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第44話 美のインフルエンサー

それから間もなく、私たちは城野記念館を後にした。


結局のところ、私たちは“封印された箱”を開けることはなかった。


畑崎さんの語気が強かったこともある。

ただ、それ以上に、やはり怖かったのだ。


私も。

三沢先生も。


研究者としては、失格なのかもしれない。


その代わり――

私は2階へ続く階段の脇に飾ってある“彼岸花の絵”を撮影させてもらった。


夕方、昭和区の賃貸アパートに戻ってから、ベッドの上に仰向けになり、その画像を眺めた。


燃えるような赤の群生。

背後に立ち上がる入道雲。

そして、左右非対称の模様が施された、艶を帯びた金色の額縁。


私は右手の親指と人差し指で画像を拡大した。


右下の辺り。


彼岸花の隙間。


けれど――


そこにはもう、“妖精”の姿は見えなかった。


*


翌日――


私は大学の構内にある図書館へ向かった。


いつものように、1階にある大学院生専用のブースの1つに陣取る。


撮影した“彼岸花の絵”の由来を調査し、博士論文のテーマにできないか。


中国地方の風土史と近代美術史が交わる領域――

それに関連する書籍や先行論文を探し出し、ブースの机の上に置いた。


地域的にも、時代的にも、テーマはかなり限定されている。

そのため、参考になりそうなものは非常に少なかった。


まずは、それらを探し出すだけで、かなりの時間を割いてしまった。


畑崎さんは、この絵が40年近く前の広島の事件に関連すると言っていた。


いったい、どういう意味だろうか。


そもそも、この絵の作者はどんな人物なのだろう。

名もない市井の人物である可能性が高い。


けれど、構図や色使いに、なぜか妙に惹かれてしまう。


ただ美しいだけではない。

見ていると、こちらの視線まで絵の中へ引き込まれていくような感覚があった。


*


夕方になっても調査は遅々として進まなかったので、この日は諦めて図書館を出ることにした。


西の空に沈みかかった夕日が、冬空を赤く染めていた。

東の空は、もう濃い群青を帯びていた。


「池内さーん」


背後から、甲高い声が響いた。


振り返ると、やはり三沢ゼミの学部生の真田陽菜だった。

私の方へ、いそいそと近寄ってくる。


派手なジャンパーを羽織っているものの、下はミニスカートにニーハイソックス姿。


この冬場に、見ている方が寒くなる。


「池内さん、今日は一段と真剣な顔つきでしたよね。近寄りがたいオーラ、放ってましたよ」


陽菜が私の顔をまじまじと見ながら、目を細めて言った。


「私は、いつだって真剣だよ。陽菜ちゃんこそ、今日も図書館でお勉強? けっこう頑張ってるよね」


私が半分皮肉を込めて口を開くと、陽菜はニッと微笑んだ。


「ところで、池内さん。夕食まだでしょ? 美味しいイタリアンのお店を見つけたんだけど、一緒に行きません?」


年上の私に奢ってもらおうという魂胆だろう。


陽菜の方が、バイトで稼いでいるはずなのだが。


けれど、この子には不思議な魅力があるのも確かだった。


6年近く年齢が離れているが、妙にウマが合う。

会話も弾むことが多い。


それに――

陽菜と会話を続けるうちに、不思議と気力が湧いてくるのだ。


博士論文の構想に詰まっている今の私にとっては、ちょうどいい気分転換になりそうだった。


「いいよ。どこにあるお店かな?」


私は陽菜に訊いた。


「本山です。地下鉄で1駅だから、すぐですよ」


私と陽菜は、そのまま地下鉄の駅へ向かった。


*


その店は、地下鉄本山駅から徒歩5分ほどの場所にあった。


メタリックイエローの洒落た外観をした雑居ビル。

そのビルの2階にある店内は、若い男女で賑わっていた。


ちょうど窓際の席が空いており、私と陽菜はそこに案内された。


メニューに目を通すと、意外にも値段はリーズナブルだった。


キノコのピザと、キノコ入りのクリームパスタを注文した。


正面に座ってニヤニヤしている陽菜の顔が目に入った。


店内の照明を受けて、彼女の肌がいつもより明るく艶やかに見えた。


「あれ? 陽菜ちゃん、もしかしてメイク変えた?」


私は不意に尋ねた。


すると陽菜は、よりいっそう笑みを深めて、


「やっぱり、わかります?」


と弾んだ声で答えた。


そして、さらに言葉を続けた。


「最近現れた推しのインフルエンサーがいて、その動画を参考にメイクしたんですよ。どうです?」


私は、陽菜の顔をじっと見つめた。


アイシャドー。

チーク。

リップ。


どれも以前より洗練された印象を受ける。


「へえ……メイクの仕方で、ここまで変わるもんなんだね」


「そうなんですよ。これ、バイトしてるラウンジの女の子の間でも流行ってるんです。そうそう、この“黄島早記”って人、たしか池内さんの実家と同じ広島市在住らしいですよ」


黄島早記。


その名前は――

昨日、“城野記念館”で見た名前だ。


陽菜はスマホに“黄島早記”のプロフィール画面を表示させ、私に見せてくれた。


肩の下まで伸びる、ウェーブのかかった金色の髪。

透き通るような白い肌。

目鼻立ちの整った、美しい顔。


そして――


左目には、向日葵を思わせる黄色い虹彩が輝いていた。


どこか人間離れした印象だった。


「左目には、黄色のコンタクトを入れてるらしいですよ。ラウンジの子でも真似してる子がいますけど……私は嫌かな。目が疲れそうだし」


陽菜は黄島早記の画像に目をやりながら、そう言った。


プロフィール欄には、たしかに“広島市在住”と書かれている。


私の胸の奥が、ざらざらと音を立てた。


名前は――

間違いなく“黄島早記”と表示されていた。


私は昨日撮影した大学ノートのページを、スマホの画像で確認した。


岡崎多香子という星華女子学院の卒業生が、40年以上前に書いた日記――

そこに記されていた女性と、まったく同じ名前だった。


ピザとパスタが、私たちのテーブルの上に運ばれてきた。


陽菜は、


「いただきまーす」


と手を合わせて、それらを美味しそうに頬張る。


私はすぐに、口に入れる気にならなかった。


外に目をやる。


窓際のガラスに、私の顔が薄らと浮かんでいた。


窓ガラスに映った私の顔は、店内の照明に染められ、左目の辺りだけが黄色く見えた。


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