第八十六話 炉を見る眼
三沢の中央表示装置に、新しい線が引かれていく。
完全な線ではない。
途切れ途切れで、細く、ところどころ灰色に沈んでいる。
それでも、何もなかった画面に、かろうじて道筋が生まれていた。
――現行監視網、暫定構成案。
――対象、三沢地下観測区画。
――対象、練馬地下核融合施設。
――対象、奥飛騨炭素固定複合施設。
――対象、海洋リン回収施設。
――精度、低。
――用途、異常兆候検出。
――高出力設備、起動不要。
――既存センサーのみ使用。
康生は表示を見て、少しだけ安心した。
「高出力設備、起動不要」
「はい」
アオイが答える。
「今回は起こしません」
「いい言葉だな」
「今回は、です」
「そこ強調しなくていい」
相馬が端末を操作する。
「方針を確認します。三沢の観測井や重力歪み検出系を本格再起動するのではなく、低電力で応答している部分だけを使う。練馬、奥飛騨、海洋リン回収施設とは直接制御接続しない。状態監視のみ」
「つまり、見るだけ」
康生が言う。
「はい。見るだけです」
アオイは康生の右手を見た。
「使う前に見るためです」
「分かってる」
「分かった、は実行保証ではありません」
「見るだけ。勝手に起動しない。右手を使わない。警告を聞く」
「良い回答です」
中央表示装置の端に、右手の監視タグの状態が小さく出ている。
――右構成部監視タグ、待機。
――受電経路形成前兆、なし。
――局所崩壊前兆、なし。
――中核特異点炉由来反応同期上昇、なし。
――緊急時自動開放傾向、平常範囲。
康生はそれを見て、少し嫌な顔をした。
「常に見られてる感じがする」
「見ています」
アオイが答える。
「言い切った」
「必要です」
「まあ、見えないまま扱うな、だしな」
康生は布の上から右手を見た。
使わない。
今は見るだけ。
三沢が残した言葉は、思ったより重く残っている。
相馬が指示を出した。
「三沢管理系。暫定監視網を低精度で構成。制御権限は接続しない。読取のみ。異常時の警告を優先」
表示が応じる。
――要求、受領。
――暫定監視網、構成開始。
――三沢地下観測区画、低電力読取。
――ニュートリノ観測井三番、低精度応答。
――重力歪み検出系、部分応答。
――深層同期時計、低精度補正。
――広域接続、断線多数。
――近傍監視対象、照合開始。
中央管制室の奥で、低い音がした。
大きな機械が動いた音ではない。
眠っているものが、寝返りを打った程度の音だった。
それでも、康生は肩に力を入れた。
アオイが即座に言う。
「右手反応、平常範囲」
「まだ何もしてない」
「緊張反応はあります」
「あるよ」
「許容範囲です」
「俺の緊張に許容範囲とかあるんだ」
「あります」
康生は少しだけ笑った。
笑っていないと、中央管制室の冷たさに呑まれそうだった。
表示が切り替わる。
――対象、練馬地下核融合施設。
――接続方式、間接監視。
――練馬側送電母線、制御接続なし。
――低出力運転、確認。
――出力、三パーセント。
――冷却循環、安定範囲。
――異常兆候、なし。
康生は息を吐いた。
「練馬、無事か」
「はい」
アオイが答える。
「三パーセント維持です」
「よかった」
画面の端に、東京地下の一点が青く灯っている。
小さい。
とても小さい光だ。
だが、その下には診療所があり、燈子がいて、配給所があり、子どもが「まだ電気ついてる」と聞いている。
康生はその青い点から、しばらく目を離せなかった。
麻生が静かに言う。
「灯りとは、小さく見えるものですな」
「そうですね」
「近くにおる者には、大きいのでしょうが」
康生は頷いた。
次の対象が表示される。
――対象、奥飛騨炭素固定複合施設。
――接続方式、間接監視。
――主制御接続、禁止。
――低負荷運転、推定継続。
――地下蓄熱層、変動小。
――炭素固定反応、低位。
――異常兆候、軽微。
――要、現地確認。
「奥飛騨も生きてる」
康生が言う。
「低負荷で継続していると推定されます」
アオイが答えた。
「推定か」
「直接接続していないため、精度は限定的です」
「でも、見えてる」
「はい。以前よりは見えています」
画面に山間部の点が青く灯る。
あそこで、康生は無茶をした。
構造体ピコマシン炉を投入し、奥飛騨の施設を動かした。
その後、右手は透け始めた。
今、青い点として見ると、あの時の判断が少し遠く見える。
遠いが、終わってはいない。
次の表示。
――対象、海洋リン回収施設。
――接続方式、間接監視。
――海上中継、断線多数。
――旧リン回収系、低負荷運転推定。
――栄養塩回収量、推定値不安定。
――海洋生態影響、評価不能。
――異常兆候、要警戒。
――要、現地確認。
「海は不安定か」
相馬が言う。
「はい」
アオイが答える。
「海洋施設は三沢から遠く、中継網の欠損も大きいです。低精度監視では警戒以上の判断は困難です」
