思った。
黄島早記という人間が、かつて広島の歴史研究所にいたという事実は掴んだ。
けれど――
陽菜が教えてくれた、広島在住のインフルエンサーと同一人物なのかは、今のところまったくわからない。
母も妹も、“黄島早記”の名前を知らなかった。
スマホに顔を表示させて見せてみても、ぴんと来ない様子だった。
陽菜も「最近現れた」と言っていた。
まだ広く知られている人物ではないのだろう。
せめて、40年以上前に歴史研究所に存在した黄島早記の写真が手に入れば、と思った。
けれど、それも叶わなかった。
調査が、いったん暗礁に乗り上げたような気分になった。
*
久しぶりに、高校時代まで使っていた部屋に入った。
部屋の中は、勉強机もベッドも、私が実家にいた頃のままだ。
どうしても片づけられないと、たまに実家へ顔を出すたび、母はそう言っていた。
入浴を済ませてパジャマに着替えると、私はベッドの上に仰向けになった。
スマホの画面に目をやる。
入浴中に、メッセージが入っていたようだ。
差出人は、三沢先生だった。
内容は――
三沢先生の研究用ホームページに、彼岸花の絵の作者に関する情報を募ったところ、さっそく書き込みがあったらしい。
情報提供者は、“西嶋千晶”という人物。
58歳の女性で、大阪在住。
メッセージには、三沢先生から短い補足も添えられていた。
《この人は、かなり具体的なことを知っているようだ。連絡を取ってみる価値はある》
書き込みには、私からの連絡を希望する旨と、メールアドレスが添えられていた。
私はそのアドレスへ、メッセージを送った。
《突然のご連絡、失礼いたします。N大学大学院の池内と申します。彼岸花の絵について、ぜひ直接お話を伺えないでしょうか》
すると、30分ほどで返信が届いた。
明日の午後2時。
大阪市淀川区にある自宅マンションで、話を聞かせてくれるという。
広島で行き詰まった調査とは別に、彼岸花の絵の調査線が先に動き出した形になる。
私はスマホの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
西嶋千晶。
その名前が、どこか胸に引っかかった。
けれど、この時は思ってもみなかった。
この“西嶋千晶”という人物との出会いが、私の調査を大きく進展させるきっかけになるなんて。




