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第37話 侵入したもの

三枝先生は四つん這いのまま顔を上げると、にいっと白い歯を見せた。


そのまま、ゆっくりと後ろを向き、外れた壁の板を元の場所へ戻した。


かたん、という乾いた音が、薄暗い室内に響いた。


以前、私が資料室の扉の前まで行った時――


資料室は頑丈な錠前で閉ざされていたはずなのに、中から人の気配がした。

あれは、別の入口があったからなのか。


三枝先生は後ろ向きのまま、ゆっくりと立ち上がった。

ひとつに束ねられた長い黒髪が、薄い闇の中でわずかに揺れた。


そのまま、やや猫背の姿勢で、ゆっくりと私の方を向いた。


三枝先生の表情には、不気味な笑みが浮かんだままだった。


私は全身に鳥肌が立った。


縛られて動けないにもかかわらず、身体は小刻みに震えている。


三枝先生は、私の方へ歩み寄ってきた。

彼女のスニーカーが床を擦る音が、ゆっくりと近づいてきた。


「み、三枝先生……わ、私をどうするつもりなんですか」


私はつい、声を張り上げた。


三枝先生は何も答えない。


私の前で中腰になると、眼鏡を外した。


私は思わず、「ひっ」と声を漏らしてしまった。


三枝先生の両目は、黒目が極端に小さくなっていた。

そのほとんどを、白目が占めていた。


ただ、その小さな瞳には、鋭い光が宿っていた。


短い息遣いを繰り返しながら、三枝先生の大きく見開かれた目の奥で、瞳だけが動いていた。


私の顔を、舐めるように――

右へ。

左へ。

また、右へ。


三枝先生の様子は、明らかに普通ではなかった。


まるで――


三枝先生の中に、別の何かが侵入してしまったように感じた。


しばらくすると、三枝先生は再び眼鏡をかけた。

そして、私に背を向ける。


「森崎さん……あなたは、どちらがよろしいかしら」


その声は、やけに静かだった。


私は意味がわからず、ただ息を呑んだ。


三枝先生は、奥の机の上に置いてあった大きな箱を開けた。


彼女は、その中に手を入れる。


私の背中は、汗でぐっしょり濡れていた。


三枝先生の言葉の意味は理解できなかった。


けれど、とてつもなく悪い予感がした。


三枝先生は箱から何かを取り出して、こちらを振り向いた。


細く長い針金を丸めたもの。

それから、やや大ぶりのハンマー。


「真壁さんのようにするか、間宮先生のようにするか、あなたが好きな方を選んで。どちらも嫌なら、別の形を考えてもいいけれど」


三枝先生の声は、蒸し暑い室内に、氷のように冷たく響いた。


「由布子! もうやめよう!」


不意に背後から、伊勢崎先生の声が聞こえた。


三枝先生は、左手に針金、右手にハンマーを持ったまま、私の前で立ち止まった。


やがて、同じように冷たい声で言った。


「健介さん……もう、戻れるわけないでしょ? 森崎さんに、私たちの関係を気づかれてしまった。だから、彼女もきれいに飾ってあげないと……“あの方”も、そう望んでいらっしゃるはずよ」


あの方。


いったい誰のことだろう。


「由布子! 君はこの資料室でいろいろ調べているうちに、おかしくなったんだ。僕も、君との関係が明るみに出るのが怖くて協力してきた。でも、もうここまでに――」


「嫌よ! 嫌! 嫌! 嫌!」


三枝先生は長い髪を振り乱すように頭を左右に振り、両手と両足をばたつかせた。

まるで、駄々をこねる幼い子供のようだった。


あの静かで知的な印象とは、似ても似つかない姿だった。


「いいわ。森崎さんは……両方にしましょう。真壁さんと間宮先生、2人と同じ最期を一度に迎えられるなんて……あなたは幸せ者だわ」


何かが崩れたような笑みを浮かべながら、三枝先生がゆっくりと歩み寄ってくる。


もう、だめだ。


私は覚悟を決めた。


その時――


どん。


どん。


がしゃん。


資料室の扉の方から、大きな音が響いた。


錠前が外れ、勢いよく扉が開いた。

3人の警官が、室内へ飛び込んできた。


「警察です! 動かないで!」


そのうちの1人は、私の背後にいた伊勢崎先生の方へ近づいた。


伊勢崎先生は、何の抵抗もしなかった。


けれど、三枝先生は違った。


持っていたハンマーを、他の2人の警官に向かって振り回したのだ。

ハンマーの空気を裂くような音が、湿気に覆われた室内に響く。


やがて、三枝先生は警官たちに取り押さえられた。

それでもまだ、言葉にならない叫び声を上げていた。


警官の1人が、私の身体を縛っている縄を解いてくれた。


「大丈夫? 怪我はない? あの人が通報してくれたおかげで、間に合ったよ」


その警官は、顔を扉の方へ向けた。


扉の陰で、こっそりとこちらを見ている男の人の姿が見えた。


それは――


御厨さんだった。


私は旧校舎に来る途中で、御厨さんが何かを訴えるように口を動かしていた姿を思い出した。


あの時、御厨さんは私を追っていたのではない。

もしかしたら、止めようとしていたのかもしれない。


伊勢崎先生は警官の1人に手錠をかけられ、そのまま部屋を出ていった。


三枝先生は、2人の警官に両腕を押さえられていた。

それでもまだ、大きく身体を動かして抵抗していた。


警官たちも、必死に制止しようとしていた。


ところが――


「ううっ」


突然、三枝先生が低い唸り声を漏らした。


「お、おい! どうした?」


警官の1人が、狼狽して口を開いた。


警官たちが一瞬拘束を緩めると、三枝先生はその腕を振り払い、そのまま仰向けに倒れ込んだ。


「大丈夫か!」


警官たちが三枝先生のそばへ屈み込み、大きな声で呼びかけた。


私も恐る恐る、その場へ近づいた。


三枝先生は口元に泡を溜めたまま、途切れ途切れに言葉を発した。


「あ……ざ……さま……こ、これで……あなたの……」


そんな言葉を出すと、大きく目を見開いたまま、動かなくなった。


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