第八十八話 起動監視記録
中央表示装置が白く変わった。
三沢の地下に、地上とは違う空が開く。
そこに映ったのは、青い海でも、白い雲でもなかった。
軌道だった。
地球を囲む細い輪。
受電光環。
旧衛星群。
軌道兵器の残骸。
切れた通信線。
消えた観測点。
それらが、古い記録として表示されていく。
――旧三沢軌道監視記録、開示。
――時刻同期、劣化。
――記録欠損、多数。
――復元可能範囲を表示。
――崩壊期後半、軌道監視ログ。
康生は画面を見上げた。
さっきまで見ていたのは、日本列島だった。
練馬。
奥飛騨。
海洋リン回収施設。
三沢。
人間が地上に残した施設。
だが、今の画面は違う。
視点が上がっている。
地球の外側。
康生たちが普段、空と呼んでいる場所。
そこもまた、旧文明の後始末で埋まっていた。
「空って、もっと空っぽだと思ってた」
康生が言う。
アオイが答える。
「実際の軌道上には、残骸、通信線、受電設備、軌道観測点、兵器運用痕跡が存在します」
「空っぽじゃないな」
「はい」
「汚い」
「はい」
アオイは否定しなかった。
表示が進む。
――受電光環、外縁部損傷。
――軌道集束エネルギー照射系、部分停止。
――衛星炉群、応答喪失。
――軌道兵器管制、断線。
――重力歪み検出、複数。
――位相境界異常、発生。
相馬が低く言う。
「崩壊期の軌道記録ですね」
「はい」
アオイが答える。
「地上での報復連鎖と並行して、軌道上でも兵器運用と施設破損が発生しています」
「上でも撃ち合ってたのか」
康生は顔をしかめた。
「地上であれだけやって、まだ上でも?」
「はい」
「ほんと、よく残ったな」
「残ったものが、現在の世界です」
その言葉は静かだった。
だが、重い。
中央表示に、七百年前の記録が流れる。
――地上炉反応、複数異常。
――軌道集束照射、緊急停止要求。
――重力兵器運用、軌道側で検出。
――受電光環、局所過負荷。
――位相揺らぎ、拡大。
――警告、空間構造劣化。
続いて、音声ログが開く。
ざらついた声が、地下管制室に流れた。
『軌道側、受電光環の第三外縁が落ちます』
別の声。
『切り離せ』
『切り離し信号、通りません』
『重力歪みが強すぎる。同期が外れています』
『地上側に停止要求を出せ』
『送信済み。応答なし』
ノイズ。
『このままだと、照射経路が歪みに乗るぞ』
『乗る?』
『経路が固定できない。時空面そのものが波打っています』
康生は画面を見た。
「時空面が波打つって、何だよ」
アオイが答える。
「極端な重力運用や中核特異点炉の過負荷により、空間構造に安定しない歪みが生じた状態です」
「分かりやすく」
「道が揺れています」
「宇宙の道が?」
「はい」
「最悪だな」
「はい」
音声は続く。
『第三外縁、破断』
『照射系を止めろ』
『止まりません。自動保護が遅れています』
『どこへ流れている』
『不明。歪みに同期して逸れています』
『逸れた先は』
『観測不能』
ノイズが強くなり、音声は途切れた。
中央表示に、細い線が表示される。
地球を囲んでいた輪の一部が崩れ、その破片のようなものが外側へ流れていく。
物体ではない。
光でもない。
表示上では、黄色い帯として示されている。
位相帯。
それは、地球近傍の外側へ伸びていた。
康生は息を止めた。
「これ、さっきのやつに似てる」
「はい」
アオイが答える。
「現在観測された空間位相傷と、崩壊期後半に記録された位相帯には類似性があります」
「七百年前の残り?」
「一部は残留で説明できます」
「一部は?」
「現在観測されたものには、移動成分があります」
相馬が画面を見つめる。
「七百年前に流れた歪みが、今も動いている?」
「その可能性もあります。ただし、単独の残留歪みとしては安定しすぎています」
「安定?」
「はい」
アオイは表示を拡大した。
――旧位相帯記録。
――発生、崩壊期後半。
――起源、重力兵器連鎖運用および軌道受電光環破損。
――進行方向、外宇宙側。
――消失推定、多数。
――一部、追跡不能。
次に、現在の観測結果が重ねられる。
――現行観測。
――空間位相傷、再検出。
――移動成分あり。
――重力歪み、極小継続。
――位相境界、安定傾向。
――外部要因による保持を推定。
康生は眉を寄せた。
「外部要因?」
アオイは少しだけ沈黙した。
「何かが、歪みを保持している可能性があります」
「何かって」
「不明です」
「また不明」
「はい」
中央管制室は冷えている。
