第32話 語られた過去
しばらくの沈黙の後――
“抹茶パフェ”に手をつけながら、蛍子さんが口を開いた。
「おばあちゃんの若い頃に、そんなことがあったんだね。初めて聞いたよ」
「……言いたくなかったのよ。身内にもね」
初音さんは項垂れ、小さな声で答えた。
「私は……“逃げた人間”だから」
「あの……逃げたって?」
隣に座っている真紀が、思わずそう尋ねた。
私も、同じことを訊きたかった。
初音さんは、しばらく手元のパフェを見つめていた。
けれど、スプーンを持つ手は動かなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「今の学校の資料室に、古い新聞記事があるという話でしたよね。それなら、“九鬼貞一”という名前を目にしませんでしたか」
九鬼貞一。
恋人を殺した後で、一家を皆殺しにしたという男。
その名は、たしかに資料室で見た。
おまけに、怪談に詳しい生徒たちの間でも、その名前は知れ渡っている。
「九鬼貞一というのは、二階堂玲子さんの恋人だった男性です。けれど正確には、彼が玲子さんを殺めたという証拠はありません。ただ当時の警察は、そう疑っていました。私も……そう確信しています」
場の空気が、また一段沈んだ。
間を置いて、初音さんが続けた。
「ただ少なくとも、本来の九鬼さんは、そんな“狂人”ではなかったはずです。何かのきっかけで、おかしくなってしまった。私の記憶では、“宗教家”を名乗る人物と接触したのを境に、おかしくなってしまったそうです。当時の担任だった先生から、直接そう聞きました。先生は、それを詳しく調べようとなさっていたのですが――」
そこで一瞬、言葉が途切れた。
初音さんは、思い出したくない過去を思い出しているようだった。
やがて、その重い口が開いた。
「ある日、突然姿を消されて……今も消息はわからないままなのです。私はその後、怖くなって、それ以上この事件に触れるのを諦めました。先ほど申し上げた“逃げた”とは……そういう意味なのです」
私は、冷たいものが背筋を這い上がってくるのを感じた。
初音さんから語られる内容は、どれも生々しかった。
遠い昔の話のはずなのに、すぐそこまで迫ってくるような怖さがある。
「ところで……今回亡くなった真壁さんという方とは、お2人とも親しかったのですか」
初音さんから、唐突な質問が飛んできた。
「……はい。同じ美術部の先輩で、親しくしていただいていました」
私は、どうしてそんなことを訊くのだろうと思いながらも、すぐに答えた。
「当時の玲子先輩なのですが、亡くなる直前に、おかしな言動をなさっていたようなんです。今回亡くなった方には、何かおかしい様子はなかったでしょうか」
次の質問に、私はどきりとした。
真壁先輩には、明らかにおかしな様子が見え隠れしていたからだ。
玲子さんという人もそうだったというのなら、単なる偶然の一致には思えない。
私は、真壁先輩が旧校舎の廊下に掛かっている“彼岸花の絵”を見てから、少しずつおかしくなった気がする、と伝えた。
すると、初音さんは驚いたように声を上げた。
「彼岸花の絵? それはもしかして、立派な金色の額に入れられた絵ではないのですか?」
「は、はい」
初音さんの思いのほか大きな声に気圧されて、私は少し上ずった声で答えた。
初音さんは、しばらく言葉を失っていた。
それから、信じられないもの聞いたというふうな表情で、私を見つめた。
「その絵……玲子先輩と私が、2人で描いた絵なのです」
私は息を呑んだ。
「私が学生時代を過ごした“緋色舎”という寄宿舎の食堂に飾っていました。けれど戦時中に建物が焼け落ちて以降は、行方知れずになったと聞いていました。まさか……新しくなった母校に、まだ残っていたのですね」
初音さんは、感慨深そうな表情を見せた。
けれど、その目の奥には、懐かしさだけではなく、怯えのようなものも混じっていた。
「森崎さん、河野さん。パフェの抹茶アイスが溶けかかってるよ」
蛍子さんが、いきなりそう言った。
それとなく食べるように勧めてくれたのだろう。
いったん会話を中断し、私も真紀も“抹茶パフェ”を頬張った。
甘さと苦さが口の中で溶け合って、私の味覚を満たしていく。
そんな中、その味に刺激されてか、ふと思い出したことがあった。
――その絵は2人の方で完成させたものですけれど。
美術部の部室で、文化祭の手伝いに来てくれた歴史研究所の黄島早記さんが、真壁先輩に言った言葉。
私はパフェに口をつけながら、思わずこぼした。
「やっぱりあの絵は、お2人で描かれたものなんですね。黄島早記さんという人が、そんなことを言っていました」
その瞬間だった。
初音さんの手が、ぴたりと止まった。
スプーンの先に乗っていた抹茶アイスが、ぽたりとグラスの中へ落ちた。
初音さんの眉間に、深い皺が寄った。
そして、怪訝そうな表情で、私に向かって尋ねた。
「き、黄島……早記?」
初音さんの声は、震えていた。
「その方は……いったい、おいくつくらいでしょうか?」
質問の意図が、まったく読めなかった。
けれど私は、自分の見た通り、聞いた通りを答えた。
「ええと……たぶん30歳前後だと思いますけど」
それを聞いた初音さんは、ますます表情を強張らせた。
私は、何か言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。
そんなことを考えていると、初音さんが再び声を上げた。
「その方に……お会いすることは叶いませんでしょうか」
「な、何よ、おばあちゃん。いきなり森崎さんたちに失礼じゃない」
蛍子さんが、慌てて会話に割って入った。
けれど私は、初音さんの様子が妙に引っかかった。
初音さんは、黄島さんのことを知っているのだろうか。
それとも――
「黄島さんは県の歴史研究所の研究員で、文化祭の手伝いに来てくださっていただけなので、今は学校にはいないと思います。もしかしたら、歴史研究所に行けば、会えるかもしれませんけど」
私は初音さんに向かって、そう言った。
「おばあちゃん、じゃあ明日、私がそこに連れていってあげるよ。どうせ今夜は広島に泊まる予定だから、私も時間あるしね」
蛍子さんが、そう言って初音さんをなだめた。
「あの――」
私は少し身を乗り出して、声を出した。
「明日の放課後でよければ、私もご一緒していいですか? 学校からも近いですし、それに黄島さんとは面識がありますから、お役に立てると思います」
自分の好奇心の強さには、呆れるばかりだった。
でも、どうしても気になった。
初音さんと黄島さんが出会えば、今まで見えなかった何かが見えてくるような予感がしたのだ。




