第九十七話 戻ってくる傷
読取台の赤い光が、ゆっくりと白へ変わった。
黒区画ログの第一群は閉じている。
代わりに、次の記録名が中央表示へ浮かんでいた。
――空間位相傷追跡ログ。
――Sample-09関連記録。
――軌道照射経路逸脱事故後追跡。
――外宇宙側流出推定。
――三沢観測防衛基地、部分同期。
――開示可能。
康生は、その表示を見ていた。
Sample-09。
格納庫にはなかったサンプル。
封入に失敗した変異位相帯。
受電光環第三外縁の破損時に分離し、外宇宙側へ流れたもの。
そして、三沢が現在観測した空間位相傷と関連しているかもしれないもの。
「戻ってくる傷、か」
康生が呟く。
「現時点では、戻ってきていると断定できません」
アオイが答える。
「でも、そういう記録なんだろ」
「はい。追跡ログの照合が必要です」
「見よう」
相馬が頷き、読取台へ指示を送った。
「端末読取のみ。接続はしない。全員、映像異常に注意」
「了解」
アオイは康生を見る。
「右手使用は禁止です」
「分かってる」
「この記録は、康生の右構成部に反応する可能性があります」
「見るだけでも?」
「はい」
「嫌な記録だな」
「同意します」
「警告を聞く。右手は使わない。止まれと言われたら止まる」
「良い回答です」
読取台が低く鳴った。
壁面に古い星図が浮かぶ。
地球。
受電光環。
軌道上の残骸。
第三外縁の破損点。
そこから外側へ流れる、細い黄色の帯。
三沢で見た軌道監視記録と似ている。
だが、こちらは内側から記録したものだった。
エリア51側の追跡ログ。
――事故発生後、二十七秒。
――照射経路逸脱。
――Sample-09分離。
――封入失敗。
――変異位相帯、軌道歪みに同期。
――地球重力圏外縁方向へ移動。
――追跡開始。
黄色い帯は、ただ外へ流れているわけではなかった。
まっすぐではない。
波打っている。
地球の周囲に残った時空歪みをなぞるように、軌道を変えている。
康生は眉を寄せた。
「これ、自分で動いてるのか?」
「不明です」
アオイが答える。
「流されている可能性もあります」
「何に?」
「重力歪み、位相境界、軌道照射経路の残響、または外部領域側の勾配」
「分かりやすく」
「傷が、別の傷に沿って滑っています」
康生は黙った。
傷が、別の傷に沿って滑る。
嫌な表現だが、見た目には近かった。
黄色い帯は、空間の皺に引っかかりながら、外へ外へと流れていく。
表示が進む。
――事故発生後、三分十二秒。
――Sample-09、追跡継続。
――位相帯、拡散せず。
――形状保持。
――外部要因による保持可能性。
――要監視。
相馬が言う。
「拡散していない」
「はい」
アオイが答える。
「通常の残留位相帯なら、時間経過とともに拡散または消散する可能性が高いです」
「なのに、形を保っている」
「はい」
「何かに保持されていた?」
「その可能性があります」
康生は表示を見る。
黄色い帯の中心に、わずかな黒い点がある。
最初は表示の乱れかと思った。
だが、拡大されるにつれて、それが記録上のノイズではないことが分かる。
小さな黒い点。
点というには、少しだけ重い。
周囲の黄色い帯が、その点を中心に巻きついているように見える。
「今の、何」
康生が聞く。
アオイの声が少し硬くなる。
「追跡ログ上の質量反応候補です」
「質量?」
「はい」
「サンプルって、場所の傷じゃなかったのか」
「Sample-09は変異位相帯として記録されています。ただし、事故後追跡ログには、微弱な質量反応候補が含まれています」
「つまり、傷だけじゃなかった?」
「可能性があります」
麻生が静かに言う。
「傷に、何かが乗っていた」
アオイが頷いた。
「表現としては、近いです」
康生は喉の奥が乾くのを感じた。
エリア51の地下は涼しいはずなのに、砂漠の乾いた空気がまだ身体の中に残っているようだった。
「何かって、クリーチャー?」
「現時点では不明です」
「天体?」
「不明です」
「機械?」
「不明です」
「全部不明か」
「はい」
相馬が表示を拡大する。
「質量反応の規模は」
――事故直後推定。
――質量反応、極小。
――測定値不安定。
――外部領域干渉により評価不能。
――通常物質とは限らない。
――追跡継続。
「極小か」
康生が少しだけ息を吐く。
「じゃあ、まだ大したことない?」
アオイはすぐには答えなかった。
その沈黙で、康生は嫌な予感を覚えた。
「アオイ」
「事故直後の推定です」
「今は?」
「追跡ログを続けます」
「嫌な言い方」
ログは進む。
黄色い帯は、地球重力圏の外縁へ達する。
そこから先、記録が粗くなる。
三沢の監視網も、エリア51の追跡系も、外へ行くほど精度が落ちている。
それでも、黄色い帯は消えなかった。
――事故発生後、一時間四十二分。
――Sample-09、地球近傍外縁通過。
――位相帯、形状保持。
――質量反応候補、継続。
――外部領域接続反応、微弱。
――追跡精度、低下。
――事故発生後、六時間十七分。
――Sample-09、外宇宙側へ流出。
