第八十九話 砂漠への参照
中央表示装置の中で、ネバダ参照コードが点滅していた。
空間位相傷。
外部質量体の可能性。
変異位相帯。
軌道照射経路逸脱。
外部領域接続試験記録。
そのどれもが、まだ確定ではない。
だが、三沢だけでは分からないことは確定した。
康生は白い表示を見つめる。
雪に埋もれた基地の地下で、砂漠の名前が浮かんでいる。
それが妙に不自然で、妙にしっくりきた。
三沢は見張る場所だった。
見つける場所だった。
警告を出す場所だった。
だが、試した場所ではない。
試した者たちは、別にいた。
「三沢管理系」
相馬が言った。
「外部参照コードの詳細を保存。現行監視網と紐づける。ネバダ統合試験区域に関する記録は、すべて優先抽出」
表示が応じる。
――要求、受領。
――外部参照コード、保存。
――対象、ネバダ統合試験区域。
――Groom Lake Phase Test Range.
――外部領域接続試験記録。
――変異位相帯サンプル保管庫。
――軌道照射経路逸脱ログ。
――受電光環第三外縁破損時記録。
――現行監視網、関連付け完了。
――注意。
――実データ、本区画に存在しません。
「ないんだよな」
康生が言う。
「はい」
アオイが答えた。
「三沢に残っているのは、参照先と照合用の断片だけです」
「肝心なところは砂漠か」
「はい」
「嫌だなあ」
「同意します」
「同意するの早いな」
「危険な情報が集約されている可能性が高いためです」
中央表示の横に、三沢で得た情報が整理されていく。
――三沢取得情報、整理。
――旧防衛隊崩壊期ログ、保存。
――未処理警報、保存。
――右構成部低精度診断、保存。
――右構成部監視タグ、適用済み。
――暫定監視網、構成済み。
――監視対象、練馬、奥飛騨、海洋リン、三沢、空間位相傷。
――空間位相傷、正体未確定。
――詳細照合には外部参照記録が必要。
相馬はそれを確認して、しらぬいへ通信を開いた。
「こちら三沢調査班。外部参照コードを送信する」
「こちら、しらぬい。受信準備完了」
「対象は旧米軍系ネバダ統合試験区域。俗称、エリア51に該当する可能性あり」
短い沈黙。
しらぬいが答える。
「受信しました。ネバダ統合試験区域への経路調査を開始します」
康生は思わず言う。
「ほんとに行く流れなんだな」
「必要です」
しらぬいは淡々としていた。
「三沢の観測記録のみでは、空間位相傷の正体を特定できません。外部領域接続試験記録、変異位相帯サンプル記録、軌道照射経路逸脱ログの取得が優先されます」
「名前が全部嫌なんだけど」
「同意します」
アオイが言った。
「お前も同意ばっかりだな」
「嫌な情報が多いためです」
麻生が画面を見上げる。
「雪の下で、砂漠の名を聞くとは思いませなんだ」
千田が頷いた。
「靴の準備が変わります」
康生は振り返った。
「そこ?」
「雪と砂では必要な対策が違います」
「確かに」
「靴下も違います」
「千田さんはぶれないな」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
だが、中央表示の内容は重いままだ。
――空間位相傷、暫定監視継続。
――観測精度、低。
――移動成分、継続監視。
――外部要因、未確定。
――ネバダ参照記録、未取得。
――推奨、次工程。
――ネバダ統合試験区域への調査計画立案。
相馬が言った。
「この情報は防衛隊本部へ送ります。ただし、住民には出せません」
「ですよね」
康生は頷いた。
「東京地下にも?」
「練馬管制と篠宮殿には、最低限を共有します。空間位相傷の詳細ではなく、三沢調査の結果として、次の調査先が旧米軍系施設であることまでです」
「篠宮さん、また心配しそうだな」
「心配はするでしょう」
アオイが言う。
「ただし、康生が右手を使っていないことも共有します」
「そこ大事?」
「はい」
「みんなそこ気にするな」
「実績によります」
「はい」
相馬が練馬管制へ通信を繋ぐ。
森川の声が入った。
「こちら練馬管制。三沢調査班、どうぞ」
相馬は簡潔に報告した。
三沢地下観測区画の低電力起動。
旧監視ログの保存。
暫定監視網の構成。
空間位相傷の監視対象化。
そして、欠損記録の外部参照先がネバダ統合試験区域であったこと。
森川はしばらく黙った。
「三沢には、記録の本体がなかったのですね」
「はい」
相馬が答える。
「三沢は監視側でした。実験側の一次記録は、ネバダ側に残っている可能性があります」
「分かりました。練馬側では、三沢からの警告通知を受ける体制を維持します。送電母線への制御接続は開けません」
「それでお願いします」
森川の声が少しだけ変わる。
「石田さん」
「はい」
「右手は使っていませんね」
「使ってません」
アオイが即座に補足する。
「右手使用なし。高出力運用なし。監視タグ、平常範囲」
「監視タグについては後で詳細をください」
「送信します」
「石田さん」
森川はもう一度言った。
「無茶はしないでください」
「はい」
