第26話 夕方の講堂
朝のスクールバスの中で、私は思い切って隣に座っている真紀に訊いてみた。
「ねえ……最近、真壁先輩って、ちょっとおかしくない?」
真紀は大きなあくびをしながら、私の方をちらりと見た。
そして気怠そうな声を出した。
「何が? 別に普通だと思うけど」
真紀は、真壁先輩のおかしい様子に気づいていないらしい。
間宮先生も、部長の岡崎先輩も、他の部員の子たちも、たぶんそうだ。
私ですら、真紀にこんな質問を投げておきながら、果たして本当にそうなのかと思ってしまう。
黄島さんが初めて美術室を訪れた、あの日――
私が帰り際に見た真壁先輩の姿は、明らかに普通ではなかった。
翌日、真壁先輩と顔を合わせた時、私は恐る恐る彼女に訊いてみた。
「あ、あの……昨日は、大丈夫でしたか?」
すると、真壁先輩はきょとんとした顔で答えた。
「えっ? だ、大丈夫だけど。私って……何か変だった?」
無理に誤魔化しているようには見えなかった。
顔色が悪いわけでもない。
声が沈んでいるわけでもない。
もしかして、まったく自覚がないのだろうか。
けれど、私はたしかに真壁先輩の異様な様子を見ている。
心の中で、何かがざらついていた。
*
今日の放課後から、いよいよ講堂の飾りつけの準備に取り掛かることになった。
文化祭まで、ちょうど1週間を切った。
運動部の使用も、この日から控えるようにと、学院側から通達が出ていた。
私と真紀が講堂へ向かっていると、伊勢崎先生に出くわした。
ちょうど講堂から出てきたところだった。
「おお、森崎くん。今日から文化祭の準備なんだろ? 最近はバレーに顔を出してくれないけど、いつでも待ってるからな。案外ここで準備しているうちに、またバレーをやりたくなるかもな」
そう言って笑いながら、伊勢崎先生は新校舎の方へ歩いていった。
少し前の私なら、先生の言葉通り、またバレーがやりたくなったかもしれない。
でも、今は違う。
美術部員となったからには、少しでも皆に自慢できるような絵を描いてみたい。
今の私にとって、バレーは気晴らし程度の位置づけになっていた。
*
私たちは講堂に入り、中を見回した。
普段は体育の授業や運動部の練習、校内集会などに使われ、多くの人が出入りしている。
けれど、私と真紀の2人だけで立つと、講堂の中は、普段よりも広く感じられた。
夕方の時間帯だったが、照明がなくても講堂の中は明るかった。
2階部分の両側に並んだ窓から、夕方の光が淡く射し込んでいた。
しばらくして、真壁先輩と中等部の3人が、大きな段ボールを抱えて入ってきた。
中には、赤い厚紙と、濃い緑色をした細長いストローのようなものが詰まっていた。
「これって、何?」
真紀が、中等部の子に尋ねた。
「これを使って、“彼岸花の造花”を作るそうです。黄島さんのアイデアらしいですよ」
その言葉に、私は段ボールの中を覗き込んだ。
赤い厚紙が、夕方の光を受けて妙に鮮やかに見えた。
やがて岡崎先輩が来て、続いて間宮先生が黄島さんを連れて現れた。
黄島さんは講堂に入るなり、中を行ったり来たりし始めた。
内部をきょろきょろと見回している。
しばらくして私たちのところへ戻ってくると、口を開いた。
「あそこの舞台に、完成した造花を飾るのはどうでしょうか?」
黄島さんは、講堂の奥にある、一段高くなった舞台を指差した。
中央には演壇がある。
普段は校長先生が話したり、誰かが表彰を受けたりする場所だ。
演壇を片づければ、広々とした舞台に様変わりする。
「あの――」
真壁先輩が、そう言っていきなり手を挙げた。
「提案なんですけど……旧校舎に飾ってある額縁に入った“彼岸花の絵”を、中央に飾るのはどうでしょうか? あれは、うちの学校に昔からある絵だし、学校の伝統をアピールすることにもなると思うんですけど――」
「絶対にいけません!」
真壁先輩の言葉が終わらないうちに、私たちの背後から女性の声が飛んできた。
後ろを振り返ると、そこには三枝先生が立っていた。
今まで見たことがないほど、険しい顔をしている。
「どうしてですか? 私もいいアイデアだと思ったんですけど」
間宮先生が、真壁先輩を庇うように声を出した。
けれど、三枝先生は引かなかった。
「いいえ、絶対にいけません。私、資料室で、あの絵に纏わる記録を目にしたことがあるんです。あの絵には、“見てはいけない向き”があるらしいんです。だから、あの絵は決して上下を逆さまにせず、正しい向きで壁に飾っておかないといけない。移動させる途中で、誤って上下を逆さまにするかもしれないでしょう?」
三枝先生は、非常に強い口調だった。
息が少し乱れているのもわかった。
そこまでして、あの絵を動かすことに抵抗があるのだろう。
「その話……私も聞いたことがあります」
黄島さんが、いきなり声を出した。
広々とした講堂の中で、その高い声は冷たく響いた。
「そういうことでしたら、真壁さんが描いた絵を代わりに飾ってはどうですか? あの絵と遜色ない出来栄えだと思いますので」
黄島さんが、うまく真壁先輩に助け船を出したように見えた。
でも、私には、その声がどこか淡白に感じた。
黄島さんにそう言われて、真壁先輩の表情がぱっと綻んだ。
そして黄島さんは、三枝先生の方へ目を向けた。
まるで自分の提案への了承を求めるかのようだった。
「まあ……それならば、問題はないでしょう」
三枝先生は、小さな声で答えた。
「そもそも、どうして三枝先生はここにいらっしゃるのですか?」
間宮先生が、不審そうな顔で尋ねた。
「た、たまたまですよ。あなたたちの姿が見えたので、声をかけようとしただけです。そしたら、とんでもない話が耳に入ってきたものですから……あ、お邪魔のようですから、私は失礼しますね」
三枝先生の様子には、少し違和感があった。
私たちが講堂に入ってから、10分と経っていない。
講堂の出入口は、私たちが使った正面扉しか開いていなかったはずだ。
誰かが入ってきたのなら、すぐにわかるはずなのに。
もしかしたら三枝先生は、私たちより先に講堂の中にいたのではないか。
私以外の人は、それほど気にしている様子はなかった。
講堂の扉を出ていく三枝先生の後ろ姿を見送った後は、すぐに文化祭の打ち合わせの話に戻っていた。
けれど――
黄島さんだけは違っていた。
三枝先生の姿が講堂の扉の向こうに消えてからも、しばらくの間、その方向をじっと見つめていた。
2階部分の小さな窓から、淡い光が射し込んでいた。
その光が、黄島さんの横顔を照らしていた。
眼鏡の金色のフレームが、冷たく反射していた。