――追跡困難。
――位相帯、外部歪みに同期。
――質量反応候補、維持。
――予測軌道、算出不能。
――事故発生後、二十一時間。
――追跡喪失。
――Sample-09、未回収。
――封入失敗。
――管理者判断、監視継続不要。
――備考、地球圏外へ流出したため脅威低下と評価。
康生は最後の行を見た。
「脅威低下」
「はい」
アオイが答える。
「外へ出たから、もういいと思った」
「そのようです」
「戻ってくるかもって考えなかったのか」
「記録上、少数の反対意見があります」
表示が切り替わる。
音声ログが再生された。
「追跡不能です」
「地球圏外へ出たなら、優先度を下げる」
「形状を保持しています」
「外部歪みに乗っただけだ」
「質量反応が残っています」
「測定誤差だ」
「戻る可能性は」
「戻らない」
「断定できません」
「今は地上の侵入個体が優先だ」
「Sample-09を失ったまま放置するのは危険です」
「危険なものはいくらでもある」
「三沢に全情報を送るべきです」
「送れば計画が止まる」
「止めるべきかもしれません」
短い沈黙。
次の声は、低かった。
「この記録は黒区画へ移す」
音声はそこで途切れた。
康生は目を閉じた。
まただ。
止めるべきだと言った人間はいた。
三沢へ送るべきだと言った人間もいた。
でも、止まらなかった。
記録は黒区画に隠された。
「全部、悪人ってわけじゃないのが嫌だな」
康生が言う。
「はい」
アオイが答える。
「反対意見は存在します」
「でも、決める人間が隠した」
「はい」
「最悪だ」
「はい」
読取台が次の照合を始めた。
――現行観測データ照合。
――参照元、三沢暫定監視網。
――対象、空間位相傷。
――観測時刻、現在。
――照合対象、Sample-09追跡ログ。
――照合開始。
三沢で見つけた現在の空間位相傷が、表示に重ねられる。
地球近傍外縁の微弱な黄色い帯。
動いている傷。
単なる残留ではない可能性。
七百年前のSample-09の軌跡が、その上に重なる。
最初はずれていた。
時刻も違う。
座標も違う。
七百年という時間がある。
重力場も、軌道残骸も、時空歪みも変化している。
だが、三沢とエリア51の補正が入るたびに、二つの線が少しずつ近づいていく。
アオイが言う。
「時空歪みの蓄積補正を適用します」
「分かりやすく」
「七百年間の歪みで、線がずれた分を戻します」
「そんなことできるのか」
「低精度です」
「ですよね」
表示が再計算される。
――補正一。
――重力兵器連鎖運用後の残留歪み。
――適用。
――補正二。
――受電光環第三外縁破損時の照射経路逸脱。
――適用。
――補正三。
――外部領域接続試験由来の変異位相帯。
――適用。
――補正四。
――現行三沢暫定監視網、低精度観測値。
――適用。
二つの黄色い線が、重なった。
完全ではない。
だが、偶然とは言いにくいほど近い。
康生は息を止める。
――照合結果。
――Sample-09追跡ログと現行空間位相傷に類似性。
――位相成分、一致候補。
――移動成分、一致候補。
――質量反応候補、再検出。
――確度、低から中。
――再観測、必須。
「繋がった」
相馬が低く言った。
アオイが答える。
「確定ではありません。ただし、無視できない一致です」
康生は表示を見る。
「質量反応候補、再検出って」
「はい」
「今も、何かあるってことか」
「可能性があります」
表示が拡大される。
現在の空間位相傷。
その中心付近に、小さな黒い濃淡がある。
七百年前の追跡ログにあった黒い点と、よく似ていた。
ただし、今の方が大きい。
康生はそのことに気づいてしまった。
「これ、七百年前より大きくないか」
アオイは、すぐには答えなかった。
「アオイ」
「はい」
「大きいよな」
「観測精度が異なるため、単純比較はできません」
「でも」
「はい」
アオイは短く認めた。
「現在観測値では、質量反応候補の有効範囲が拡大しています」
相馬が険しい顔をする。
「成長したのか」
「不明です。外部物質を取り込んだ、位相帯が広がった、観測条件が変わった、または元から存在したものが見えるようになった可能性があります」
「最悪の場合は」
アオイが少しだけ沈黙する。
康生はそれを聞きたくないと思った。
だが、聞かなければならない。
「言ってくれ」
アオイは表示を整理した。
――最悪ケース候補。
――外部質量体を伴う変異位相帯。
――外部領域接続核を含む時空歪み。
――通常天体が変異位相帯に包まれたもの。
――軌道照射事故由来の位相傷が、外部物質を取り込み成長したもの。
――地球近傍位相構造への再干渉リスク。
――衝突評価、不能。
――接近評価、不能。
――脅威評価、不能。
康生は表示を見て、乾いた声で言った。
「不能ばっかりだな」
「はい」
アオイが答える。
「三沢暫定監視網とエリア51記録だけでは、精度が不足しています」
「でも、ヤバいかもしれない」
「はい」
「地球に来る?」
「断定不能です」
「来ない?」
「断定不能です」
「嫌な真ん中だな」
「はい」
麻生が言う。
