第九十五話 変異位相格納庫
読取台の表示は、赤いまま止まっていた。
――欠損記録、開示準備完了。
――警告。
――当該記録には、意図的な外部領域接続試験が含まれます。
康生はその文字を見ていた。
意図的な外部領域接続試験。
言葉としては、難しい。
だが、意味は単純だった。
繋ごうとした。
向こう側と。
外から何かが入ってきた場所と。
七百年前の崩壊に繋がったかもしれない何かと。
偶然ではなく。
試験として。
「開くのか」
康生が聞く。
アオイは読取台の表示を確認している。
「一部は開示可能です。ただし、記録本体に欠損があります」
「また欠損」
「はい。外部領域接続試験記録は、複数のサンプル番号と格納庫内実体に紐づけられています。記録だけでは照合が不完全です」
相馬が眉を寄せる。
「つまり、格納庫を確認しろということですか」
表示が切り替わった。
――照合不足。
――変異位相帯サンプル、現物確認推奨。
――サンプル保管庫、封印中。
――読取権限、限定。
――接近、非推奨。
――開封、非推奨。
――観察、可能。
康生は顔をしかめた。
「非推奨なのに、可能って出るの嫌だな」
「試験施設の判断基準です」
アオイが答えた。
「安全ではないが、手順上は可能、という意味です」
「最悪のやつ」
「はい」
相馬は少し考えた。
「格納庫に入らず、外部から観察できますか」
アオイが端末を確認する。
「可能です。変異位相格納庫には、外部観察廊と遮蔽窓があります。ただし、遮蔽の劣化があります」
「入る必要は」
「現時点ではありません」
康生は少し安心した。
「じゃあ、外から見るだけにしよう」
アオイが即座に言う。
「右手使用は禁止です」
「見るだけ」
「接触禁止です」
「見るだけ」
「壁や扉に触れないでください」
「見るだけ」
「良い回答です」
麻生が静かに言った。
「見るだけ、というのも難しいものですな」
「今は本当に見るだけでお願いします」
康生が言う。
「はい」
麻生は穏やかに頷いた。
読取室の奥、三つ並んだ隔壁の一つが低く鳴った。
――変異位相格納庫。
――外部観察廊、限定開放。
――格納庫本体、封印維持。
――位相場起動、禁止。
――サンプル接触、禁止。
――生体搬入、禁止。
――観察のみ許可。
「生体搬入、禁止」
康生が読む。
「俺たち生体ですよね」
「格納庫本体への搬入禁止です」
アオイが答える。
「観察廊は別区画です」
「言葉遊びみたいだな」
「施設側の安全区分です」
「信用していいのか」
「信用しません」
「ですよね」
防衛隊員が先行する。
隔壁が開いた先には、まっすぐな廊下があった。
赤い誘導線が床に走っている。
壁は白に近い灰色。
三沢の地下よりも滑らかで、継ぎ目が少ない。
そのせいで、かえって人間味がなかった。
康生は廊下へ一歩入る。
すぐに違和感があった。
距離が合わない。
見た目では、十数メートルほどの廊下に見える。
だが、三歩進んだだけで、奥の扉が少し遠ざかった気がした。
康生は足を止める。
「今、遠くならなかった?」
アオイが前方を見る。
「距離計測に揺らぎがあります」
「実際に?」
「はい。視覚距離、音響反射、歩行距離が一致していません」
「最初から気持ち悪いな」
「変異位相残留の可能性があります」
相馬がすぐに指示を出す。
「隊列を詰めすぎるな。壁に触れるな。足元の誘導線から外れるな」
「了解」
廊下を進む。
足音が変だった。
一歩目は近くで響く。
二歩目は遠くで響く。
三歩目は、後ろから聞こえた。
康生は振り返る。
誰もいないわけではない。
麻生も千田も、防衛隊員も、ちゃんと後ろにいる。
だが、一瞬だけ、自分たちの足音ではないものが混ざったような気がした。
「アオイ」
「はい」
「音、おかしくない?」
「はい。反射遅延が不均一です」
