第42話 城野記念館
翌週の月曜日――
私と三沢先生は、大学から市営地下鉄名城線に乗り込み、およそ20分で熱田神宮伝馬町駅に到着した。
“城野記念館”は、熱田神宮からほど近い場所に、ひっそりと佇んでいた。
赤い屋根。
白と黒のストライプ状の外壁。
木造3階建ての建物だった。
どこか浮世離れしたその外観は、周囲の景色から切り離されているように見えた。
鉄柵で作られた大きな門は、開放されていた。
その先には、玄関まで続く荘厳な石畳の道が伸びていた。
右側の門柱には、達筆な楷書で「城野記念館」と書かれた真鍮の表札が埋め込まれていた。
門を抜けた先では、両側に並ぶ高木の黒い枝が、冬の風を受けて静かに揺れていた。
私たちは玄関の前まで進むと、三沢先生がインターフォンを押した。
「どちらさまでしょうか」
低い男性の声が、インターフォン越しに聞こえてきた。
「N大学の三沢と申します。本日は急なお願いで申し訳ありません。館内を拝見したく参りました」
三沢先生がそう答えると、しばらくして、立派な装飾の黒いドアがゆっくりと開いた。
中から顔を出したのは、年配の男性だった。
年齢は、おそらく70歳を超えているように見える。
ただ、白髪はオールバックで整えられ、黒いスーツの着こなしにも乱れはない。
どこか上品な印象を受けた。
「失礼ですが、“紹介状”をお持ちでしょうか」
年配の男性は、三沢先生に向かって尋ねた。
三沢先生はジャケットの内ポケットから白い封筒を取り出し、その男性に差し出した。
「本学の文学部長である“夫津木先生”からの紹介です」
年配の男性は封筒の中身を確認すると、
「失礼いたしました。こちらへ――」
と丁寧に頭を下げて、私たちを建物の中へ招き入れてくれた。
後に聞いたところによると、三沢先生は週末のうちに、文学部長から紹介状を取りつけていたらしい。
*
玄関を入ってすぐ正面には、閉ざされた両開きの大きな扉があった。
脇の壁に、長方形のセンサーが取り付けられている。
おそらく、この向こう側にいろいろなものが所蔵されているのだろう。
私の胸が、わずかに高鳴った。
けれど――
まず私たちが通されたのは、玄関のすぐ左手にある立派な応接室だった。
高い天井からは、瀟洒なシャンデリアが吊り下がっている。
部屋の中央には、漆塗りのやや黒みがかったテーブルが置かれている。
それはシャンデリアから降り注ぐ黄色い光を受けて、よりいっそう艶を際立たせていた。
テーブルを挟んだ黒革のソファも、同じように鈍い光沢を帯びている。
部屋の壁際に配置された棚には、壺などの骨董品が等間隔で置かれていた。
私は、ふと窓の向かい側の壁へ目をやった。
眼鏡をかけた白髪の老人の肖像画。
見覚えがあった。
この人物こそ、“城野賢志”その人だ。
私たちは手前のソファを勧められた。
年配の男性は、
「少々お待ちください」
と口にして、部屋を出ていく。
三沢先生は私と2人きりになったことを確認すると、正面を見据えたまま呟いた。
「驚いただろ? ここは“紹介状”を持った研究者と、その関係者しか入館できないんだ。でも、そのぶん“表に出ていないもの”を発見できる可能性は高い」
正直、私も驚いていた。
けれど同時に、研究者としての好奇心が沸々と湧き上がってくるのを感じる。
しばらくして、年配の男性が戻ってきた。
彼が両手で持つ銀製のトレーには、湯気の立つ白磁のカップが載っていた。
彼は私たちの前にそれぞれカップを置くと、トレーを脇の台へ置き、立ったまま口を開いた。
「申し遅れました。私は当館の執事を務めております“畑崎勤”と申します。あいにく名刺の類を持ち合わせておりませんので、ご容赦くださいませ」
そう言って、一礼する。
私たちも慌てて立ち上がり、頭を下げた。
その後、お互いに向かい合って腰を下ろすと、三沢先生がおもむろに声を出した。
「こちらの記念館は、畑崎さんがお1人で管理されているのですか?」
「はい。私は城野先生の秘書を長年務めておりまして、先生が亡くなられる間際に、当館の執事として管理を任されたのでございます」
