第八十話 次の行き先
診療所の照明は、まだ弱いままだった。
それでも、消えなかった。
一度ちらつくたびに、誰かが天井を見上げる。
それから戻るたびに、小さく息を吐く。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、東京地下の人々は、少しずつその弱い灯りに慣れ始めていた。
弱くても点いている。
細くても繋がっている。
それだけで、人の動きは変わる。
診療所の外では、配給箱が運ばれている。
市場区画では、消費電力を抑えながら照明の位置を変えている。
外縁から戻った防衛隊員は、手当てを受けてから、交代で休息へ回されていた。
休息。
その言葉が、東京地下でちゃんと機能しているのを見て、康生は少し不思議な気分になった。
「康生、右手の輪郭回復を確認」
アオイが言う。
「完全に?」
「完全ではありません」
「ですよね」
康生は自分の右手を見た。
指先はまだ少し薄い。
だが、七十八話の戦闘直後よりはましだった。
皮膚の下に残っていた白い光の揺れも、だいぶ弱くなっている。
「しばらく高出力運用は禁止です」
「はい」
「右手使用も禁止です」
「はい」
「単独行動も禁止です」
「はい」
「分かった、は実行保証ではありません」
「しません」
アオイは少しだけ間を置いた。
「良い回答です」
「信用低いな」
「実績によります」
「返す言葉がない」
布の仕切りの向こうで、燈子が小さく笑った。
その声は弱い。
だが、意識ははっきりしている。
医療班からは、少なくとも命に別状はないと聞いていた。
ただし、しばらく戦闘は無理。
歩くのも制限付き。
右肩と左足は、もう一度きちんと休ませなければならない。
燈子本人がそれを受け入れるかどうかが、最大の問題だった。
康生は仕切りの方を見る。
「篠宮さん」
「はい」
「戦闘禁止ですって」
「聞いています」
「聞くだけじゃなくて」
「守ります」
即答だった。
康生は思わずアオイを見た。
アオイも仕切りの方を見ている。
「発言記録」
「覚えてください」
燈子が言う。
アオイは短く答えた。
「覚えます」
康生は少し笑った。
「ほんとに流行ってきたな、それ」
相馬が診療所へ入ってきた。
顔には疲れが残っている。
だが、外縁で見た時よりも、少しだけ肩の力が抜けていた。
「練馬の運転状況がまとまりました」
「落ちてない?」
康生が聞く。
「落ちていません。三パーセント維持。冷却循環も維持。送電母線も安定範囲です」
「よかった」
本当に、それだけだった。
三パーセント。
数字としては小さい。
けれど、外縁の砲塔を動かし、診療所の照明を点け、薬品保管庫を保ち、浄水系を補助運転させている。
森川の声が壁面端末から入った。
「練馬側です。出力上昇は行いません。少なくとも本日は三パーセント維持。明日以降、冷却系と送電母線の安定を確認してから、五パーセントを検討します」
「焦らない」
康生が言う。
森川がすぐに答えた。
「はい。焦りません」
アオイも言う。
「良い判断です」
森川は少しだけ笑ったようだった。
「ありがとうございます」
壁面端末に、練馬施設の状態が表示される。
――主反応炉、低出力運転中。
――出力、三パーセント。
――冷却循環、維持。
――外縁防衛線、低出力供給継続。
――診療所区画、弱電源維持。
――浄水系、補助ポンプ運転。
――航空整備区画、再評価準備中。
康生は最後の行を見る。
「航空整備区画」
相馬が頷いた。
「はい。練馬の電力が戻ったことで、休止していた整備区画の一部を再評価できます」
「それが動くと」
「遠方施設への技術班派遣が現実的になります」
海洋リン回収施設。
奥飛騨炭素固定複合施設。
そして、三沢基地跡。
康生はその三つを思い浮かべた。
海では、仮に動かしたリン回収施設がある。