「誰かいる?」
「現時点で生体反応はありません」
「現時点で、って付けるなよ」
「必要です」
千田が足元を見ながら言う。
「自分の足跡がないのは、少し落ち着きません」
「砂漠で足跡ついてたからですか」
「はい」
康生は廊下の床を見る。
砂はない。
埃も少ない。
床は乾いていて、足跡など残らない。
三沢では雪の足跡が消えていった。
ここでは、最初から残らない。
どちらも、自分たちが通った証拠を残さない。
ただ、こちらの方が嫌だった。
廊下の途中に、扉があった。
表示は消えている。
防衛隊員が端末を向ける。
「予定経路にはない扉です」
相馬が眉を寄せる。
「地図には?」
アオイが答える。
「ありません」
康生は扉を見る。
灰色の扉。
取っ手はない。
警告表示もない。
ただ、そこにある。
「さっきからありました?」
「映像記録上は、五秒前まで存在していません」
「怖いこと言うなよ」
アオイは扉へ近づかない。
「接近しないでください」
「しない」
「開けないでください」
「開けない」
「視線を固定しすぎないでください」
「視線も?」
「認識固定が位相残留に影響する可能性があります」
「見るだけも難しいな」
「はい」
相馬が短く命じる。
「予定経路を維持。扉は無視」
一行は扉を見ないようにして進んだ。
康生は見ないようにした。
だが、視界の端では、扉がまだそこにある。
あるはずのない扉が、普通の顔をして壁に収まっている。
数歩進んでから振り返ると、扉は消えていた。
代わりに、壁だけがあった。
「……消えた」
「記録しました」
アオイが言う。
「記録しないと信じたくないやつだ」
「はい」
廊下の終端に、分厚い透明材の窓があった。
その向こうが、変異位相格納庫だった。
康生は近づき、足を止める。
広い空間がある。
いや、広いように見える。
格納庫の床は、すぐ下にあるようにも見えた。
遠くにも見えた。
天井は高いようで、低い。
奥の壁は、目の前にあるようで、届かない距離にもある。
見ていると、奥行きがずれる。
康生は気持ち悪くなり、少し目を逸らした。
「無理だこれ」
「長時間の注視は避けてください」
アオイが言う。
「先に言ってくれ」
「今、判断しました」
「現場だな」
格納庫の中央には、複数の保管架が並んでいた。
金属製の架台。
透明な容器。
筒状の遮蔽ケース。
球形の保存容器。
中身が空に見えるものもある。
暗い液体のようなものが入っているものもある。
だが、どれも正常には見えない。
一つの容器は、見ている角度によって大きさが変わる。
別の容器は、内部の影が外側より先に動く。
床に固定されているはずの架台の影が、光源と関係ない方向へ伸びている。
康生は喉を鳴らした。
「これがサンプル?」
「はい」
アオイの声は硬い。
「変異位相帯サンプル、またはその封入容器と推定されます」
「サンプルにするなよ、ほんとに」
「同意します」
表示が窓の横に浮かぶ。
――変異位相格納庫。
――格納状態、部分維持。
――位相遮蔽、劣化。
――サンプル番号、照合中。
――Sample-03、封入維持。
――Sample-05、封入不安定。
――Sample-07、遮蔽劣化。
――Sample-09、所在不明。
――Sample-12、記録照合不能。
「所在不明」
康生が言う。
「一個ないってこと?」
アオイが答える。
「少なくとも記録上の格納位置に存在しません」
「どこ行ったんだよ」
「不明です」
「嫌な不明だ」
「はい」
相馬が表示を確認する。
「Sample-09の外部漏洩記録は」
――照合中。
――漏洩記録、欠損。
――事故報告、欠損。
――参照先、外部領域接続試験記録。
――参照先、黒区画ログ。
――管理者権限、要求。
「黒区画ログ?」
康生が聞く。
アオイが答える。