畑崎さんはそう言うと、懐かしそうに目を細め、壁際にある城野賢志の肖像画へ目をやった。
そして、再び私たちの方へ向き直る。
「……ところで本日は、どういったものをお調べに参られたのでしょうか」
畑崎さんの問いに、三沢先生が身を乗り出しながら答えた。
「率直にお伺いします。こちらに、かつて広島市で発生した殺人事件に関する資料が保管されていると聞いております。たしか40年近く前、女子校の教師と生徒が亡くなった事件です」
すると畑崎さんは、三沢先生の顔をまっすぐ見ながら口を開いた。
「ええ。たしかにそれに関する資料一式は、生前、城野先生が興味を持たれ、広島の女子校から譲り受けられたものでございます。ただ――」
畑崎さんの表情が、わずかに険しくなった。
「あまりご覧になるのは、お勧めできませんが」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
しばらくの沈黙の後、三沢先生が再び言葉を出した。
「我々は、研究者の端くれです。どういう理由やいわくが存在するにせよ、ぜひともこの目で確認したい。こちらの池内くんは、私のゼミで大学院の博士課程に所属しています。そろそろ博士論文の構想を詰める時期でして、彼女を立派な研究者に育てるためにも、いろいろな資料に触れる経験をさせたいのです。何とか、お願いできないでしょうか」
三沢先生の表情は、真剣そのものだった。
それに――
その言葉には、胸を打たれるものがあった。
研究者とは、こういうものだ――と、三沢先生の姿から、そんな熱が伝わってくる。
畑崎さんは、しばらく宙を仰いだまま口を引き結んでいた。
そして、
「せっかくの紅茶が冷めてしまいます。どうぞ――」
と私たちに紅茶を勧めてくれた。
私も三沢先生も軽く頭を下げ、白磁のカップの取っ手を持った。
そのまま紅茶に口をつけると、ほのかな渋みが広がった。
私たちがカップをテーブルの上に戻すのを見計らって、畑崎さんは言った。
「研究者の方は、皆さん、そうおっしゃいますね。その情熱には、いつも感服するばかりです」
畑崎さんは微笑みながら、一拍置いた。
「承知いたしました。その文書資料は、2階の部屋で保管しております。参りましょうか」
*
私たちは畑崎さんに促されて応接室を出ると、先ほど目にした、玄関の正面にある両開きの扉の前まで案内された。
畑崎さんは、長方形のセンサーの前に顔を近づけた。
がちゃり。
扉の鍵が外れる音がした。
顔認証センサーのようだ。
私設の記念館にしては、厳重なセキュリティが施されている。
畑崎さんが、ゆっくりと扉を開けた。
中には、30畳ほどはありそうな長方形の空間が広がっていた。
暗めの色調を帯びた赤い絨毯が、部屋の床を覆っている。
「こちらに階段がございますので」
畑崎さんが、右手を示した。
よく見ると、途中の壁には等間隔でさまざまな絵が飾られている。
ふと、階段のすぐ脇に掛けられた絵に目が留まった。
私は思わず立ち止まり、その絵の方へ向き直った。
「池内さま……とおっしゃいましたね。絵にご興味がおありですか」
畑崎さんも足を止めて、私にそう尋ねた。
「はい。博士論文では、美術史に関わる題材も候補に考えていまして。それにしても……何か不思議な感じがする絵ですね」
真っ赤な彼岸花の群生。
背景の青空に描かれた、湧き上がる白い入道雲。
季節が、どこかずれている絵だ。
絵が収まっている額縁は、金色に輝いている。
額縁には左右非対称の模様が施され、一見ばらばらなのに、なぜか視線を引き寄せられた。
「この絵は……先ほど三沢先生がおっしゃった、広島の事件に関連するものなのですよ」
畑崎さんが、静かに口を開いた。
その言葉が耳に入った瞬間――
私は、心臓が早鐘のように打っていることに気づいた。
それに――
どういうわけか、その絵から目を離そうにも離せなかった。
この絵が、私に「目を逸らすな」と訴えているように思えたのだ。
そして――
後で思えば、きっと幻覚を見たのだと思う。
右下の彼岸花の隙間――
そこには、“妖精”のような姿があった。
その妖精は、小さな両腕を胸の辺りで交差させているように見えた。




