第八十五話 右手診断
中央表示装置の赤い警報は、しばらく消えなかった。
七百年前の未処理警報。
重力歪み。
ニュートリノ過剰放出。
複数炉同期異常。
報復連鎖。
管理者応答なし。
そして、最後に残った言葉。
使う前に見ろ。
見えないものを、見えないまま扱うな。
康生は左手を接続口に置いたまま、布に覆われた右手を見た。
今まで、見ないまま使っていた。
奥飛騨で。
東京地下で。
大型の前で。
必要だった。
間に合わせるためだった。
そう言えば、言い訳にはなる。
だが、七百年前の声を聞いたあとでは、それだけで済ませていい気がしなかった。
「三沢管理系」
アオイが言った。
声が硬い。
「右構成部診断に関する安全手順を提示してください。ただし、主導権は当方が保持します。外部保守端末への深度接続、観測媒体化、出力補助利用は禁止します」
中央表示が切り替わる。
――要求、受領。
――右構成部診断、安全手順検索。
――既存手順、該当なし。
――類似手順、三件。
――一、外部出力器官損耗診断。
――二、中核特異点炉由来反応残留検査。
――三、受電経路過負荷履歴確認。
――推奨、統合診断。
――必要条件、接続深度上昇。
「拒否します」
アオイは即答した。
――拒否、受領。
――代替手順、低精度非侵襲診断。
――精度、低。
――推定誤差、大。
――右構成部への直接接続、不要。
――左接続口経由、施設センサー併用。
――推奨、段階実施。
「それでいい」
康生が言った。
アオイが康生を見る。
「精度は低いです」
「まず見るんだろ」
「はい」
「低精度でも、見ないよりはいい」
アオイは少しだけ黙った。
「良い判断です」
「今のは、ちゃんと褒めてる?」
「はい」
「ならいい」
相馬が中央端末の横へ立つ。
「防衛隊として条件を追加します。診断中の保持機構作動禁止。右構成部への直接接続禁止。高出力設備の起動禁止。異常時はアオイ殿の判断を最優先とする」
――条件、受領。
――診断権限、外部補助AIへ委任。
――三沢管理系、読取支援へ移行。
――右構成部低精度非侵襲診断、準備。
「外部補助AI」
康生が言う。
「アオイのことか」
「はい」
アオイが答える。
「名前で呼べばいいのに」
「施設側登録に名称が存在しません」
「登録してやれば?」
「不要です」
「そう?」
「康生に呼ばれていれば足ります」
康生は一瞬、返す言葉を失った。
中央管制室の空気は冷たい。
雪の下にある基地は、音もなく眠っている。
その中で、不意にそういうことを言われると、どう反応していいか分からない。
麻生が微笑んでいる。
「何ですか」
康生が言う。
「いえ」
「何か言いたそう」
「良きことかと」
「やめてください」
千田が端末を見て言った。
「診断準備が進んでいます」
「助かった」
康生は少し姿勢を正した。
中央端末の横から、小さな補助台がせり出してきた。
腕を置くための台だ。
練馬の固定台ほど大げさではない。
だが、古い金属の輪郭には、あまり安心できないものがあった。
アオイがすぐに確認する。
「保持機構」
――停止維持。
「出力誘導」
――停止維持。
「右構成部直接接続」
――未接続。
「診断方式」
――低精度非侵襲。
――施設センサー、重力歪み検出系、ニュートリノ残留検出系、近傍位相揺らぎ検出を併用。
――外部保守端末左接続口経由で比較読取。
「よし」
アオイは康生を見る。
「右手を補助台へ置いてください。力を入れないでください。握らないでください。反応を抑えようともしないでください」
「抑えようともしない?」
「はい。意図的に抑え込むと、逆に反応が揺れます」
「そんな繊細なのか」
「康生が雑に扱いすぎています」
「返す言葉がない」
康生は布を外し、右手を補助台に置いた。
金属が冷たい。
指先はまだ少し薄い。
雪の下の誘導灯のように、輪郭の奥で淡いものが揺れている気がした。
「痛みは?」
アオイが聞く。
「ない」
「違和感は?」
「ある」
「どのような」
康生は考えた。
「自分の手なんだけど、少し遠い」
アオイが目を細める。
「記録します」
「情緒的表現だけど」
「診断上、有用な可能性があります」
「そうなの?」
「はい」
中央表示が切り替わる。
――右構成部、低精度診断開始。
――基準反応、取得。
――外部保守端末左接続口、安定。
――右構成部、非接触読取。
――中核特異点炉由来反応、微弱。
――衛星受電経路残響、微弱。
――局所構成揺らぎ、検出。
康生は表示を見る。
「残響って何」
アオイが答える。
「過去の高出力受電、または出力経路形成の痕跡です。完全に消えていません」
