第35話 花まみれの教師
翌水曜日――
昼休み前の4時間目は、間宮先生の社会科の授業だった。
昨日、車の中で抱いた一抹の不安は、間宮先生の張りのある声を聞いていると、薄らいでいった。
降り続いていた雨は止み、少しだけ梅雨の晴れ間が覗いていた。
地面には水溜まりやぬかるみが残っている。
けれど、空の薄い青が水の表面に反射していた。
授業が終わって昼休みに入った時、私は間宮先生に声をかけられた。
「森崎さん……今日こそ資料室で手がかりになりそうなものを集めるわよ」
廊下の隅で、間宮先生が小さな声で言った。
片目を瞑り、白い歯を覗かせた笑顔は、まるで好奇心旺盛な少女のようだった。
昨日の険しい表情とは打って変わって、まるで別人のように思えた。
*
昼休み明けの5時間目――
毎回のことだけれど、この時間には睡魔が襲ってくる。
私は大きなあくびをして、ふと窓の外へ目をやった。
窓際の席なので、つい外を見るのが癖になっていた。
すると、間宮先生の姿が見えた。
ひとりで校庭を横切って、新校舎の角の向こう側へと姿を消したのだ。
新校舎の角を曲がったということは、おそらく行き先は旧校舎のはずだ。
間宮先生は、5時間目の授業を受け持っていないのだろう。
だとすれば、この時間は自由に動けるはずだった。
けれど――
もし旧校舎へ向かっているとしたら、どういう目的があるのだろうか。
昨日、三枝先生には放課後に鍵を借りに来ると伝えたはずだ。
資料室へ入るなら、三枝先生が一緒でないとおかしい。
それに――
昼休み前に、私にも声をかけたではないか。
あれは「一緒に行こう」という意味のはずだ。
そんなことを考えながら、再び窓の外に目を向けると――
ぼさぼさの髪。
曲がった背中。
よれよれの作業着。
用務員の御厨泰造さんの姿があった。
御厨さんも、ゆっくりとした足取りで校庭の石畳の道を進んでいる。
そして、新校舎の角を曲がった。
まるで――
間宮先生の後を追うように。
「森崎さん!」
その時、教壇の方から甲高い女性の声が聞こえてきた。
今は英語の授業中だった。
声を出したのは、英語の先生だ。
「よそ見は感心できませんね。授業は真剣に受けてもらわないと、内申点に響きますよ」
私は顔を赤くして、「すみません」と小さな声で謝った。
周囲からは、くすくすと乾いた笑い声が聞こえてきた。
それでも、間宮先生と御厨さんの姿が、目に焼き付いて離れなかった。
しばらくして、もう一度だけ窓の外に目をやった。
けれど、もうそこには、誰の姿もなかった。
*
私はそれからずっと、変な胸騒ぎが収まらなかった。
放課後になると、すぐに職員室へ向かった。
「間宮先生はいらっしゃいますか」
ちょうど職員室から出てきた若い男の先生に声をかけた。
その先生は職員室の奥まで行き、しばらくして戻ってきた。
「間宮先生は、いらっしゃらないみたいだぞ。そういえば、午後から姿を見てないな。午後からは受け持っている授業もなかったみたいだけど、まだ校内のどこかにいらっしゃるんじゃないのかな」
私の心臓の音が、耳の奥にまで響いているのがわかった。
間宮先生が、私との約束を忘れてしまうわけがない。
そう思った。
旧校舎へ向かおうと、廊下に出た瞬間、帰ろうとしていた真紀と出くわした。
真紀を引き留めたところへ、今度は階段から下りてくる岡崎多香子先輩の姿が目に入った。
私は2人に事情を話した。
「私も部室に荷物を取りに行こうと思ってたところなんだ。旧校舎に1人で行くのもどうかなって不安だったから、ちょうどよかったよ」
岡崎先輩が、そう言ってくれた。
真紀も頷いた。
こうして私たちは、3人で旧校舎へ向かうことになった。
*
久しぶりの旧校舎は、よりいっそう陰鬱な佇まいに見えた。
夕方になり、空には黒い雲が広がり始めている。
周囲は薄暗かった。
部活動が自粛されているせいもあり、人の気配はまったく感じられない。
かあ、かあ、という鳴き声が、旧校舎の屋根の辺りから響いてきた。
見上げると、屋根の上に数羽のカラスが羽を休めていた。
カラスはきょろきょろと首を振りながら、周囲を窺っているようにも見えた。
私たちは、1階の廊下に足を踏み入れた。
不意に、壁際の絵に目がいく。
初音さんと、二階堂玲子さんが描いたという絵。
立派な金色の額縁も、この日は暗い艶を帯びていた。
彼岸花の赤も、同じように暗く沈んだ色に見えた。
いちばん奥の“資料室”まで進む。
歩くたびに、床の軋む音が耳に入った。
資料室の扉の前に辿り着くと、大きな錠前が掛かったままだった。
念のため、岡崎先輩が扉に手をかけて引いた。
やはり、扉は固く閉ざされていた。
「間宮先生、いったいどこに行っちゃったんだろうね」
真紀が口にした。
「もしかしたら、美術室かもしれないよ。ちょうど荷物を取りに行かないといけないから、行ってみようよ」
岡崎先輩がそう言った。
私と真紀は、その後について階段を上った。
3階の中ほどにある美術部の部室。
真壁先輩の事件以来、ここを訪れるのは初めてだった。
並んで絵を描いていた真壁先輩を思い出して、胸が締めつけられる。
「すぐ戻ってくるから、待ってて」
岡崎先輩は入口の前に私と真紀を残し、ひとりで部室に入っていった。
そして、すぐ――
「きゃああああ!」
岡崎先輩の悲鳴が、静かな廊下の空気を引き裂いた。
私と真紀は、ほとんど反射的に部室の中へ飛び込んだ。
衝撃の光景が、目の前に広がっていた。
岡崎先輩は両手を口元に当て、両目に涙を浮かべている。
真紀は後ろにのけぞった瞬間、その場に尻餅をついた。
ぶるぶる震えて、立ち上がることもできないでいる。
部室の奥の方で、間宮先生が倒れていた。
両目は大きく見開かれたままだった。
後頭部は赤黒く染まっていた。
その近くの床にも、暗い染みが広がっている。
間宮先生は、顔をやや左に向け、うつ伏せに倒れていた。
右腕だけが頭上へ伸び、何かを指し示しているような形に見えた。
そして――
間宮先生の身体の上と、その周囲には、“彼岸花の造花”が無造作に置かれていた。
あまりにも異様な光景だった。
真壁先輩と同じように、間宮先生も赤い花の中で息絶えていたのだ。