だが、康生は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
嫌な熱だった。
見えないものが、少しずつ形を持っていく。
地上の施設ではない。
ただの歪みでもない。
何かがある。
空の外側に。
麻生が静かに言う。
「傷は、何かに引かれておりますか」
アオイが麻生を見る。
「近い表現です」
「では、傷だけではありませぬな」
「はい」
相馬が端末へ指示を出す。
「三沢管理系。旧軌道監視記録と現行観測の差分を抽出。外部要因候補を表示」
――要求、受領。
――差分抽出。
――観測精度、不足。
――候補一、残留位相帯。
――候補二、変異位相領域。
――候補三、外部質量体に伴う時空歪み。
――候補四、外部領域接続前兆。
――複合の可能性あり。
「質量体」
康生が呟いた。
「何か、物があるってこと?」
アオイが答える。
「可能性です」
「小惑星とか?」
「現時点では特定不能です」
「どのくらいの大きさかは?」
「算出不能です」
「算出不能って、分からないのか、大きすぎるのか、どっち?」
アオイはすぐに答えなかった。
その沈黙で、康生は少し嫌な気分になった。
「アオイ」
「観測精度が不足しています」
「それは分かった」
「ただし」
「ただし?」
「三沢の低精度観測で拾えるほどの重力歪みを伴っている場合、極小天体ではありません」
中央管制室の空気が止まったように感じた。
相馬が短く聞く。
「脅威評価は」
「現時点では不能」
「接近しているか」
「断定不能」
「最悪の場合は」
アオイは表示を見た。
「地球近傍への接近、または地球周辺位相構造への干渉」
「衝突ではなく?」
「衝突も含みます。ただし、位相傷を伴う場合、単純な天体衝突とは限りません」
康生は画面を見つめた。
単純な天体衝突ではない。
その言葉は、かえって怖かった。
大きな石が飛んでくるだけなら、まだ分かる。
いや、それでも十分怖い。
だが、三沢が見ているのはそれだけではない。
空間の傷。
位相帯。
重力歪み。
外部質量体。
外部領域接続前兆。
分からないものが重なっている。
「つまり、空から何か来てるかもしれない」
康生が言う。
アオイが答える。
「現時点では、そう表現するには不確定要素が多すぎます」
「でも、否定は?」
「できません」
しらぬいの通信が入る。
「旧軌道監視記録内に、類似警告文を確認」
相馬が顔を上げる。
「再生を」
ノイズ混じりの音声が流れた。
『外宇宙側へ流出した位相帯を追跡できない』
別の声。
『放置してよいのか』
『今は地上が優先だ』
『地上が残れば、だろう』
短い沈黙。
『戻ってきたらどうする』
『何が』
『歪みだ。あるいは、歪みに乗った何かだ』
ノイズ。
『戻るわけがない』
『本当にそう言えるのか』
そこで音声は切れた。
康生はしばらく何も言えなかった。
戻ってきたらどうする。
七百年前に誰かが言った、不安。
その時は、きっと優先順位が低かったのだろう。
地上が燃えていた。
炉が暴走していた。
クリーチャーの入口が開いていた。
都市が壊れていた。
外宇宙へ流れた歪みの行方など、追う余裕はなかった。
だが、七百年後。
三沢の眠っていた眼は、それに似たものを見つけている。
「七百年前の宿題、多すぎだろ」
康生が呟いた。
アオイが答える。
「はい」
「そこは否定してほしかった」
「否定できません」
「だよな」
中央表示に、旧記録と現在観測が重ねられる。
黄色い帯。
青い軌道線。
赤い破損記録。
灰色の断線。
そして、外側に薄く揺れる傷。
三沢の計算は何度も失敗し、何度もやり直される。
――観測精度、不足。
――軌道監視網、欠損。
――受電光環残存センサー、再評価必要。
――旧衛星片、慣性ログ不足。
――現行監視網、拡張必要。
――欠損記録、複数。
――外部参照、検出。
相馬が目を細めた。
「外部参照?」
表示が切り替わる。
――三沢軌道監視記録、欠損区間。
――欠損範囲、崩壊期後半。
――対象、位相帯追跡記録。
――対象、受電光環第三外縁破損時の照射経路ログ。
――対象、外部領域接続反応照合表。
――国内記録庫、該当なし。
――外部参照コード、残存。
康生は画面を見る。
「国内にない?」
「はい」
アオイが答える。
「三沢側の記録には、参照先だけが残っています。実データは別施設に保管されていた可能性があります」
「別施設って、どこ」
表示がさらに深くなる。
――外部参照コード、復元。
――旧米軍系統。
――北米大陸西部。
――ネバダ統合試験区域。
――Groom Lake Phase Test Range.