「非公開試験ログの一種と推定します」
「また嫌な名前が増えた」
「はい」
麻生が窓の向こうを見て、すぐに視線を落とした。
「これは、長く見ぬ方がよろしいですな」
「麻生さんでもそう思います?」
「見ていると、こちらが見られているように感じます」
康生は思わず窓から一歩下がった。
「やめてください」
「感じるだけです」
「感じるだけでも嫌です」
千田が端末に記録を取っている。
「視覚情報だけでは、位置関係の再現が困難です」
「記録できてます?」
「映像が一部歪みます」
「ですよね」
「ですが、記録は大事です」
「それはそう」
格納庫の奥で、何かが動いたように見えた。
康生は反射的に顔を向ける。
同時に、右手の監視タグが点滅した。
――右構成部監視タグ。
――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。
アオイが即座に康生の前に立つ。
「康生」
「分かってる。使わない」
「見すぎです」
「今、何か動いた」
「格納庫内の位相残留による視覚変化です。生体反応はありません」
「ほんとに?」
「現時点では」
「それ、やめて」
「正確性が必要です」
康生は窓から視線を外した。
右手の感覚は、すぐに落ち着いた。
――緊急時自動開放傾向、低下。
――受電経路形成前兆、なし。
アオイは康生の右手を確認してから、表示へ向き直る。
「Sample-07の遮蔽劣化が、右構成部に反応した可能性があります」
「向こうが俺を見た?」
「正確には、康生の右構成部と、Sample-07の位相残留に弱い相関が出ました」
「向こうが俺を見た、でいい?」
「情緒的表現としては」
「嫌すぎる」
相馬が即座に判断する。
「長居しません。必要な照合だけ行います」
「了解」
アオイが窓横の端末へ三沢参照コードを送る。
――サンプル照合開始。
――三沢軌道監視記録と照合。
――空間位相傷、関連候補。
――Sample-07、類似位相成分。
――Sample-09、記録欠損。
――Sample-12、外部領域接続試験に関連。
――詳細記録、黒区画ログに保存。
「黒区画ログに戻るのか」
康生が言う。
「はい」
アオイが答える。
「格納庫内の現物だけでは、空間位相傷との関係は確定できません」
「でも、関係ありそう?」
「はい」
「どれが?」
「Sample-07、Sample-09、Sample-12です」
「一個ないやつ入ってる」
「はい」
「嫌だな」
「同意します」
窓の向こうで、Sample-07と表示された容器が淡く光った。
いや、光ったように見えた。
透明な筒の中には、何もないように見える。
だが、その何もない部分だけ、周囲と違っている。
空気が薄く歪む。
奥の壁の線が、その部分だけ曲がる。
何もないはずなのに、そこだけ空間が折れているように見えた。
「中身、空じゃないのか」
康生が言う。
「見える形の物質ではない可能性があります」
アオイが答える。
「変異位相帯って、物じゃない?」
「物質、空間構造、外部領域境界の混合状態と推定します」
「分かりやすく」
「場所の傷を、容器に入れています」
康生は絶句した。
「入れるなよ」
「同意します」
相馬も低く言う。
「これを、実験したのか」
表示が答えるように切り替わった。
――Sample-07。
――取得経緯、外部領域接続試験後の残留位相帯。
――保管目的、再現性確認。
――用途、照射経路安定化試験。
――用途、対侵入兵器軸形成試験。
――警告、遮蔽劣化。
――接触禁止。
「対侵入兵器軸形成試験」
康生が読み上げる。
「T-LANCEか?」
アオイは黙った。
「やっぱり関係あるんだな」
「関連の可能性があります」
「可能性じゃない言い方に聞こえる」
「現時点では断定しません」
