第33話 60年の空白
翌月曜日は、真壁先輩の事件が起きてから、最初の登校日となった。
黒い雲に覆われた空から、たくさんの雨粒が降り続いていた。
講堂には、まだ「立入禁止」の札が掛かったままだった。
校内全体が、事件の影響を引きずっていた。
ただ、授業中も休み時間も、時間だけは刻々と流れていく。
神妙な面持ちで、事件を話題にする子。
逆に、あえて事件には触れず、別の話題で無理に盛り上がっている子。
改めて観察してみると、本当に人それぞれだった。
先生たちは最初に事件の話題に触れつつも、受け持っている教科の授業を淡々と進めていった。
けれど、校内の空気は全体として重苦しかった。
大半の部活動には、当面の間、活動を自粛するよう伝達があった。
当然、私たち美術部も例外ではなかった。
*
放課後――
初音さんと蛍子さんと約束した通り、広島県庁の別館にあるという“歴史研究所”へ向かうことにした。
県庁は、学校からバスに乗れば10分程度で到着する距離にある。
事前に間宮先生に事情を話し、昨日Hホテルで初音さんから聞いたことを報告しておいた。
間宮先生は興味深そうに、私の話に耳を傾けていた。
その際、間宮先生から黄島さんの名刺をもらった。
そこに、歴史研究所の所在地が記されていた。
真紀も、ちゃっかりついてきた。
きっと彼女なりに、好奇心が芽生えてきたのだろう。
私も真紀がいた方が心強かったので、ちょうどよかった。
午後4時に、初音さんと蛍子さんと、県庁本館の玄関前で待ち合わせをしていた。
少し早めに着いたので、玄関先で傘を差したまま待っていると、5分くらいして2人の姿が見えた。
「今日は学校だったのに、申し訳ありませんね」
初音さんが丁寧な口調でそう言って、傘を差したまま、私たちに深々と頭を下げた。
私たちはかえって恐縮してしまい、「いえいえ」と返すしかなかった。
初音さんは昨日とは違い、紺色の着物だった。
その紺色が、梅雨空の下で妙に映えていた。
*
“歴史研究所”は、本館から少し北に向かった先にある別館の1階にあった。
研究所の部屋の扉は、開け放たれたままだった。
手前の受付カウンターには、30代くらいの女性が座っている。
その奥には、高さ2メートルほどの間仕切りが置かれていた。
そのため、部屋の奥の様子は見えなかった。
蛍子さんが、受付の女性に声をかけた。
「突然で申し訳ありません。こちらに“黄島早記”さんとおっしゃる方はいらっしゃいますか? この子たちは星華女子の生徒で、黄島さんにいろいろとご指導を受けたそうなんです。そのお礼を言いたいとのことですので」
蛍子さんは、私たちを示しながら、受付の女性にそう説明してくれた。
「少々お待ちください」
女性はそう言うと、間仕切りの向こう側へ移動した。
そして、1分もしないうちに戻ってきた。
「黄島がお会いすると言っています。あちらで、しばらくお待ちいただけますか」
そう言って、私たちを向かいの会議室のような場所へ案内してくれた。
大きなテーブルの周りに置かれた椅子に、私たちは腰を下ろした。
窓のブラインドの隙間から、灰色の光が室内に薄く射し込んでいる。
私は、隣に座っている初音さんの方に目をやった。
初音さんは緊張した表情で、膝の上に両手を置いている。
その指先が、わずかに震えているように見えた。
*
5分ほど経った頃――
扉がノックされて、黄島さんが部屋に入ってきた。
ベージュのジャケットにパンツスーツ。
初めて会った時と同じ服装だった。
金縁の眼鏡のレンズが、外から射し込む光をわずかに反射していた。
「森崎さん、河野さん……事件のことを知りました。真壁さんは大変でしたね……」
黄島さんは、私と真紀の顔を見るなり、そう口を開いた。
その表情は、悲しげに見えた。
けれど、どこか別の感情が隠れているような気もした。
次の瞬間――
黄島さんは、初音さんと蛍子さんの方へ目を向けた。
「この方たちは?」
独特の高い声が、室内に短く響いた。
初音さんは両目を大きく見開き、何かを確かめるように、しばらく黄島さんを見つめていた。
そして、ついに初音さんが口を開いた。
「黄島さん……いえ、“黄島先生”ではないのですか」
“黄島先生”。
初音さんは、たしかにそう口にした。
真紀も、蛍子さんも、初音さんの言葉を聞いて、明らかに動揺している。
黄島さんは、薄い笑みを浮かべたままだった。
何も言わなかった。
しばらくして、初音さんが再び口を開いた。
「私は工藤……いえ、久世初音です。覚えていらっしゃらないのでしょうか」
初音さんは椅子から立ち上がり、声に力を込めた。
すると、黄島さんは淡々と言葉を返した。
「おそらく……どなたか別の方と勘違いなさっているのではないでしょうか。申し訳ありませんが、用件が立て込んでおりますので、これで失礼いたします」
そう言って、笑みを崩さないまま、部屋を後にした。
呼び止める間もなかった。
扉が閉まる音だけが、妙に大きく響いた。
*
私たちは、県庁のロビーまで移動すると、並んでいるソファに腰を下ろした。
蛍子さんが、初音さんに訊いた。
「“先生”って、どういうこと」
初音さんは項垂れたまま、小さな声で答えた。
「……そっくりだったのよ。私が秀麗女学院にいた頃に、図画を教えてくださった先生に。それに、お名前までまったく同じなんですもの」
私の背筋がひやりとした。
初音さんの言っている通りに“黄島さん”が“黄島先生”だとしたら、彼女は現在、少なくとも80歳を超えている計算だろう。
ありえない。
黄島さんは、どう見ても30歳前後にしか見えない。
昨日、初音さんが黄島さんの年齢を気にしていた意味が、ようやくわかった。
私の心中をよそに、初音さんは続けた。
「卒業以来、一度もお会いしていませんでしたけど……髪型や身に着けているものこそ違いますが、あの人形のように整った目鼻立ちと白い肌、それに……あの特徴的な高い声は、私が知っている“黄島先生”そのものでした」
真紀は、青白い顔で口を半開きにしていた。
蛍子さんは「ありえない」と呟いて、首を振っている。
私には、60年という時の空白が、一瞬で現在へつながったように思えた。