「東京で使ったやつ?」
「奥飛騨および東京地下での使用履歴が混在している可能性があります」
「混ざってるのか」
「はい」
表示がさらに進む。
――右構成部、通常身体構成との差異多数。
――出力経路形成痕跡、複数。
――外部受電同期痕跡、複数。
――構成補修履歴、不均一。
――局所崩壊履歴、推定。
――現在、自然回復傾向。
――ただし、同一経路の再使用時、再崩壊リスク高。
康生は黙った。
再崩壊リスク高。
言葉は短い。
だが、十分に分かりやすかった。
「また同じように使うと、まずいってことか」
「はい」
アオイの声は冷たい。
「特に、右手を出力点として衛星受電を局所集中させる行為は危険です」
「大型の時のやつだな」
「はい」
「でも、あれしないと間に合わなかった」
「否定しません」
アオイはすぐに答えた。
その早さが、逆に康生を黙らせた。
「否定はしません。ですが、再実行を許可する理由にはなりません」
「はい」
「次に同条件で使用した場合、右構成部の欠損が一時的な透過で済まない可能性があります」
「欠損?」
「消失、または康生本体構成への波及」
「本体って」
「康生です」
「分かってるけど、言い方が怖い」
「怖がってください」
アオイは康生を見た。
「怖がることは、今回必要です」
康生は何も言えなくなった。
中央管制室の空気が、少し重くなる。
相馬も、麻生も、千田も黙っていた。
表示は淡々と進む。
――右構成部、異常反応分類。
――一、外部出力器官化。
――二、受電経路残留。
――三、中核特異点炉由来反応との局所同期。
――四、緊急時自動開放傾向。
――総合評価、危険。
「緊急時自動開放傾向?」
康生が聞く。
アオイが表示を拡大した。
――外部刺激、危機認識、保護対象喪失リスク。
――上記条件下で、右構成部の出力経路が意図より先行して形成される可能性。
――意識的制御より、反射的制御が優位。
――禁止設定のみでは不十分。
「つまり」
康生は嫌な予感がした。
「俺がやると決める前に、右手が開くかもしれない?」
「正確には、康生の危機反応と右構成部の出力経路形成が強く結びついています」
「同じじゃん」
「ほぼ同じです」
「最悪だ」
「はい」
アオイは否定しなかった。
「康生が誰かを助けようとした時、右手が先に動く可能性があります」
「それ、俺だけの問題じゃないな」
「はい」
「周りも巻き込む」
「はい」
「練馬の送電母線とか」
「はい」
「居住区とか」
「はい」
「アオイ、怒ってる?」
「怒っています」
即答だった。
康生は目を伏せた。
「だよな」
「ただし、怒りだけでは対策になりません」
アオイは中央表示を見る。
「対策を作ります」
その声に、康生は顔を上げた。
中央表示に、三沢管理系からの提案が出る。
――推奨対策。
――右構成部、常時監視。
――外部受電経路、事前制限。
――緊急時出力開放、閾値設定。
――中核特異点炉由来反応、同期抑制。
――必要、監視補助パッチ。
――適用には接続深度上昇が必要。
「駄目」
アオイが言った。
「早い」
「接続深度上昇を要求しているため却下します」
――代替案。
――低精度監視タグ生成。
――外部保守端末側で保持可能。
――右構成部直接改変なし。
――異常反応時、警告のみ。
――出力抑制効果、限定。
アオイが少し黙る。
「これは検討可能です」
「タグ?」
康生が聞く。
「右手を直接改造するのではなく、私と康生側で監視するための目印です」
「警告アラームみたいな?」
「はい。出力経路が開く前兆を検出し、私が警告します」
「止められる?」
「この案では、止める効果は限定的です」
「警告だけ?」
「はい」
「それでも、ないよりはいいか」
アオイは康生を見る。
「警告を聞く必要があります」
「そこか」
「はい。康生が無視した場合、意味がありません」
「信頼がない」
「実績によります」
「返す言葉がない」
相馬が口を開く。
「警告だけでも、防衛隊側の判断材料になります。石田殿の状態が危険域に入る前に、周囲が止めることもできる」
「止められるかな」
康生が言う。
麻生が穏やかに答えた。
「止めます」
康生は麻生を見る。
「麻生さんが?」
「はい」
「どうやって」
「言葉で」
「聞かなかったら?」
「その時は、アオイ殿に叱っていただきます」
「物理じゃないんだ」
「石田殿を物理で止めるのは難しそうですからな」
千田が言った。
「靴を隠す方法もあります」
「急に現実的」
「移動を遅らせる効果があります」
