第20話 美術部
放課後――
真紀が、いそいそと私の方へ近づいてきた。
「約束……忘れてないよね?」
目を細めてぎこちない笑みを浮かべながら、まだ席に座っている私の向かい側で中腰になる。
真紀自身も、本当はあまり気乗りしていないのだろう。
その態度で、改めてわかった。
しかも昼休みに、旧校舎に飾ってある絵の噂を聞いたばかりだ。
真紀ほど苦手ではないにしても、私だって少し気味が悪い。
そもそも美術部の部室は、旧校舎の3階にあるのだ。
私は荷物を纏めて重い腰を上げると、真紀と一緒に新校舎を出た。
校庭に高くそびえている鉄塔の上にある時計の針は、午後3時30分を指していた。
日没まで、まだだいぶ時間がある。
それなのに、外は何となく暗く感じた。
薄い雲が空一面を覆っていて、太陽の光が遮られているせいだろう。
そういえば、今日の夜から広島市は雨になるという予報が出ていた。
時折吹き抜けていく風も、春先とは思えないくらい冷たかった。
*
旧校舎へ向かう途中で、校庭の隅にある花壇の周辺を掃除している男の人の姿が目に入った。
たしか登校初日の職員紹介で会った、“御厨泰造”という名前の人だ。
年齢は50代の半ばくらいだろうか。
曲がった腰。
ぼさぼさの髪。
くたびれた作業服。
右目は義眼らしく、瞳孔の部分が白く見えた。
紹介した先生が、戦争中に右目を負傷し、やむなく義眼にしたというような話をしていた気がする。
「こ、こんにちは」
私と真紀は、少し緊張した声で挨拶した。
私たち生徒は、校内ですれ違った大人には必ず挨拶をするよう言い聞かせられている。
御厨さんは私たちに気づくと、ゆっくりと顔を向けた。
そして頭を下げた。
何拍か遅れて、
「……こんにちは」
と、小さな声を出した。
蚊の羽音みたいに、か細い声だった。
思わず、背筋がぞくりとした。
容姿だけではない。
その仕草まで、妙に不気味に感じてしまった。
よく見ると、薄く開いた口元に、白い唾液が細い線のように伸びている。
そして、どういうわけか、御厨さんは私たちの方へゆっくり歩み寄ろうとした。
右足が、一歩前に出た。
私も真紀も、思わず後ずさりした。
その時――
「森崎くん」
背後から、別の男の人の声が聞こえた。
若くて、張りのある声だった。
振り返ると、体育科の伊勢崎健介先生がこちらへ近づいてくるのが見えた。
伊勢崎先生の姿を認めると、御厨さんは彼に向かって一礼し、たどたどしい足取りでその場を離れていった。
私は、胸を撫で下ろした。
伊勢崎先生が現れなければ、御厨さんは私たちに何かをしようとしていたのかもしれない。
実際のところはわからない。
けれど、ついそんなふうに考えてしまった。
「それで、森崎くん。前からお願いしてた件だけど、バレー部に入部してくれるかい?」
伊勢崎先生は、中学時代のバレー部の顧問の先生と仲がいいらしく、その当時から顔見知りだった。
彼は星華女子のバレー部の顧問だった。
私のバレーの腕を買ってくれているようで、星華女子の合格発表の日にも、さっそく声をかけられた。
おそらく勧誘の話だろうと思っていたが、やはりそうだった。
おかげで御厨さんから逃れられたわけだけれど、このタイミングで声をかけられるのは少し困る。
真紀が隣にいて、私たちはこれから“美術部”の見学に行くところなのだ。
真紀の手前もあって、私は曖昧な返事をした。
「助っ人でもいいから、たまには来てくれよ」
伊勢崎先生は私の気持ちを察したのか、そう言って笑いながら去っていった。
*
御厨さんと、伊勢崎先生。
まるで正反対の印象を受ける2人と途中で遭遇した後、私たちは旧校舎へ辿り着いた。
玄関の先の廊下には、“あの絵”が飾ってある。
けれど私は、あえてそれを視界に入れないように、視線をまっすぐ前に固定した。