「ずるい」
表示はさらに続く。
――Sample-09。
――取得経緯、軌道照射経路逸脱時の位相帯分離片。
――保管状態、欠損。
――現在位置、不明。
――関連、空間位相傷。
――関連、外宇宙側流出記録。
――詳細、黒区画ログ。
康生は息を止めた。
Sample-09。
所在不明。
空間位相傷。
外宇宙側流出記録。
「これ、かなり本命じゃないか」
アオイが頷く。
「はい」
「ないけど」
「はい」
「ないのが一番嫌だな」
「同意します」
相馬がすぐに言う。
「黒区画ログを確認します。格納庫本体には入らない」
「入らなくていいです」
康生は即答した。
「むしろ入りたくない」
「良い判断です」
アオイが言った。
その時、格納庫の奥の照明が一つ落ちた。
いや、落ちたように見えた。
暗くなった場所に、別の区画のようなものが一瞬だけ重なる。
白い部屋。
黒い床。
倒れた机。
隔壁の向こうで動く影。
すぐに消える。
康生は思わず後退した。
「今の見た?」
「映像記録に一瞬の重畳があります」
アオイが答える。
「何あれ」
「過去の映像ではなく、別位相の残留構造が重なった可能性があります」
「分かりやすく」
「同じ場所に、別の場所の残骸が一瞬見えました」
「やめてくれ」
「観察廊から退避します」
相馬が即座に命じた。
「全員、記録照合室へ戻る。走るな。誘導線から外れるな。壁に触れるな」
一行は来た道を戻る。
廊下の距離は、行きより短いように感じた。
いや、長いようにも感じた。
康生はもう考えないことにした。
途中、さっき消えた扉がまた現れていた。
今度は少し開いている。
隙間の向こうに、赤い光が見えた。
誰も近づかなかった。
相馬が低く言う。
「見ない」
康生も見なかった。
だが、扉の向こうから、何かが呼吸するような音がした。
アオイが短く言う。
「生体反応なし」
「今の聞こえた?」
「音響異常あり」
「それ、生体反応なしでいいのか」
「はい」
「よくないだろ」
「走らないでください」
「走らない」
記録照合室へ戻ると、隔壁が閉まった。
赤い誘導線が少しだけ暗くなる。
康生はようやく息を吐いた。
「ここ、嫌いだ」
「同意します」
アオイが答えた。
「三沢の方がまだましだった」
「三沢は見張る場所でした」
相馬が言う。
「ここは、試した場所です」
康生は読取台を見る。
三沢では、七百年前の声が警告を残していた。
ここでは、サンプルが残っている。
所在不明のサンプルまである。
場所の傷を容器に入れて、照射経路の試験に使っていた。
見えないものを、見えないまま扱ったのではない。
見えていた。
それでも扱った。
その可能性が、康生には一番嫌だった。
読取台が新しい表示を出す。
――変異位相格納庫、照合完了。
――Sample-07、空間位相傷と類似成分。
――Sample-09、所在不明。空間位相傷との関連候補。
――Sample-12、外部領域接続試験に関連。
――詳細記録、黒区画ログ。
――黒区画ログ、開示準備可能。
――警告。
――当該記録には、意図的な外部領域接続、変異位相帯保管、対侵入兵器試験が含まれます。
康生は表示を見た。
黒区画ログ。
試した者たちの記録。
「次は、これを見るしかないか」
アオイが頷く。
「はい。ただし、接続は端末読取のみ。康生の右手、左接続、いずれも使用しません」
「助かる」
「精神的負荷は予測されます」
「それはもう諦めた」
麻生が静かに言う。
「目を背けたいものほど、残っているのでしょうな」
「ですね」
康生は読取台の前に立った。
右手は使わない。
触れない。
開かない。
見るだけ。
だが、見るだけで済む記録ではない気がした。
赤い誘導線が、床に細く光っている。
エリア51の地下で、試した者たちの記録が開こうとしていた。