「確かに」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、中央表示の内容は重いままだ。
――低精度監視タグ、生成可能。
――適用対象、外部保守端末側。
――右構成部、非改変。
――康生構成への侵襲、なし。
――警告項目、四件。
――一、受電経路形成前兆。
――二、右構成部局所崩壊前兆。
――三、中核特異点炉由来反応同期上昇。
――四、緊急時自動開放傾向。
アオイが確認する。
「康生」
「はい」
「この監視タグは、康生の行動を制限するものではありません」
「うん」
「警告します」
「うん」
「警告を聞くことが条件です」
「分かった」
アオイは黙る。
康生は言い直した。
「警告を聞く。止まれと言われたら止まる。右手を使う前に、まず確認する」
「良い回答です」
「実行保証?」
「現時点では、言語による保証です」
「信頼低いな」
「積み上げてください」
「はい」
アオイが三沢管理系へ指示を出す。
「低精度監視タグを生成。適用先は私の監視領域と康生の左接続経路。右構成部への直接改変は禁止。出力経路の操作は禁止。警告機能のみ」
――条件、受領。
――低精度監視タグ、生成。
――右構成部、非改変確認。
――外部受電経路、非操作確認。
――警告機能、構成中。
――適用。
康生の左手に、冷たい感覚が走った。
右手ではない。
左手から、細い糸のようなものが頭の奥へ届く。
痛みはない。
ただ、右手の輪郭を遠くからなぞられているような感じがした。
「気持ち悪い」
「異常痛覚は?」
「ない」
「違和感は?」
「ある」
「強度は?」
「そこそこ」
「我慢できますか」
「できる」
「無理は?」
「してない」
「良い回答です」
中央表示が切り替わる。
――低精度監視タグ、適用完了。
――警告機能、待機。
――初期基準値、取得。
――右構成部、自然回復傾向継続。
――高出力運用、非推奨。
――右構成部出力使用、禁止推奨。
――推奨、観測網復旧後に再診断。
「結局、禁止推奨か」
康生が言う。
「はい」
アオイが答える。
「禁止です」
「推奨じゃなくて?」
「禁止です」
「ですよね」
相馬が表示を見ながら言った。
「ただ、分かったことは大きいです」
「大きいですか」
「はい。危険の種類が見えました」
康生は右手を見る。
布の上からでも、そこにあることは分かる。
「危険の種類」
「分からない危険より、分かる危険の方が対策できます」
相馬は続けた。
「七百年前の三沢が言っていた通りです。見えないまま扱うな、と」
康生は黙って頷いた。
見えないものを、見えないまま扱うな。
右手は、まだよく分からない。
だが、少しだけ見えた。
外部出力器官化。
受電経路残留。
中核特異点炉由来反応との局所同期。
緊急時自動開放傾向。
分かったところで、気分はまったく良くない。
だが、分からないままよりはいい。
アオイが静かに言う。
「次は、三沢の観測網を最低限復旧します」
康生は顔を上げた。
「右手じゃなくて?」
「はい。康生の右手だけを見ても不十分です」
アオイは中央表示を示した。
「海洋リン回収施設、奥飛騨炭素固定複合施設、練馬地下核融合施設。これらを低精度でも監視できるようにします。康生個人の警告だけではなく、施設側の異常も見る必要があります」
「広げるんだな」
「はい」
相馬が頷く。
「七百年前の監視網を、そのまま復旧するのは無理です。ですが、近傍の三施設と三沢周辺だけでも見られれば、次の判断ができます」
「修理は長くならない?」
康生が聞く。
相馬は少しだけ笑った。
「今回は、最低限です」
「助かります」
「大規模復旧ではありません。現存センサーを低精度で繋ぐだけです」
アオイが補足する。
「無理に起こしません。使える目だけを開きます」
康生は中央表示を見た。
赤い警報はまだ残っている。
七百年前の未処理警報は、完全には消えない。
だが、その隣に、新しい表示が出ていた。
――現行監視網、暫定構成案。
――対象、三沢地下観測区画。
――対象、練馬地下核融合施設。
――対象、奥飛騨炭素固定複合施設。
――対象、海洋リン回収施設。
――精度、低。
――用途、異常兆候検出。
――推奨、段階起動。
康生は小さく息を吐いた。
「まず、見る」
アオイが頷く。
「はい。まず、見ます」
康生は右手を握らなかった。
布の上に、左手をそっと重ねるだけにした。
使う前に見る。
それは、七百年前の誰かが残した言葉であり、今の康生に必要な約束だった。
三沢の眠っていた眼は、今度は過去ではなく、現在を見ようとしていた。