奥飛騨では、炭素固定複合施設が低負荷で回っている。
どちらも、康生とアオイが応急的に触った。
だが、本当はそれでは駄目だ。
人間側が見て、記録し、管理者を立て直し、正式な運転目標へ戻す必要がある。
アオイが言う。
「練馬再稼働により、防衛隊技術班の派遣余力が一部回復します。海洋リン回収施設および奥飛騨炭素固定複合施設は、正式な管理者再評価へ移行可能です」
「仮じゃなくなるんだな」
「はい」
「それは、かなり大事だ」
「はい」
相馬が通信機を操作する。
「しらぬいと繋ぎます」
少しノイズが入り、それから硬い声が診療所に響いた。
「こちら、しらぬい。練馬地下核融合施設、低出力安定を確認しました」
「さっきはどうも」
康生が言う。
「大型害獣への支援射撃は成功。地下構造への二次被害は想定範囲内です」
「想定範囲って怖いんだよな」
「ですが、成功です」
「それは助かりました」
シラヌイは淡々と続ける。
「今後の計画を更新します。東京地下技術班は練馬施設の維持監視および航空整備区画の再評価を実施。防衛隊技術班は、練馬の安定確認後、海洋リン回収施設と奥飛騨炭素固定複合施設へ分岐派遣予定」
「三沢は?」
相馬が聞く。
一拍置いて、シラヌイが答えた。
「炉監視技術探索計画を再開します。目的地、三沢基地跡」
康生は無意識に右手を見た。
中核特異点炉。
右手の異常。
ニュートリノ観測。
炉を安全に監視する技術。
本来の目的は、そこだった。
「やっと戻るのか」
「はい」
アオイが答える。
「練馬対応により遅延しましたが、三沢基地跡探索の必要性は変わっていません」
「むしろ増えた?」
「はい」
アオイは康生の右手を見る。
「康生の高出力運用リスクは、今回の戦闘で再確認されました。炉監視技術、出力抑制技術、構成安定化に関する情報が必要です」
「つまり、俺の右手をこれ以上変にしないためにも、三沢か」
「はい」
「行きたくない理由がなくなっていくな」
「必要です」
シラヌイも同時に言った。
「必要です」
康生は顔をしかめた。
「二人で言うな」
仕切りの向こうで、燈子が小さく笑った。
その笑いに、少しだけ安心する。
相馬が続ける。
「出発はすぐではありません。石田殿の右手の経過観察、練馬の最低安定確認、外縁防衛線の夜間配置再編。少なくとも一晩は東京地下に留まります」
「一晩で足ります?」
「足りません」
相馬は正直に言った。
「ですが、長く留まるほど三沢探索も遅れます。東京側は、こちらで引き継ぎます」
布の向こうで、燈子が静かに言った。
「引き継ぎます」
康生はそちらを見る。
「篠宮さんは休む側ですよ」
「はい」
燈子は答えた。
「休みながら、引き継ぎます」
「それなら」
アオイが言う。
「休息を優先してください」
「はい」
また即答。
診療所の空気が少しだけ和らいだ。
医療班の女性が仕切りの向こうで言う。
「今の『はい』も聞きましたからね」
「…はい」
燈子の返事が、少し小さくなる。
康生は笑った。
「完全に包囲されてる」
「ありがたいことです」
燈子はそう言った。
その声には、諦めではなく、少しだけ安堵が混じっていた。
診療所の外から、子どもの声が聞こえた。
「まだ明るい?」
「静かに」
「でも、消えてないよ」
「消えてないね」
短いやり取り。
ただそれだけで、康生は窓代わりの透明板越しに廊下を見る。
弱い灯りの下で、子どもが一人、天井を見上げていた。
その横で、大人が工具箱を抱えている。
少し離れた場所では、整備員が配線を直し、医療員が薬品箱を運んでいる。
軽度の適応者もいる。
普通の人もいる。
防衛隊もいる。
技術班もいる。
医療班もいる。
燈子一人ではない。
康生一人でもない。
東京地下は、壊れかけた壁の内側で、残っているものを全部使って生きている。
「篠宮さん」
康生は仕切り越しに声をかけた。