打ち合わせたわけではないけれど、真紀も同じようにしていたようだった。
ぎし、ぎし、と廊下の床が軋む。
その音を聞きながら階段を上り切ると、美術部の部室の扉が目に入った。
本来は、美術の授業で使われる美術室だ。
美術部は、部活動の時間だけ、その部屋を丸ごと借りている形らしい。
「失礼します」
真紀が扉を開けて、そう声を出した。
私も真紀に続いて、軽く頭を下げる。
部屋の中には、4人の生徒がいた。
その中の背の高い1人が立ち上がると、こちらへ歩み寄ってきた。
「真紀、今日はごめんね」
申し訳なさそうな表情で、真紀に声をかける。
「あっ、紹介するね。こちらは、私が中学時代にバスケ部でお世話になった“岡崎多香子”先輩。そして――」
真紀は私の方へ身体を向けた。
「私の友達の“森崎千晶”です。今日は、一緒に見学させてもらいます」
そう言って、岡崎先輩に私を紹介した。
「えっ? そうなんだ。嬉しいなあ。気に入ってくれるといいけど」
岡崎先輩は満面の笑みを浮かべた。
背が高く、バスケをやっていただけあって、体格もいい。
美術部の部長をやっているのが信じられないくらいだった。
岡崎先輩は、部屋にいた他の部員たちを紹介してくれた。
残る3人は、私たちとは制服が違う。
どうやら中等部の子たちらしい。
「高等部の部員って、岡崎先輩だけなんですか」
真紀が唐突に訊いた。
すると岡崎先輩は首を横に振った。
「高等部の2年生がいるわ。もうすぐ来ると思うんだけど――」
岡崎先輩がそう言いかけた時、後ろの扉が開いた。
私は思わず振り返った。
「遅くなりました。あら? 新入部員の人?」
立っていたのは、岡崎先輩ほどではないにしても、わりと長身の女子生徒だった。
長い黒髪を三つ編みにしている。
白く透き通るような肌に、大きな目。
かわいらしい人だった。
右脇に、スケッチブックを抱えていた。
「いや、今日は部の見学に来てもらってるだけ。紹介するわね。彼女が高等部2年の“真壁尚美”さん」
私と真紀は「はじめまして」と言って頭を下げた。
「ふうん……美術部に入ってくれるのは嬉しいんだけど、あなたたちって、“幽霊”とかに耐性がある人?」
真壁先輩は、かわいらしい顔からふっと表情を消して、いきなりそう言ってきた。
そして目を細め、小さく舌を出す。
両手首を顔の下で折り曲げるようにして、
「この校舎って……“出る”んだよね」
と、わざとらしい低い声で言った。
「ほ、本当なんですか?」
こういう話に弱い真紀が、一瞬たじろいだ。
「もう……尚美ったら、この子たちを変なふうに脅かさないでよ。だいたい、あなたの方が『そんなの迷信』って、いつも言ってるじゃない」
岡崎先輩が割って入ると、尚美先輩は先ほどとは打って変わって、にっこりと微笑んだ。
「ごめんなさい。でも、いろいろ噂になってるのは事実。私は全然気にしてないけど」
真壁先輩が言うには、
“旧校舎の廊下に飾られている絵に、死んだ女の子が増えていく”とか。
“その女の子を殺した男の霊が、旧校舎を徘徊している”とか。
そんな根も葉もない噂話が、勝手に一人歩きしているらしい。
「それよりも、岡崎先輩。今度描こうとしてる絵の下絵……やっとできたんですよ」
真壁先輩は嬉々とした表情で、スケッチブックを開いた。
下絵が描かれたページを、テーブルの上に広げた。
「わあ……きれい」
中等部の子の1人が、下絵を見るなり呟いた。
私も好奇心から、思わず近づいて身を乗り出した。
それは、彼岸花の群生を描いた下絵だった。
けれど、どこかで見たような気がした。
旧校舎の廊下に掛かっていた、あの絵に似ているように思えた。
それに、いろいろな怪談めいた噂を聞いた直後だからかもしれない。
真壁先輩の描いた花弁の影に、男の横顔のようなものが混じって見えた気がした。