――外部領域接続試験記録。
――変異位相帯サンプル保管庫。
――軌道照射経路逸脱ログ。
――参照権限、三沢観測防衛基地、読取のみ。
康生はしばらく黙った。
それから、ゆっくり言った。
「グルーム、レイク」
相馬が表示を見つめる。
「ネバダ統合試験区域……旧米軍系ですか」
アオイが頷く。
「はい」
康生はアオイを見る。
「これ、もしかして」
アオイは答えた。
「俗称では、エリア51と呼ばれていた区域に該当します」
中央管制室が静かになった。
康生は口を開きかけ、閉じた。
それから、もう一度画面を見る。
「エリア51って、あの?」
「その確認は曖昧です」
「いや、あの、宇宙人とか、秘密基地とかの」
「旧時代の都市伝説、軍事機密、航空試験施設、外部領域研究施設に関する複合的な呼称です」
「盛りすぎだろ」
「実態は不明です」
「今の情報だけで十分盛ってる」
麻生が静かに言う。
「三沢は、見張る場所でしたな」
「はい」
アオイが答える。
「では、そこは」
「試した場所である可能性があります」
その言葉に、康生の背中が冷えた。
見張る場所。
試した場所。
三沢は、警告を出した。
記録を残した。
止めようとした。
だが、何が起きたのか、その元の記録は別にある。
雪の下の三沢ではなく。
砂漠の下に。
相馬が低い声で言う。
「三沢は、エリア51の実験結果を監視していた?」
アオイが表示を確認する。
「全てではありません。ただし、外部領域接続試験、変異位相帯、軌道照射経路逸脱に関する一部データは、ネバダ側が一次記録を保有していた可能性が高いです」
「つまり、空間位相傷の正体を知るには」
康生が言う。
「そこを見る必要がある」
アオイが頷く。
「はい」
中央表示に、三沢の記録とネバダ参照コードが並ぶ。
雪に埋もれた基地の眼が、砂漠の名を指している。
康生は右手を見た。
布の下にある。
監視タグは静かに待機している。
使う前に見る。
その言葉は、右手だけではなくなった。
炉を見る。
地上を見る。
空の傷を見る。
そして、今度は、試した者たちの記録を見る。
「嫌な予感しかしないな」
康生が言う。
アオイが答える。
「同意します」
「同意するんだ」
「はい」
相馬が端末を操作する。
「外部参照コードを保存。しらぬい、防衛隊本部、練馬管制へ共有。ただし、扱いは最優先機密」
しらぬいの通信が入る。
「受信しました。ネバダ統合試験区域への経路確認を開始します」
「もう?」
康生が言う。
「必要です」
しらぬいが答える。
「三沢の観測精度では、空間位相傷の正体を特定できません。欠損記録の取得が優先されます」
「エリア51に行くのか」
誰もすぐには答えなかった。
地下の冷たい空気が、やけに重く感じる。
七百年前の警告。
軌道上の破損。
外宇宙へ流れた位相帯。
戻ってきたかもしれない傷。
そして、その記録の欠けた先。
旧米軍系ネバダ統合試験区域。
Groom Lake Phase Test Range.
エリア51。
康生は小さく息を吐いた。
「三沢で終わりじゃないんだな」
アオイが答える。
「はい」
「次は空じゃなくて、砂漠か」
「はい」
麻生が静かに目を伏せた。
「雪の下から、砂漠へ続く道が出ましたな」
康生は中央表示を見る。
画面の中で、黄色い空間位相傷はまだ揺れている。
その横に、ネバダ参照コードが点滅していた。
三沢は、空の傷を見つけた。
けれど、その正体を知るための記録は、ここにはなかった。
見張る者の眼は、試した者たちの残した砂漠を指していた。




