第16話 片岡志津の診立て
水城先生の名前が消えて以来、教室の中にも、緋色舎の中にも、重たい空気が居座っていた。
玲子先輩の件もある。
恐ろしくなったのか、もう誰もその話題に触れようとはしなかった。
あれほどお喋りの絶えなかった良子や裕子でさえ、そのことだけは、わざと避けているように見えた。
けれど、私は、おそらく水城先生と最後に会った学生だった。
九鬼貞一の人格の変貌。
その原因となった“宗教家”の存在。
それをさらに調べると言った直後に、水城先生は消えてしまったのだ。
胸の中で、いろいろなものがざらざらと擦れ合っていた。
そして私は思い出した。
水城先生が「片岡先生と相談している」と言っていたことを。
もしかしたら、片岡先生は何か知っているかもしれない。
片岡先生が学院を訪れるのは、週に3回、午前中だけだった。
本業では、広島市内で診療所を開いている。
私たちのような年頃の娘を診るため、嘱託医として学院にも来ているのだが、学院の中で会ったとしても、いろいろと訊き出すのは難しいだろう。
そこで私は考えた。
“月のもの”が不順になることがあり、私は月に1度、片岡先生の診療所へ通って薬を処方してもらっている。
ちょうど、この週の土曜日の午後に出かけるつもりでいた。
その機会は逃せないと思った。
学院の中では難しくても、診療所なら――
そんな頼りない期待が、胸の奥に静かに広がっていた。
*
土曜日――
緋色舎から徒歩20分ほどの場所に、片岡先生の診療所はあった。
古い木造の平屋が並ぶ一角に、その建物だけがひときわ目を引く白い外壁の2階建てだった。
1階で受付を済ませると、私は待合室で周囲を見回した。
患者は3人。
全員が年配のご婦人だった。
30分ほど待たされた。
その間に、待合室の顔ぶれは少しずつ入れ替わっていった。
「久世初音さん、診療室へどうぞ」
若い看護婦にそう告げられ、私は彼女に導かれて診療室へ入った。
奥の椅子には、片岡先生が座っていた。
長い髪を後ろで結び、白衣を纏っている。
40歳近いとは思えないほど、肌の艶がきれいだった。
一通りの診察が終わると、意外にも片岡先生の方から声をかけてきた。
「初音さん……この後、お時間はあるかしら? 患者さんは弟に任せますので、裏の自宅へ来ていただけるかしら」
この診療所には、片岡先生の弟君が一緒に勤めていた。
私も何度かお顔を見たことはあるが、実際に診察を受けたことはない。
その弟君に他の患者を任せ、私との時間を取ってくれるという。
胸の奥で、何かがざわついた。
片岡先生の表情には、まるで私の心の底に沈んでいる疑問を先回りして見抜いたかのような、微かな笑みが浮かんでいた。
*
受付で薬を受け取ると、私は診療所の裏手にある片岡先生のご自宅へ向かった。
診療所と同じく、この辺りには似つかわしくない洋風建築の2階建ての屋敷だった。
使用人の女性が出てきて、1階の奥にある片岡先生の書斎まで案内してくれた。
壁際にある立派な木製の本棚は、難しそうな医学書で埋め尽くされていた。
装飾の施された中央の長いテーブルを挟み、黒革のソファが4つ置かれていた。
そのうちの1つに、片岡先生は脚を組んで座っていた。
私は、片岡先生の正面にあるソファを勧められた。
私が腰を下ろしたのを確かめてから、片岡先生が口を開いた。
「水城先生から聞いたわ。あなたには、いろいろお話なさったようね」
私は、声を出さずに小さく頷いた。
「彼女はね……触れてはいけないものに触れてしまった。私は何度もお止めしたのだけれども――」
「九鬼家のことですか?」
思わず口を開いてしまった。
「それもある。だけどね……水城先生は“もっと深い闇”に触れようとなさっていたの。そして今、彼女がどこで、どうなっているのか……私にもわからないわ」
“もっと深い闇”。
九鬼貞一が関わったという“宗教家”のことなのだろうか。
私は言葉に詰まった。
しばらくの間、沈黙が続いた。
不意に扉を叩く音がして、使用人の女性が紅茶を運んできた。
片岡先生はテーブルの上に置かれたカップを手に取ると、紅茶を一口飲み、私にも勧めてくれた。
緋色舎で飲む紅茶とは、また少し違う味がした。
香りが深く、わずかに渋みが強い。
「ところで、初音さん……あなたは玲子さんのご遺体を見たのよね」
片岡先生は、唐突にそう口にした。
「はい」
私は、それだけ短く返した。
すると片岡先生は、カップをテーブルへ戻して立ち上がり、机の引き出しから何枚かの写真と資料を取り出して戻ってきた。
テーブルの上に並べられたのは――
玲子先輩が殺された現場の写真だった。
私は一瞬、目を大きく見開いた。
けれどすぐに、視線を逸らした。
「ごめんなさいね。思い出したくないでしょうけれど、あなたに確認していただきたいことがあるの」
片岡先生は、申し訳なさそうに言って、続けた。
「玲子さんのご遺体ね……あまりにも不自然に整えられている気がするの。脚や腕の角度にしても、上半身の周囲に置かれた彼岸花にしても、何かの“形”を作るために整えられたように見えるわ」
私は意を決して、写真へ目を向けた。
忘れようとしていた光景が、まざまざと甦ってくる。
そうなのだ。
玲子先輩の亡骸は、ただそこに倒れていたのではなかった。
明らかに、飾られていたように見えたのだ。
“美しい何か”の形に。
その瞬間、黄島先生の言葉が脳裏をよぎった。
――玲子さんは、“形”になったと思うのです。
――美しい“形”として、永遠に残ると思うのですよ。
私は思わず、喉の奥がひやりとするのを感じた。
「それにね……ご遺体を検分している時にわかったのよ。水城先生からお聞きになっていると思うけれど、玲子さんは“生娘”ではなかった。玲子さんの身体には、過去に無理やり傷つけられたと思われる痕が残っていたの。水城先生からお聞きになっていると思うけれど、辱めを受けたという話は真実だった可能性が高いわ」
私は、心の中がすっと冷えるのを感じた。
片岡先生の言葉に喉が詰まり、声が出なくなった。
次の瞬間、写真の横に置かれた資料の文字に目が留まった。
片岡先生による、遺体の検分所見と思われるもの。
その中の一文が、ひときわ強く目を引いた。
【花ノ如キ形ニ整ヘラレタリ】




