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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第七章 地下の英雄

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断章 美しき翼

診療所の灯りは、まだ弱かった。

それでも、消えてはいない。

奥の簡易ベッドでは、石田康生が眠っている。

右手は布で覆われ、その横にアオイの監視端末が置かれていた。

崩壊進行なし。

回復傾向、微弱。

高出力運用、禁止継続。

アオイは表示を確認し、静かに診療所を出た。

廊下には、練馬から戻った細い電気が流れている。

三パーセントの光。

弱く、黄ばんで、少し揺れる灯り。

その先、配給所裏の狭い空間から、低い声が聞こえた。


「見たんだって」

「白かったって」

「翼みたいだったって」

「天輪様が、大型の前に立ったって」


アオイは足を止めた。

配給箱の陰に、数人の住民が集まっている。

外縁班の若い男。

市場で汁を配っていた女。

診療所を手伝う老人。

整備員。

それから、車椅子に座らされた篠宮燈子。

その隣には、麻生が立っていた。

会議ではない。

誰かが呼び集めたわけでもない。

ただ、口に出さずにはいられなかった話が、灯りの届きにくい場所へ自然に集まっていた。


「燈子さん」


若い男が声を潜めて聞く。


「本当に、翼があったんですか」


燈子は膝の上の手を見る。

しばらく答えなかった。


「翼では、ありません」

「でも」

「私にも、そう見えました」


その一言で、狭い空間が静かになる。

燈子は続けた。


「白くて、粉塵の中で、背中に光が広がっていて。大型の前に立っていて」


言葉が、少しだけ途切れる。


「天使のように見えました」


市場の女が小さく息を呑んだ。


「やっぱり」

「でも、石田さんは否定します」


燈子は言う。


「きっと、あれは技術だと言います。自分は神でも天使でもないと」

「言うでしょうな」


麻生が静かに頷いた。


「石田殿は、そういう方です」


老人が目を細める。


「謙遜、ということですか」

「本人にとっては、謙遜ではありますまい」


麻生は穏やかに答えた。


「あの方は、本気で嫌がっておられる。己が特別なものとして扱われることを」

「でも」


整備員が言った。


「普通の人は、あんなふうには現れません」


誰も否定しなかった。

練馬が戻った。

砲塔が動いた。

しらぬいが撃った。

燈子が時間を稼いだ。

それでも、最後に大型の前に立った白い背中を見た者は、もうそれをただの人間として片づけられなかった。

若い男が低く言う。


「あれを人だと言われても、俺には無理です」


燈子は顔を上げる。

責めるような顔ではなかった。

むしろ、少し痛そうだった。


「私も」


燈子は言った。


「一瞬、そう思いました」

「燈子さんも?」

「はい」


燈子は小さく頷く。


「自分の前に、何かが降りたのだと思いました」


その言葉に、住民たちは黙った。

外縁の英雄と呼ばれていた燈子が、そう言った。

それだけで、白い背中の話は噂から少し別のものへ変わっていく。

麻生が口を開いた。


「ならば、胸の内に置けばよろしい」


皆が麻生を見る。


「石田殿の前では、石田殿と呼ぶ。人として礼を尽くす。本人が嫌がる名を、無理に背負わせてはなりませぬ」

「けれど、心の中では?」


市場の女が聞いた。

麻生は少しだけ目を伏せた。


「見たものを、見なかったことにはできませぬ」


その声は、静かだった。


「救われた者の胸に残る光まで、誰にも消せはしません」


若い男が、ゆっくり息を吐いた。


「じゃあ、言わないだけで」

「はい」


麻生は答えた。


「声高に呼ばずともよい。御本人に押しつけずともよい。ただ、忘れなければよい」


燈子は麻生を見た。


「麻生さん」


麻生は穏やかな顔のままだった。


「燈子殿。あの方を人として扱うことと、あの光を胸に刻むことは、必ずしも矛盾しませぬ」

「…そうでしょうか」

「そうです」


麻生ははっきりと言った。


「石田殿は、人です。痛み、迷い、嫌がり、それでも前に出る人です」


そこで一度、言葉を切る。


「だからこそ、尊い」


住民たちは黙っていた。

燈子も、黙っていた。

麻生の声だけが、弱い灯りの下に落ちる。


「神だから尊いのではありません。天使だから尊いのでもありません。人でありながら、あの場所へ立った。ならば、その姿を美しいと感じる心を、恥じる必要はありますまい」


老人が小さく頷いた。


「美しき翼」


誰かが呟いた。

その言葉が、配給箱の陰に落ちた。

燈子は目を閉じる。

粉塵の中の白い背中。

黒い大型の前に立つ、光をまとった人影。

あれは翼ではない。

分かっている。

それでも、美しい翼に見えた。


「名前にするのは」


燈子が言う。


「危ういと思います」


麻生が頷く。


「はい。口に出せば、いずれ縛りになります」

「では」

「胸の内に」


麻生は言った。


「本人の前では、石田殿。ですが、心の中で何を見るかは、それぞれの自由です」


若い男が小さく笑った。


「内緒の天輪様、ですか」

「声が大きいです」


市場の女が肘でつつく。

若い男は慌てて口を閉じた。

燈子は困ったように眉を下げた。

だが、強く否定はしなかった。


「石田さんが聞いたら、嫌な顔をします」

「でしょうな」


麻生は少しだけ笑った。


「だから、聞こえぬところで」


その言葉に、住民たちは静かに頷いた。

それは、布教というにはあまりに小さかった。

祭壇もない。

祈りの言葉もない。

誰も手を合わせない。

ただ、救われた者たちが、自分たちの見たものを胸の奥にしまう相談をしているだけだった。

けれど、その瞬間、確かに何かが形を持った。

本人のいない場所で。

本人が否定する名で。

本人を人として扱うと決めたまま。

それでも、白い背中は伝説になり始めていた。

アオイは配給箱の陰で、その会話を聞いていた。

訂正することはできた。

翼は存在しない。

発光は衛星受電経路の副次現象。

背部に見えた光は微細構造体の散乱と粉塵による視覚効果。

康生は神でも天使でもない。

そう説明することはできた。

だが、しなかった。

燈子は康生を人の側に置こうとしている。

住民たちは、見た光を心の中に残そうとしている。

麻生は、その二つを矛盾しないものとして結び始めている。

危険な傾向。

そう分類することはできる。

だが、それだけでは足りない。

アオイは静かに一歩下がった。

診療所へ戻る廊下には、弱い灯りが続いている。


「記録しました」


アオイの瞳の奥で、淡い光が一度だけ瞬いた。


「康生への報告は不要と判断します」


廊下に小さく足音が響いていた。


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