「分からぬものほど、怖いものですな」
「ですね」
康生は右手を見る。
布の下で、監視タグがわずかに表示を出している。
――右構成部監視タグ。
――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。
アオイがすぐに康生を見る。
「康生」
「分かってる」
「右手は使いません」
「使わない」
「空間位相傷に対する高出力干渉は禁止です」
「まだ考えただけだ」
「考えました」
「考えたけど」
「使いません」
康生は息を吐いた。
「右手は使わない。まず見る。三沢とエリア51のデータを統合する。警告を聞く」
アオイは頷いた。
「良い回答です」
「今の、わりと本気で危なかったな」
「はい」
「見えると、何かしたくなる」
「それが危険です」
「だな」
読取台は、さらに記録を開く。
――追加追跡候補。
――Sample-09再接近仮説。
――作成者、不明。
――黒区画内部反対意見メモ。
――開示可能。
「反対意見メモ」
康生が言う。
「誰かが残したのか」
「はい」
アオイが答える。
「正式記録ではありません」
表示に短い文章が出る。
――Sample-09は消えていない。
――地球圏外へ流出しただけだ。
――形状保持と質量反応を無視するな。
――外部歪みに乗ったものは、外部歪みに乗って戻る可能性がある。
――波は、岸へ戻る。
――傷は、閉じなければ残る。
――三沢へ送れ。
――止められるうちに止めろ。
康生は、その短い文章を見つめた。
誰が書いたのかは分からない。
研究者か。
兵士か。
技術者か。
三沢へ知らせようとした誰かか。
七百年前、その人は止めようとしていたのかもしれない。
だが、記録は黒区画に残った。
三沢へは届かなかった。
康生は静かに言った。
「遅かったんだな」
アオイが答える。
「はい」
「でも、残ってた」
「はい」
「じゃあ、今読むしかない」
「はい」
相馬が読取台へ指示を送る。
「三沢暫定監視網へ、照合結果を送る準備を。練馬、奥飛騨、海洋リン回収施設の監視項目にも反映する」
「了解」
アオイが処理を始める。
――照合結果、保存。
――Sample-09関連候補、保存。
――空間位相傷、監視優先度上昇。
――質量反応候補、監視項目追加。
――移動成分、監視項目追加。
――外部領域接続反応、監視項目追加。
――三沢暫定監視網への統合準備。
康生は表示を見る。
「これで、少しは見えるようになる?」
「少しは」
アオイが答える。
「少しか」
「はい。まだ足りません」
「何が足りない?」
「軌道観測系、受電光環残存センサー、旧衛星群、しらぬい観測系、三沢深層観測井の高精度化」
「いっぱい足りないな」
「はい」
「宇宙に行く必要ある?」
「将来的には可能性があります」
康生は天井を見た。
エリア51の地下。
砂漠の下。
そのさらに上には、青い空がある。
その向こうに、見えない傷がある。
「今は?」
「今は、次の記録です」
アオイが表示を切り替える。
――関連記録二。
――T-LANCE保管庫実体記録。
――開示制限。
――現地確認、必要。
――注意。
――T-LANCEはSample-07、Sample-09、外部領域接続試験、対侵入兵器計画に関連。
――注意。
――使用判断には、副作用評価記録の確認が必要。
――注意。
――保管庫封印、劣化。
康生は奥の隔壁を見た。
対侵入兵器保管庫。
戻ってくる傷。
消えなかったSample-09。
外部質量体の可能性。
そして、それに対抗するために作られたかもしれない兵器。
使えば、何かできるかもしれない。
その考えが、少しだけ頭をよぎった。
すぐに監視タグが点滅する。
――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。
アオイが言う。
「康生」
「分かってる」
「力を見つけても、使う理由にはなりません」
康生は苦笑した。
「先に言われた」
「必要です」
「だな」
彼は右手を見ないようにして、読取台を見る。
「次は、禁忌兵器か」
アオイは頷く。
「はい」
「資料だけ?」
「現地確認が必要です」
「つまり、何かある」
「可能性が高いです」
「どんなものだろうな」
アオイは少しだけ間を置いた。
「見た目で判断しないでください」
康生はアオイを見た。
「それ、どういう意味?」
「次の区画で確認します」
赤い誘導線が、奥の隔壁へ続いている。
三沢は、見るための眼をくれた。
エリア51は、試した者たちの記録を見せた。
そして今、戻ってくる傷に対して、七百年前の人間が用意した兵器の扉が開こうとしている。
読取台の表示が、ゆっくりと切り替わった。
――T-LANCE保管庫。
――現地確認手順、準備中。
――警告。
――当該対象は、対侵入兵器であると同時に、位相境界損傷要因です。
――接触禁止。
――照準禁止。
――起動禁止。
――使用禁止。
康生は、その四つの禁止を見て、小さく息を吐いた。
「禁止、多いな」
アオイが答える。
「足りないくらいです」
保管庫の隔壁が、低く鳴り始めた。