「はい」
「東京地下、大丈夫ですね」
少し間があった。
「大丈夫です」
燈子は答えた。
「たぶん、ではなく?」
「大丈夫です」
今度は少し強く言った。
「私一人ではありませんから」
康生は頷いた。
「はい」
その返事だけで十分だった。
シラヌイの通信が続く。
「三沢基地跡へは、地上移動と航空支援を併用します。詳細経路は練馬航空整備区画の再評価後に確定。防衛隊は出発準備に入ってください」
相馬が答える。
「了解」
アオイが康生を見る。
「康生は休息に入ります」
「いや、準備」
「休息です」
「でも」
「休息です」
「はい」
アオイの圧が強かった。
相馬まで頷く。
「石田殿は休息してください。出発前に倒れられると困ります」
「現場判断ですか」
「はい」
「それ言われると弱い」
麻生が静かに言う。
「休むことも役目ですな」
「麻生さんが言うと、また重い」
「重く申し上げました」
千田が入口で頷いた。
「靴下を乾かす時間も必要です」
康生は思わず千田を見る。
「今、靴下関係あります?」
「あります」
「あるんだ」
「濡れたままでは、次の移動に支障が出ます」
真面目な顔だった。
康生は笑ってしまった。
診療所の中に、小さな笑いが広がる。
大きな勝利の笑いではない。
疲れ切った人間たちが、どうにか息を吐くための笑い。
それでも、笑いだった。
壁面端末に、また練馬の表示が流れる。
――外縁防衛線、夜間配置再編中。
――手動防衛班、一部休息へ移行。
――診療所、弱電源維持。
――中間居住区、照明一部維持。
――学校区画、消灯準備。
――三沢基地跡探索計画、再開準備。
最後の行が、白く残る。
三沢基地跡探索計画、再開準備。
康生はそれを見た。
東京に来る前に目指していた場所。
だが、今は少し意味が違って見える。
ただ技術を探しに行くのではない。
自分の右手を守るため。
アオイがこれ以上怒らずに済むため。
海や奥飛騨を正式な管理へ戻すため。
東京地下が、また誰か一人に背負わせない場所でいられるため。
三沢へ行く。
その必要が、ようやく腹に落ちた気がした。
布の向こうで、燈子が言う。
「石田さん」
「はい」
「次へ、行くんですね」
「たぶん」
「たぶん、ではなく」
康生は少し笑った。
「行きます」
「はい」
燈子の声は弱い。
けれど、穏やかだった。
「お気をつけて」
「篠宮さんも。ちゃんと休んでください」
「はい」
「実行保証あります?」
少し間があった。
「あります」
康生はアオイを見る。
「今の、記録で」
アオイは短く答えた。
「覚えます」
燈子がまた小さく笑った。
診療所の灯りは、まだ弱い。
だが、消えてはいない。
練馬地下核融合施設は三パーセントのまま動き、東京地下の夜を細く支えている。
外縁には砲塔が戻り、診療所には薬品保管庫の冷気が戻り、居住区には弱い送風が戻った。
完全ではない。
安全でもない。
明日も問題は起きる。
それでも、東京地下は今日の夜を越えられる。
康生はそう思った。
そして、自分たちは次へ行く。
海でも、奥飛騨でもなく。
今度こそ、三沢へ。
炉を見張る技術を探しに。
自分たちの力を、少しでも人間の管理に戻すために。
東京地下の細い灯りを背に、康生は右手をそっと握った。
まだ薄い。
まだ危うい。
けれど、そこにある。
アオイがその手を見て言った。
「康生」
「はい」
「今は握らないでください」
「それも駄目?」
「駄目です」
「厳しいな」
「必要です」
康生は右手の力を抜いた。
診療所の外で、弱い灯りが揺れている。
それは天輪でも、奇跡でもない。
壊れた施設を直し、古い炉を起こし、人間たちが必死に繋ぎ直した、ただの電気だった。
けれど、その灯りがあるから、人は次の朝を待てる。
康生は、その灯りを見ながら目を閉じた。
次の行き先は、決まっていた。




