↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/74

第18話 絵の中の1体目

翌日曜日――


食堂で朝食をとりながら、私は小さなあくびを繰り返していた。


睡眠時間は十分にとったはずだった。

けれど、深く眠れてはいなかったのだろう。


「初音さん、大丈夫ですの?」


パンを頬張りながら、良子が心配そうに声をかけてくれた。


窓から射し込む日の光は、今朝はどこかくすんでいるように見えた。


日の光に照らされた壁の絵は、室内の電灯の光とも混じり合い、不思議な色味を帯びている。


彼岸花の赤。

背景の青。

入道雲の白。


そのどれもが、昨日までとは少し違う色に見えた。


「初音さん、あなたのお気持ちはわかりますけれど、切り替えというのも大事ですわ。あなたは絵の才能がおありになるのですから、本気で画家を目指されてはいかがですの」


裕子が紅茶の入ったカップをテーブルの上に置いて、そう言った。


たしかに、そうかもしれない。


玲子先輩を殺めた人間は、もちろん憎い。

水城先生の失踪も気になる。

九鬼貞一や宗教家のことについても、まだ何もわからない。


けれど、もしこれ以上詳しく調べようとすれば――

水城先生と同じ運命を辿ることになるかもしれない。


そう考えると、気分が悪くなった。


これ以上、踏み込んではいけない。


そう思う自分と、それでも見過ごせないと思う自分が、胸の奥で押し合っていた。


*


朝食が終わった頃だった。


黄島先生が、緋色舎にお姿を現した。


管理人のご婦人に連れられて、食堂へ入ってきたのだ。


闇のような黒地に浮かぶ花柄の着物。

向日葵より明るい黄色の袴。

鈍い光沢を放つ金色の髪留め。

そして、その下に流れるような真っ黒の髪。


日本人形のように白く整った顔には、黄色のレンズの片眼鏡。


いつもと同じお姿だった。


けれど、この食堂の中に立つと、その姿はいつも以上に現実から浮いて見えた。


「お約束通り、絵を拝見しに参りました」


私だけでなく、居合わせた良子や裕子も驚いた様子だった。


「休日でないと、こちらにお邪魔する機会もないと思いまして」


黄島先生は微笑みながら、そう続けた。


「あちらですね」


黄島先生は壁に掛かっている絵を目に留めると、ゆっくりと歩み寄った。

黒いブーツの音が食堂の床に、こつ、こつ、と響く。


黄島先生は、絵の前で足を止めた。


数分間、その場で絵を見上げるように眺めていた。


視線は、絵のあちこちを静かに移っているようだった。

彼岸花の赤。

入道雲の白。

金色の額縁。

そして、花と花の間にできた余白。


私も、良子も、裕子も、黄島先生の背後にじっと立っていた。


その場から動こうにも、不思議と身体が動かなかった。


やがて、黄島先生が振り返った。


私の方へ、ゆっくりと近づいてきた。


「お見事です。素晴らしい出来栄えだと思います。そして――」


そこで、黄島先生は少しだけ言葉を切った。


次の言葉で、私の背筋は冷えた。


「玲子さんも……“あの絵の中”にちゃんといます」


良子と裕子は、ぽかんと口を開けていた。


けれど私は、その言葉を聞いた瞬間、思わず息を呑んだ。


私は小走りで絵の近くまで歩み寄り、顔を上げた。

そして、ゆっくりと絵の細部を追っていった。


彼岸花。

彼岸花。

彼岸花。


赤い花の群れの中を、目だけで探る。


そして、気づいた。


右下の辺り。

彼岸花と彼岸花の隙間。


そこに、羽を広げた小さな妖精がいるように見えた。


右腕を振り上げ、左脚を外へ折り曲げた姿。

まるで誰かを誘うように、横向きの姿勢を取っている。


さらに――


その姿は、玲子先輩の亡骸の形に、あまりにもよく似ていた。


不自然に折れ曲がった右腕と左脚。

上半身の両脇に、羽のように置かれた彼岸花たち。


あの朝、斜面で見た玲子先輩の姿が、絵の中の小さな妖精と重なった。


息が止まりそうだった。


玲子先輩の死が、絵の中に写し取られている。


というより、もしかすると――


写し取られたのではなく、最初からその場所が用意されていたのではないか。


「玲子さんが絵の中にいます」という黄島先生の言葉は、このことなのか。


私は、不意に後ろを振り返った。


呆然と立ちすくんでいる良子と裕子の隣に、黄島先生が静かに佇んでいた。


黄島先生の右目は、わずかに細められていた。

その表情には、以前と同じように薄い笑みが浮かんでいる。


左目の様子は――やはり窺い知れなかった。

ただ、窓から射し込む朝の光だけが、左目を覆う黄のレンズに反射し、金色に輝いていた。


その光は、どこか冷たかった。


*


それから、およそ1か月後のことだった。


学院まで続く道沿いの彼岸花たちが、すっかり姿を消してしまった頃――


新聞に、九鬼貞一が警察に逮捕されたという記事が載った。


警察は、“秀麗女学院の女生徒”を殺めた容疑でも九鬼貞一を追っていたという。

けれど、逮捕の直接の理由は、それだけではなかった。


九鬼貞一が乱心し、自宅で家族と使用人、合わせて8人を惨殺したというのが直接の容疑だった。


新聞によると、九鬼貞一は「何者かに命じられた」と供述しているらしい。

けれど、その“何者か”が誰であるのかは不明だという。


もしかして、水城先生の言っていた“宗教家”なのだろうか。


そう思った。


けれど、それを確かめる術は、私にはなかった。


そして、それからおよそ1週間後――


再び、新聞に衝撃的な記事が載った。


九鬼貞一が、拘置所内で自死したという内容だった。

舌を噛み切ったのだという。


それで事件は終わったのだと、大人たちは言った。


九鬼貞一が狂い、おそらく玲子先輩を殺め、その後さらに多くの人を殺し、自ら命を絶った。

そういうことで片づけられていった。


けれど、私にはどうしても、そうは思えなかった。


九鬼貞一が死んでも、すべてが終わった気はしなかった。


水城先生は戻らなかった。


玲子先輩の名前は、学院の中から消されたままだった。


そして、あの絵だけが残った。


緋色舎の食堂の壁に掛けられたまま、彼岸花の赤を抱いて、静かに残っていた。


私は時折、その絵の前に立つ。


右下の花の隙間にいる、小さな妖精を見る。


そこには、たしかに玲子先輩がいる。


そう思うたびに、胸が締めつけられた。


やがて私は、絵を決して上下逆さまにはしないようになっていた。


あの額には、“見てはいけない向き”がある。


そう教えられていたからだ。


そしてその約束だけは、最後まで破ることができなかった。


それから長い年月が流れても――

あの絵は、誰かに見られる日を、静かに待ち続けているのだと思う。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。