第八十七話 空の傷
中央表示装置の端に、黄色い点が残っていた。
練馬でもない。
奥飛騨でもない。
海洋リン回収施設でもない。
三沢でもない。
地表施設の外側。
地球周辺空間。
そこに、三沢の暫定監視網は微かな位相揺らぎを拾っていた。
康生は画面を見たまま、右手を握りそうになり、止めた。
布の上に左手を重ねる。
使わない。
まず見る。
「再観測するんだよな」
「はい」
アオイが答える。
「ただし、条件を確認します。高出力設備は起動しません。右手は使用しません。康生を観測媒体として使用しません。三沢の深層観測系は低電力範囲に限定します」
「良い条件です」
康生が言う。
「康生が言うと信用が低下します」
「ひどい」
「実績によります」
「返す言葉がない」
相馬が中央端末へ向かう。
「三沢管理系。対象外領域の再観測を実施。観測精度を一段階のみ上げる。高出力設備は保護停止維持。現存センサー、深層同期時計、重力歪み検出系、ニュートリノ観測井三番を低電力で使用」
表示が応じた。
――要求、受領。
――対象外領域、再観測準備。
――高出力設備、保護停止維持。
――ニュートリノ観測井三番、低電力読取。
――重力歪み検出系、部分読取。
――深層同期時計、低精度補正。
――外部保守端末、読取補助。
――右構成部、非使用確認。
「右構成部、非使用確認」
康生が読む。
「しつこいな」
「必要です」
アオイが答える。
「はい」
中央管制室の奥で、低い振動が起きた。
大きな音ではない。
地下深くで、古い機械が少しだけ目を開けたような音だった。
観測井の向こうに、淡い光が走る。
底の見えない縦穴。
内壁に並ぶリング状センサー。
その一部だけが、雪の下の誘導灯のように弱く灯っていく。
康生は窓越しにそれを見た。
「起きてる」
「完全起動ではありません」
アオイが言う。
「分かってる。最低限だろ」
「はい。最低限です」
中央表示に、日本列島の輪郭が浮かぶ。
次に、地球の輪郭。
周辺軌道。
旧衛星群の残骸。
受電光環の一部。
切れた線。
使えない観測点。
その外側に、黄色い点が一つ。
揺れている。
「再観測、開始」
相馬が言った。
表示が流れる。
――位相揺らぎ、再検出。
――重力歪み、極小。
――ニュートリノ反応、判定不能。
――発生源、地表施設外。
――推定方向、地球近傍外縁。
――観測精度、不足。
――追加同期、推奨。
「追加同期って?」
康生が聞く。
アオイが答える。
「三沢単独では位置が絞れません。しらぬい、受電光環残存センサー、旧衛星片の慣性ログを使って照合します」
「使えるのか」
「使える部分だけ使います」
「最低限」
「はい」
しらぬいの通信が入る。
「こちら、しらぬい。三沢からの再観測要求を受信。艦載観測系を低出力で同期します。火器管制系は使用しません」
「火器管制は使わないんですね」
康生が言う。
「現時点で撃つ対象ではありません」
「それを聞けて安心した」
「撃つ対象であっても、現時点では撃てません」
「安心が消えた」
「事実です」
相馬が短く言う。
「照合を」
「了解」
中央表示に、線が増える。
三沢。
しらぬい。
受電光環の残存センサー。
旧衛星片。
練馬の送電母線監視ログ。
奥飛騨の低負荷反応。
海洋リン回収施設の遠い揺らぎ。
ばらばらの点が、同じ時間軸に並べられていく。
深層同期時計が低精度で補正をかける。
表示の黄色い点が、少しだけ伸びた。
点ではない。
傷のようだった。
「広がった?」
康生が言う。
「位置精度が上がったことで、点ではなく帯として表示されています」
アオイが答える。
「帯?」
「空間の揺らぎが、単一の点ではなく、細い範囲に沿って発生している可能性があります」
「それ、何なんだ」
「不明です」
「また嫌な不明だ」
「はい」
表示が更新される。
――位相揺らぎ、帯状。
――推定長、算出不能。
――重力歪み、極小だが継続。
――ニュートリノ反応、背景値との差異小。
――時空構造歪み、低レベル。
――一過性現象ではない可能性。
麻生が静かに言う。
「空に、傷があるようですな」
誰も否定しなかった。
康生は画面を見つめた。
空の傷。
地上からは見えない。
雪の中から空を見上げても、灰色の雲と降る雪しか見えなかった。
けれど、そのさらに外側に、何かがある。
見えないだけで、ある。
三沢はそれを見つけた。
「これ、七百年前の残りか?」
康生が聞く。
アオイはすぐには答えなかった。
表示を読み、しらぬいからの照合結果を待ち、三沢管理系の推定を確認する。
それから言った。
「残留歪みの可能性はあります。ただし、完全な残留とは判断できません」
「どういうこと?」
「動いています」
康生は息を止めた。
中央表示が切り替わる。
――位相揺らぎ、時間変化あり。
――移動成分、検出。
――推定速度、低精度。
――発生源、固定点ではない。