「アオイさん」
「止めます」
「お願いします」
康生は小さく息を吐いた。
「俺への信用、底値だな」
アオイが答える。
「回復傾向です」
「ほんと?」
「完全回復ではありません」
「右手みたいに言うな」
通信先が東京地下へ切り替わる。
燈子の声は、少し遠かった。
「こちら東京地下、篠宮です」
康生は姿勢を正した。
「篠宮さん、起きてて大丈夫なんですか」
「寝台の上です」
「それは大丈夫判定なのか」
遠くで医療班の声がした。
「短くしてください」
「はい」
燈子の声が少し小さくなった。
相馬が報告する。
三沢で監視網を起こしたこと。
練馬を監視対象に入れたこと。
東京地下へ直接の危険があるわけではないこと。
ただし、三沢の記録から次の調査先が旧米軍系ネバダ試験区域になったこと。
燈子は静かに聞いていた。
「砂漠、ですか」
「はい」
相馬が答える。
「詳細はまだ不明です」
「東京地下は、今まで通りでよいですか」
アオイが答える。
「はい。練馬三パーセント維持。冷却循環と送電母線の安定。住民生活の維持。それが最優先です」
「分かりました」
燈子は即答した。
「こちらは、いつも通りを守ります」
康生はその言葉に、少しだけ安心した。
いつも通り。
地下で暮らす者たちにとって、それは軽い言葉ではない。
灯りが点くこと。
水が出ること。
薬品が冷やされること。
外縁が守られていること。
それを続けるだけで、大きな仕事だ。
「石田さん」
燈子が言った。
「はい」
「今度は、砂漠へ行くんですね」
「たぶん」
「右手は」
「使ってません」
「これからも?」
康生は少しだけ黙った。
アオイが見る。
相馬も見る。
麻生も、千田も、何も言わない。
康生は布の下の右手を見た。
「使う前に見ます」
燈子は少し間を置いてから言った。
「はい」
それだけだった。
だが、その返事は、納得よりも約束に近かった。
「戻ってきてください」
「はい」
「人として」
康生は小さく笑った。
「そこ、続くんですね」
「大事なことです」
「はい」
通信は切れた。
中央管制室に、静けさが戻る。
三沢の表示は、作業を終えたあとも低電力で灯り続けていた。
赤い警報。
青い監視点。
黄色い空間位相傷。
そして、ネバダ参照コード。
八章で得たものは、武器ではない。
康生はそう思った。
三沢は、強い砲をくれたわけではない。
便利な動力をくれたわけでもない。
空へ飛ぶ手段をくれたわけでもない。
くれたのは、警告だった。
記録だった。
見るための眼だった。
そして、その眼は、次に見るべき場所を示した。
砂漠。
相馬が端末を閉じた。
「三沢での初期調査は、ここまでです」
「終わり?」
康生が聞く。
「三沢でできる範囲は」
「できない範囲が、ネバダ」
「はい」
アオイが答える。
「三沢は空間位相傷を検出しましたが、正体の特定には至りませんでした。欠損記録の取得が必要です」
「つまり、砂漠に行くしかない」
「はい」
「遠いな」
「はい」
「海も越えるよな」
「はい」
「ハワイ近海の中継巣とか、あるんだよな」
相馬が頷いた。
「あります。航路選定には注意が必要です」
「嫌な道だな」
「はい」
アオイが言う。
「ですが、必要です」
「そればっかりだ」
「必要なことが多すぎます」
「それはそう」
康生は中央管制室を見回した。
古い椅子。
低電力の表示。
底の見えない観測井。
七百年前の声。
未処理警報。
右手の診断。
監視網。
空間位相傷。
ネバダ参照コード。
どれも、ここに置いていけるものではない。
記録として持っていく。
警告として繋いでいく。
見なかったことにはしない。
「地上に戻りましょう」
相馬が言った。
康生たちは中央管制室を出た。
斜路を上る。
地下の冷たい機械の匂いが、少しずつ薄れていく。
代わりに、雪の匂いが戻ってきた。
防爆扉の向こうは、白かった。
まだ雪が降っていた。
滑走路は、来た時よりもさらに白い。
康生たちが歩いた足跡は、ほとんど消えている。
誰がどこを歩いたのか、もう分からない。
だが、消えたわけではない。
足跡は消えた。
けれど、地下の眼は開いた。
記録は取り出された。
監視網は繋がった。
砂漠への参照も見つかった。
見えないだけで、ある。
康生は空を見上げた。
灰色の空から、雪が降り続けている。
降っているはずなのに、見上げると、雪は空の奥へ吸い込まれていくように見えた。
その向こうに、空間位相傷がある。
さらにその正体を知るための記録は、遠い砂漠にある。
雪の下から、砂漠へ。
妙な話だと思った。
だが、この世界はずっとそうだった。
地下の灯りが海へ繋がり。
山の施設が東京へ繋がり。
雪に埋もれた基地が、空の傷を見つけ。
その傷が、砂漠の試験場を指している。
康生は右手を見た。
布の下で、監視タグは静かに待機している。
使う前に見る。
それは、これから向かう場所にも必要な言葉だった。
三沢の誘導灯が、雪の下で淡く光っている。
北の監視者は、もう眠っていない。
その眼は、砂漠を指していた。