「でも、完全に見えないよりはいい」
康生が言った。
アオイが頷く。
「はい」
中央表示に、三つの青い点が並ぶ。
練馬。
奥飛騨。
海洋リン回収施設。
そして三沢。
四つの点は、細い線で結ばれている。
線は弱く、欠けていて、いつ切れてもおかしくない。
それでも、繋がっていた。
七百年前に切れた監視網の、ほんの欠片。
だが、確かに今の世界を見始めている。
――暫定監視網、構成完了。
――精度、低。
――制御権限、未接続。
――監視対象、四。
――異常兆候検出、限定的に可能。
――警告閾値、仮設定。
――推奨、定期同期。
「できたのか」
康生が聞く。
「最低限は」
アオイが答える。
「最低限、という言葉がだんだん好きになってきた」
「良い傾向です」
「何でも最低限で済ませたい」
「それは悪い傾向です」
「厳しい」
相馬は表示を見つめたまま言った。
「これで、少なくとも三施設の異常兆候を完全に見失うことは避けられます」
「現地に行かなくても?」
「異常の有無だけです。原因や詳細は分かりません。ですが、警告は出せる」
康生は七百年前のログを思い出した。
警告は出した。
記録も残した。
だが、止められなかった。
「警告だけじゃ、足りなかったんだよな」
「はい」
相馬は否定しなかった。
「ですが、警告がなければ、何も始まりません」
「そうか」
「警告を聞く者がいれば、意味はあります」
康生は右手を見る。
警告を聞く。
アオイに言われたばかりだ。
「俺も聞かないとな」
「はい」
アオイの返事は早かった。
「早いな」
「重要です」
「はい」
中央表示装置の端で、監視タグが短く点滅した。
康生は少し驚く。
「何?」
アオイがすぐに確認する。
「右手ではありません。三沢側の初期同期処理による通知です」
「脅かすなよ」
「脅かしたのは表示です」
「表示に文句言っといて」
「了解」
アオイは真顔で端末に向き直った。
康生は少し笑った。
その時、中央表示装置が低い警告音を出した。
全員が画面を見る。
赤ではない。
黄色だった。
――暫定監視網、初期同期中。
――練馬、異常なし。
――奥飛騨、異常軽微。
――海洋リン、要警戒。
――三沢、低電力安定。
――追加検出。
――対象外領域に微弱な位相揺らぎ。
相馬が眉を寄せる。
「対象外領域?」
アオイが表示を拡大する。
日本列島の輪郭が縮小した。
海が広がる。
さらに外側。
空間表示が重なる。
三沢の観測系が拾ったのは、地上施設ではなかった。
もっと外側だった。
――位相揺らぎ、微弱。
――重力歪み、極小。
――ニュートリノ反応、判定不能。
――発生源、地表施設外。
――推定方向、地球近傍外縁。
――精度不足。
――再観測推奨。
康生は画面を見た。
「外縁って」
「地球周辺空間です」
アオイの声が少し硬くなった。
「地上じゃないのか」
「はい」
中央管制室の空気が変わった。
今まで見ていたのは、練馬や奥飛騨や海洋施設だった。
康生が触れた場所。
人間が残した施設。
旧文明の後始末。
だが、今表示されている揺らぎは、その外側にあった。
相馬が言う。
「誤検出の可能性は」
「あります」
アオイが答える。
「暫定監視網の精度は低い。三沢の深層観測系も完全ではありません」
「では、今は判断しない」
「はい」
だが、アオイの声はいつもより硬い。
康生はそれに気づいた。
「アオイ」
「はい」
「嫌なやつ?」
「不明です」
「不明って言い方の時、だいたい嫌なやつなんだよな」
「判断材料が不足しています」
「じゃあ、見るしかないか」
「はい」
中央表示に、黄色い点が一つだけ残る。
日本列島から離れた外側。
地表ではない場所。
見えるはずのない傷のように、微かに揺れている。
七百年前、三沢は地上の炉を見ていた。
重力歪みを見ていた。
報復連鎖を見ていた。
外から何かが入ってくる兆候も見ていた。
そして今、三沢の眠っていた眼は、地上ではないものを拾った。
康生は右手を握りそうになり、止めた。
アオイが見ている。
監視タグもある。
そして、何より自分で約束した。
使う前に見る。
「再観測できる?」
康生が聞く。
アオイは中央表示を見た。
「可能です。ただし、観測精度を少し上げる必要があります」
「高出力設備は?」
「起動しません」
「右手は?」
「使いません」
「なら、やろう」
アオイは頷いた。
「次の段階で、対象外領域の再観測を実施します」
相馬が静かに言う。
「地上の後始末だけでは、済まないかもしれませんね」
誰もすぐには答えなかった。
中央管制室は冷えたままだ。
地上では、まだ雪が降っているのだろう。
滑走路の足跡は、もう消えかけているかもしれない。
雪に埋もれた三沢の眼は、ようやく現在を見始めた。
そして、その目は空の外側に、微かな傷を見つけていた。




