第18話 絵の中の1体目
翌日曜日――
食堂で朝食をとりながら、私は小さなあくびを繰り返していた。
睡眠時間は十分にとったはずだった。
けれど、深く眠れてはいなかったのだろう。
「初音さん、大丈夫ですの?」
パンを頬張りながら、良子が心配そうに声をかけてくれた。
窓から射し込む日の光は、今朝はどこかくすんでいるように見えた。
日の光に照らされた壁の絵は、室内の電灯の光とも混じり合い、不思議な色味を帯びている。
彼岸花の赤。
背景の青。
入道雲の白。
そのどれもが、昨日までとは少し違う色に見えた。
「初音さん、あなたのお気持ちはわかりますけれど、切り替えというのも大事ですわ。あなたは絵の才能がおありになるのですから、本気で画家を目指されてはいかがですの」
裕子が紅茶の入ったカップをテーブルの上に置いて、そう言った。
たしかに、そうかもしれない。
玲子先輩を殺めた人間は、もちろん憎い。
水城先生の失踪も気になる。
九鬼貞一や宗教家のことについても、まだ何もわからない。
けれど、もしこれ以上詳しく調べようとすれば――
水城先生と同じ運命を辿ることになるかもしれない。
そう考えると、気分が悪くなった。
これ以上、踏み込んではいけない。
そう思う自分と、それでも見過ごせないと思う自分が、胸の奥で押し合っていた。
*
朝食が終わった頃だった。
黄島先生が、緋色舎にお姿を現した。
管理人のご婦人に連れられて、食堂へ入ってきたのだ。
闇のような黒地に浮かぶ花柄の着物。
向日葵より明るい黄色の袴。
鈍い光沢を放つ金色の髪留め。
そして、その下に流れるような真っ黒の髪。
日本人形のように白く整った顔には、黄色のレンズの片眼鏡。
いつもと同じお姿だった。
けれど、この食堂の中に立つと、その姿はいつも以上に現実から浮いて見えた。
「お約束通り、絵を拝見しに参りました」
私だけでなく、居合わせた良子や裕子も驚いた様子だった。
「休日でないと、こちらにお邪魔する機会もないと思いまして」
黄島先生は微笑みながら、そう続けた。
「あちらですね」
黄島先生は壁に掛かっている絵を目に留めると、ゆっくりと歩み寄った。
黒いブーツの音が食堂の床に、こつ、こつ、と響く。
黄島先生は、絵の前で足を止めた。
数分間、その場で絵を見上げるように眺めていた。
視線は、絵のあちこちを静かに移っているようだった。
彼岸花の赤。
入道雲の白。
金色の額縁。
そして、花と花の間にできた余白。
私も、良子も、裕子も、黄島先生の背後にじっと立っていた。
その場から動こうにも、不思議と身体が動かなかった。
やがて、黄島先生が振り返った。
私の方へ、ゆっくりと近づいてきた。
「お見事です。素晴らしい出来栄えだと思います。そして――」
そこで、黄島先生は少しだけ言葉を切った。
次の言葉で、私の背筋は冷えた。
「玲子さんも……“あの絵の中”にちゃんといます」
良子と裕子は、ぽかんと口を開けていた。
けれど私は、その言葉を聞いた瞬間、思わず息を呑んだ。
私は小走りで絵の近くまで歩み寄り、顔を上げた。
そして、ゆっくりと絵の細部を追っていった。
彼岸花。
彼岸花。
彼岸花。
赤い花の群れの中を、目だけで探る。
そして、気づいた。
右下の辺り。
彼岸花と彼岸花の隙間。
そこに、羽を広げた小さな妖精がいるように見えた。
右腕を振り上げ、左脚を外へ折り曲げた姿。
まるで誰かを誘うように、横向きの姿勢を取っている。
さらに――
その姿は、玲子先輩の亡骸の形に、あまりにもよく似ていた。
不自然に折れ曲がった右腕と左脚。
上半身の両脇に、羽のように置かれた彼岸花たち。
あの朝、斜面で見た玲子先輩の姿が、絵の中の小さな妖精と重なった。
息が止まりそうだった。
玲子先輩の死が、絵の中に写し取られている。
というより、もしかすると――
写し取られたのではなく、最初からその場所が用意されていたのではないか。
「玲子さんが絵の中にいます」という黄島先生の言葉は、このことなのか。
私は、不意に後ろを振り返った。
呆然と立ちすくんでいる良子と裕子の隣に、黄島先生が静かに佇んでいた。
黄島先生の右目は、わずかに細められていた。
その表情には、以前と同じように薄い笑みが浮かんでいる。
左目の様子は――やはり窺い知れなかった。
ただ、窓から射し込む朝の光だけが、左目を覆う黄のレンズに反射し、金色に輝いていた。
その光は、どこか冷たかった。
*
それから、およそ1か月後のことだった。
学院まで続く道沿いの彼岸花たちが、すっかり姿を消してしまった頃――
新聞に、九鬼貞一が警察に逮捕されたという記事が載った。
警察は、“秀麗女学院の女生徒”を殺めた容疑でも九鬼貞一を追っていたという。
けれど、逮捕の直接の理由は、それだけではなかった。
九鬼貞一が乱心し、自宅で家族と使用人、合わせて8人を惨殺したというのが直接の容疑だった。
新聞によると、九鬼貞一は「何者かに命じられた」と供述しているらしい。
けれど、その“何者か”が誰であるのかは不明だという。
もしかして、水城先生の言っていた“宗教家”なのだろうか。
そう思った。
けれど、それを確かめる術は、私にはなかった。
そして、それからおよそ1週間後――
再び、新聞に衝撃的な記事が載った。
九鬼貞一が、拘置所内で自死したという内容だった。
舌を噛み切ったのだという。
それで事件は終わったのだと、大人たちは言った。
九鬼貞一が狂い、おそらく玲子先輩を殺め、その後さらに多くの人を殺し、自ら命を絶った。
そういうことで片づけられていった。
けれど、私にはどうしても、そうは思えなかった。
九鬼貞一が死んでも、すべてが終わった気はしなかった。
水城先生は戻らなかった。
玲子先輩の名前は、学院の中から消されたままだった。
そして、あの絵だけが残った。
緋色舎の食堂の壁に掛けられたまま、彼岸花の赤を抱いて、静かに残っていた。
私は時折、その絵の前に立つ。
右下の花の隙間にいる、小さな妖精を見る。
そこには、たしかに玲子先輩がいる。
そう思うたびに、胸が締めつけられた。
やがて私は、絵を決して上下逆さまにはしないようになっていた。
あの額には、“見てはいけない向き”がある。
そう教えられていたからだ。
そしてその約束だけは、最後まで破ることができなかった。
それから長い年月が流れても――
あの絵は、誰かに見られる日を、静かに待ち続けているのだと思う。