――外部質量体、または変異位相帯の移動を推定。
――再観測、継続推奨。
「動いてる」
相馬が低く言った。
「はい」
アオイが答える。
「空間の傷そのものが動いているのか、傷を伴う何かが移動しているのかは不明です」
「何かって」
康生は画面を見る。
「クリーチャーの巣とか?」
「現時点では該当反応なし」
「ゲート?」
「ゲート由来反応に類似する成分はあります。ただし、既知の侵入口反応とは一致しません」
「じゃあ何」
「不明です」
康生は顔をしかめた。
不明。
不明。
不明。
三沢は見ている。
だが、まだ分からない。
それでも、見えたことで、嫌な予感は形を持ち始めている。
しらぬいの通信が入った。
「追加照合結果。旧軌道監視ログに類似記録あり」
相馬が反応する。
「類似記録?」
「七百年前の崩壊期後半。重力兵器の連鎖運用後、地球近傍外縁に短時間の位相帯が複数発生。記録は不完全。多くは消失。ただし、一部は外宇宙方向へ流出したと推定されています」
康生は眉を寄せた。
「流出?」
アオイが補足する。
「重力兵器や中核特異点炉の乱用によって生じた時空の歪みが、局所に留まらず、空間構造の流れに乗って移動した可能性です」
「歪みが流れるのか」
「通常の物体の移動とは異なります」
「分かりやすく」
「水面の波が、発生地点から離れていくようなものです。ただし、この場合は水面ではなく、時空構造です」
「分かりやすくなったけど、怖さは増した」
「適切な反応です」
中央表示の黄色い帯が、わずかに位置を変える。
観測精度が低いせいで、揺れているようにも見える。
だが、アオイは動いていると言った。
「これ、こっちに来てる?」
康生が聞く。
アオイは沈黙した。
しらぬいも答えない。
その沈黙が、答えだった。
やがて、アオイが言った。
「現時点では、地球への接近とは断定できません」
「断定できないだけ?」
「はい」
「可能性は?」
「あります」
康生は小さく息を吐いた。
相馬が画面を見つめたまま言う。
「到達時間は」
「算出不能です」
アオイが答える。
「観測精度が不足しています。位置、速度、実体の有無、すべて不確定です」
「では、次に必要なのは」
「観測精度の向上です」
「ですよね」
康生は右手を見た。
使えば、何かできるかもしれない。
そんな考えが、ほんの一瞬だけ浮かんだ。
その瞬間、中央表示の端が点滅した。
――右構成部監視タグ。
――緊急時自動開放傾向、微弱上昇。
「うわ」
康生が声を漏らす。
アオイがこちらを見る。
「康生」
「今のは考えただけ」
「考えただけで反応しました」
「最悪だな、この手」
「はい」
アオイは否定しない。
「だから、使う前に見ます」
康生は右手から視線を外した。
「分かった」
「分かった、は」
「右手は使わない。まず見る。警告を聞く」
「良い回答です」
麻生が康生を見た。
「石田殿」
「はい」
「今は、前に出る時ではありませぬな」
「ですね」
「見る者が必要な時もあります」
康生は中央表示を見る。
七百年前の三沢は、見ていた。
警告を出した。
止められなかった。
だから、見るだけでは足りない。
だが、見ないまま動けば、同じことになる。
「見るだけで終わらせないために、まず見るんだな」
アオイが頷く。
「はい」
中央表示がさらに更新される。
――対象外領域、仮称設定。
――仮称、空間位相傷。
――観測優先度、上昇。
――現行暫定監視網では精度不足。
――必要、軌道観測系の再構成。
――必要、旧宇宙監視記録。
――必要、受電光環残存センサー再評価。
――推奨次工程、旧三沢軌道監視記録の開示。
「三沢に軌道監視記録もあるのか」
相馬が言う。
しらぬいが答える。
「三沢は地上施設監視だけでなく、旧軌道兵器、受電光環、衛星炉の一部を監視対象としていました」
「どこまで見てたんだよ」
康生が呟く。
アオイが答える。
「見える限り、見ていたのでしょう」
その言葉は、七百年前の声と重なった。
見ていなければ、誰も分からなくなる。
康生は画面を見た。
雪に埋もれた滑走路の下で、三沢はまだ見ていた。
地上の炉も。
海の施設も。
山の施設も。
そして、空の傷も。
「ログを見よう」
康生が言う。
「今度は、空の方を」
アオイが頷いた。
「旧三沢軌道監視記録を開示します。ただし、康生の接続負荷が上がる場合は中断します」
「分かった」
アオイが見た。
康生は言い直す。
「中断すると言われたら中断する」
「良い回答です」
中央表示装置が白く変わる。
――旧三沢軌道監視記録、開示準備。
――警告。
――当該記録には、崩壊期後半の軌道兵器運用、受電光環破損、時空位相異常が含まれます。
康生は目を細めた。
七百年前の地上の警報。
そして、空の記録。
地上の後始末だけでは終わらない。
そう突きつけるように、黄色い帯は画面の外側で揺れていた。
空には、傷がある。
見えないまま、扱ってはいけない傷が。




