第15話 消された名前
結局、この日の夕方は、黄島先生から「当面の間、部の活動は中止いたしましょう」と告げられ、私はとぼとぼとした足取りで緋色舎まで戻った。
自室へ上がる前に、私は1階の食堂へ立ち寄った。
玲子先輩と仕上げた、あの絵を見たいと、どうしても思ってしまったからだ。
あの絵を見れば、2人で過ごした時間が少しは戻ってくるような気がした。
食堂の壁には、あの絵が昨日までと変わらず掛かっていた。
黄島先生の言葉通り、玲子先輩は“形”となって永遠に残ってしまったと考えた方がよいのだろうか。
その方が、いっそ楽なのかもしれない――
ふと、そんなことまで思ってしまった。
「お2人の描いた絵は、どこにあるのかしら」
黄島先生からそう問われた時、私は「緋色舎の食堂に飾っています」と答えた。
「そう。そのうち見に伺いますわ」
黄島先生はそう言った。
黄島先生が見ても、決して恥ずかしくない。
それくらいの誇らしさが、私の中にはたしかにあった。
*
夕食の前だった。
私が自室でぼんやりしていると、扉を叩く音がした。
「はい」
返事をして扉を開けると、そこには管理人のご婦人を伴った水城先生が立っていた。
「お夕食の前に、ごめんなさい。ちょっと、いいかしら」
声は、昨日と同じように低かった。
水城先生は、ご婦人に向かって軽く頷いた。
ご婦人は無言のまま一礼し、その場を離れていった。
やはり、只事ではないらしい。
私は急いで水城先生を部屋へ招き入れ、来客用の小さな椅子を勧めた。
「初音さん、今日1日で、わかったことがあるの。学院に出入りしている業者の方から、耳にしたのだけれど――」
水城先生は、少し興奮したような口調で続けた。
「九鬼貞一という方は、ここ1年ほどの間に、すっかり人が変わってしまった、という話なのよ。それまでは、品行方正で、九鬼家の跡取りとして大いに期待されていたらしいの――」
「えっ? すると、その方が変わってしまうような、何かきっかけがあったということでしょうか」
私は思わず口を開いた。
「それがね……妙な“宗教家”を名乗る人物と接触するようになってかららしいの」
「宗教家……ですか?」
私は目を丸くして言葉を出した。
その人物に出会うまでは、品行方正だったという九鬼貞一。
それなのに、その後、玲子先輩を辱めるような男になった、とでもいうのだろうか。
「それがどんな人物なのかは、まだわからないの。けれど、もし九鬼貞一が本当に人を殺したのだとしたら……どうも無関係とは思えないのよ」
水城先生の表情は、いつになく強張っていた。
「私……もう少し調べてみようと思いますの。また何かわかったら、お伝えするわね」
それだけ言うと、水城先生は昨日と同じように、足早に部屋を後にした。
私は、水城先生の背中を見送りながら、胸の奥にひどく嫌なものが広がっていくのを感じていた。
もしかして水城先生は、触れてはいけない何かに、もう手を伸ばしてしまっているのではないか。
*
そして、その嫌な予感は、翌日に形を取った。
朝礼の時間だった。
「おはようございます」
そう言って教室へ入ってきたのは、担任の水城先生ではなかった。
まったく見覚えのない、中年の女性教師だった。
小柄で、丸い眼鏡をかけている。
水城先生とは、似ても似つかない顔立ちだった。
その教師が教壇に立つと、教室の中に小さなざわめきが起こった。
皆、少なからず戸惑っているのが見て取れた。
「お静かに!」
その教師が、低い声で言った。
その一言で、ざわめきはぴたりと止んだ。
「昨日まで皆さんの担任をされていた先生は、ご実家の事情により、昨日付で退職なさいました。そういうわけで、私が本日から急遽担任を務めることになりました。皆さん、よろしくお願いします」
その言葉を聞いた瞬間、私は凍りついた。
間違いなく嘘だ。
そんなはずはない。
私は昨夜、水城先生と自分の部屋で会った。
退職するという話など、一言も聞いていない。
それどころか、九鬼貞一と関わりのある宗教家のことを、もう少し調べると言っていたではないか。
それが急に――
ありえない。
背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がっていくような気がした。
*
休み時間になると、私は1階の職員室の手前にある壁を見に行った。
そこに掛かっている教師たちの木札を確かめたかったのだ。
「黄島早記」の左隣――
そこに、「水城恒」と書かれた札は、もうなかった。
代わりに、別の名前の札が掛かっていた。
今朝、教室へ現れたあの教師の名だ。
“水城恒”という存在までが、この学院の中から消されてしまった。
“二階堂玲子”と同じように。
水城先生が、九鬼家に纏わる話へ深入りしようとしたからだろうか。
私は、心臓がものすごい勢いで脈打つのを感じた。
まるで学院そのものが、名前を呑み込む場所になってしまったかのようだった。




