第12話 水城先生
図画部の部屋を出た後、私は急いで緋色舎へ戻った。
そして、居合わせた良子と裕子に頼み込み、もう一度、学院の東の平屋にある部屋へ向かった。
玲子先輩の図案が描かれた画板を、何としても緋色舎の中へ持ち込んでおきたかったのだ。
二階堂家は、どういうわけか玲子先輩の痕跡を消そうとしている。
理由はまったくわからない。
けれど、あの方たちが本当にそうしようとしているのなら、図画部に玲子先輩の残した図案があると知れば、それも回収しに現れるかもしれない。
それだけは、何としても避けたかった。
良子と裕子に事情を話すと、2人とも快く引き受けてくれた。
画板は大きいうえに、思っていたより重かった。
私1人では、5枚を一度に運び出すことは難しかった。
何往復かしなければならないと覚悟していたが、彼女たちのおかげで、一度にすべて運び終えることができた。
管理人のご夫婦にも事情を話し、画板は1階の空き部屋に置かせてもらうことになった。
これで、少なくとも今夜は守れる。
そう思うと、胸の奥がほんの少しだけ落ち着いた。
*
夕食後――
緋色舎に、意外な来客があった。
水城恒先生だった。
「夜分にごめんなさい。初音さん……あなたにだけ、お話ししておきたいことがあるの」
そう言って、水城先生は他の舎生たちに席を外してもらい、管理人のご婦人に案内されて談話室へ入った。
私も後に続いた。
談話室の大きなテーブルを挟んで、私は水城先生と向かい合って座った。
部屋の中は静かだった。
食堂の方から、微かに食器を片づける音が聞こえてくるだけだ。
水城先生は、口を開きかけては閉じた。
何かを言いたそうで、けれど、言えないような様子だった。
しばらくして、ようやく先生の唇が動いた。
「初音さん……玲子さんの件について、何かがおかしいと感じていらっしゃるのではないの?」
「……はい。玲子先輩の件には、学院全体が触れないようにしている気がしていました」
自分でも驚くほど、はっきりと答えていた。
普段なら、水城先生の前でこのようにはっきりと意見を口にすることはできない。
けれど、今回のことだけは、どうしても納得がいかなかった。
玲子先輩が亡くなった。
それなのに、まるで名前を口にすることさえ避けられている。
そのことが、私の中でずっと引っかかっていた。
水城先生は、私の言葉を聞くと、一瞬、目を泳がせた。
水城先生は、玲子先輩の“秘め事”を何か知っているのではないか。
私は、そう直感した。
あるいは、私がこのところ玲子先輩と親しくしていたから、逆に何かを聞き出そうとしているのかもしれない。
けれど、聞きたいことは私の方にもあった。
「黄島先生ですが、ここ数日、学院でお姿を見ません。玲子先輩があのようなことになって……黄島先生はご存知なのでしょうか?」
まず、それが私の中でいちばん気になっていた。
黄島先生は、図画部の顧問でもある。
それに、玲子先輩が以前から絵を習っていた方でもある。
そんな方が、玲子先輩が亡くなる前後の数日間、学院にいない。
ただの偶然と思ってよいのだろうか。
けれど、この問いには、水城先生は迷うことなく答えた。
「先週の金曜日から今日まで、私用で名古屋へ行くため、お暇を頂戴したいとおっしゃっていたわ。明日は、お見えになると思います。それに、玲子さんのことは、きっとまだご存知ないはずよ」
私事で、名古屋まで。
いったい何の用事だろうとは思った。
けれど、今の私には、それ以上深く考える余裕はなかった。
黄島先生が玲子先輩の死に関わっているのか――
それだけが気になっていたからだ。
名古屋に行っているのが本当なら、やはり今回の件とは無関係なのだろうか。
「それでね……初音さん」
私が視線を下に落として考え込んでいると、不意に水城先生が、蚊の鳴くような声で囁いた。
私は顔を上げた。
水城先生は、声をさらに落としたまま続けた。
「あなた……“九鬼貞一”とおっしゃる殿方をご存知かしら?」
唐突な問いかけだった。
九鬼貞一。
その名そのものには聞き覚えがない。
けれど、“九鬼”という姓には覚えがあった。
広島周辺では名の通った華族の家名だ。
父の口からも、何度か聞いたことがある。
その関係者なのだろうか。
「いいえ。存じ上げません」
私がそう答えると、水城先生は、さらに声をひそめた。
「その殿方は……玲子さんがお付き合いしていた方なの。ただ――」
そこで先生は一度、言葉を切った。
水城先生によると、九鬼貞一という殿方は、九鬼家の現当主の長男だという。
年の頃は、20代の前半。
見た目は整っているらしい。
けれど、その器量のよさとは裏腹に、かなり奇行が多い人物なのだという。
感情の起伏が激しく、時には乱暴な振る舞いに出ることもあったとか。
裕子が芳江先輩から聞いたという話を思い出した。
玲子先輩が怯えているように見えた、というあの話。
あれも、まんざら誇張ではなかったのかもしれない。
そして、水城先生の口から、さらに重い言葉が落ちた。
「玲子さんはね……去年の夏に、その九鬼貞一から辱めを受けたらしいの」
去年の夏。
殿方からの、辱め。
その言葉を聞いた瞬間、私は息をするのを忘れた。
そして、この瞬間にわかった。
玲子先輩が言っていた、忘れてしまいたい夏の記憶。
その正体が。
入道雲。
場違いな夏の空。
何度も描かれた、彼岸花の図案。
それらが、胸の中でひとつに繋がってしまった。
「で、でも……なぜ私に、こんな話を」
自分の声が、少し震えているのがわかった。
「……自分でも、よくわかりません。でもなぜか、あなたにだけは話しておいた方がよろしいかと……そんな気がしまして」
水城先生は、狼狽する私とは対照的に、淡々と答えた。
その淡々とした声が、かえって苦しそうに聞こえた。
今度は、私の方が目を泳がせた。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、私は自分から口を開いた。
「このことをご存知だったのは?」
「私と、片岡先生だけですわ」
片岡志津先生。
広島市内で開業している医師で、嘱託の学校医でもある。
ドイツ留学の経験があると噂されている、40歳ほどの女性だ。
また、嘱託で警察医もされていると聞いたことがある。
そういえば、玲子先輩が発見された現場で、遠目に見たような記憶もあった。
そして、続いて出た水城先生の言葉に、私は背筋が凍った。
「初音さん……私、玲子さんを殺した犯人は――」
水城先生はそこまで言いかけて、一度呼吸を整えた。
そして、私の目をまっすぐに見た。
「九鬼貞一ではないか、と思っておりますの」




