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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第七章 地下の英雄

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第七十九話 細い灯り

診療所の灯りは、弱かった。

天井の照明は一本おきにしか点いていない。

それでも、さっきまでの非常灯だけの赤い光とは違う。

白い。

少し黄ばんでいる。

ちらついている。

けれど、診療所の中を見るには十分だった。

康生は簡易ベッドに座らされていた。

右手はアオイに掴まれている。

逃げようとしているわけではない。

ただ、掴まれている。

指先はまだ少し透けていた。

完全に消えそうなほどではない。

だが、普通ではない。

皮膚の下に、白い光の残りかすのようなものが揺れている。

康生はそれを見て、顔をしかめた。


「戻る?」

「回復傾向はあります」


アオイが答える。


「即答しないのが怖い」

「即時回復とは断言できません」

「もっと怖い」

「しばらく高出力運用は禁止です」

「分かってる」

「右手使用も禁止です」

「分かってる」

「単独行動も禁止です」

「増えたな」

「必要です」

「出た」


アオイの声は硬かった。

怒っている。

本当に怒っている。

康生は少しだけ肩をすくめた。


「ごめん」

「謝罪は受領済みです」

「二回目も受け取ってくれ」

「受領します。ただし、再発防止策が必要です」

「現場の是正処置みたいになってきた」

「現場です」


言い返せなかった。

診療所の奥では、燈子が処置を受けていた。

白い布で仕切られている。

その向こうから、医療班の声が聞こえる。


「右肩、止血継続」

「脇腹、深部損傷なし」

「左足、再固定」

「意識低下。反応あり」

「輸液、少し上げて」


康生は思わず立ち上がりかけた。

アオイが右手を掴んだまま言う。


「座ってください」

「いや、篠宮さんが」

「医療班が処置中です。康生が近づくと邪魔です」

「邪魔」

「はい」

「言い方」

「正確です」


康生は座り直した。

正確なら仕方ない。

相馬が診療所の入口から入ってくる。

外縁の粉塵が服に残っていた。

顔にも疲労が見える。

だが、声は落ち着いていた。


「大型の沈黙を確認しました。六番枝路は封鎖。残骸処理は後回しです」

「後回しでいいんですか」


康生が聞く。


「今は生存者と設備確認が優先です」

「ですよね」

「篠宮さんは」


康生が言いかけると、相馬は頷いた。


「命に別状はありません。しばらく動けませんが」


康生は息を吐いた。

必要のない呼吸だった。

でも、吐かずにはいられなかった。


「よかった」

「はい」


相馬も短く答えた。

その声にも、安堵が混じっていた。

布の向こうで、燈子が小さく動いた気配がした。


「意識、少し戻ります」


医療班の声。

康生はまた立ち上がりかけた。

アオイが見る。

康生は座った。


「学習した」

「良い判断です」


布の向こうから、かすかな声が聞こえた。


「…外縁は」


目を覚まして最初にそれか。

康生は思わず顔を歪めた。

医療班の女性が答える。


「六番枝路は封鎖済みです。大型は沈黙。手動班に死者なし」


少し間があった。


「…よかった」


燈子の声は弱かった。

本当に弱い。

戦っている時の声とは違う。

それでも、ちゃんと届いた。

医療班が続ける。


「篠宮さん、しばらく動かないでください」

「はい」


即答だった。

診療所の中が一瞬だけ静かになる。

康生は驚いて布の方を見た。

アオイが言う。


「発言記録」


相馬も小さく言う。


「聞きました」


医療班の女性も言う。


「聞きました」


布の向こうで、燈子が小さく息を吐いた。


「…皆さん、厳しいですね」


康生は少し笑った。


「篠宮さん相手には、厳しいくらいでちょうどいいです」

「石田さんもです」


燈子の返しが、弱いながらも飛んできた。

康生は黙った。

アオイが即座に頷く。


「同意します」

「そこ同意しなくていい」

「重要事項です」

「はい」


相馬が診療所の壁面端末を確認する。

練馬からの電力供給が、細く表示されている。


――練馬地下核融合施設、低出力運転中。

――出力、三パーセント。

――診療所区画、弱電源維持。

――薬品保管庫、温度安定化中。

――酸素濃縮器、補助運転。

――照明、一部復帰。


診療所の技師が、冷蔵保管庫の前で大きく息を吐いた。


「助かった。これ、止まったままだったら薬が駄目になるところだった」


別の医療員が、小さな端末を起動する。


「こっちも動く。古いけど、使える」

「練馬、本当に戻ったんだな」


誰かが呟いた。

康生はその声を聞いた。

練馬は三パーセントだ。

三パーセントでしかない。

それでも、ここでは命を繋いでいる。

燈子の処置も。

薬品保管庫も。

酸素濃縮器も。

この弱い照明も。

全部、あの細い電気の先にある。


「三パーセントで、これか」


康生が呟く。

相馬が頷いた。


「三パーセントでも、です」

「それ、便利な言葉になりそうですね」

「もうなっています」


診療所の外から、ざわめきが聞こえた。

大型を倒した知らせが、中間居住区へ届き始めたらしい。


「外縁、止まったって」

「六番枝路、大丈夫らしい」

「燈子さんは?」

「診療所に運ばれた」

「生きてるって」

「練馬も落ちてない」

「電気、まだ来てる」


その声の中に、別の響きが混じる。


「白い人が出たって」

「天輪様が大型を」

「見た人がいる」

「光ってたって」


康生は顔をしかめた。


「始まった」


アオイが言う。


「神格化傾向の進行を確認」

「確認しなくていい」

「必要です」

「必要じゃない」

「対策が必要です」

「今は寝たい」

「寝る前に右手の経過観察が必要です」

「逃げ場がない」


相馬が少しだけ苦笑する。


「すぐに訂正して回る余裕はありません」

「ですよね」

「ですが、公式記録では、今回の大型対応は練馬低出力供給、外縁砲塔、防衛隊退避誘導、篠宮さんの誘導、しらぬい支援射撃、石田殿の局所補助による共同対応とします」

康生は相馬を見た。

「公式記録、大事ですね」

「はい」


相馬は真面目に答えた。


「記録は大事です」


入口付近にいた千田が、静かに頷いた。


「大事です」

「千田さんが言うと説得力あるな」

「あります」


千田はいつも通りだった。

それが少しありがたい。

康生は診療所の入口から外を見る。

廊下には人が集まり始めていた。

だが、診療所の中へは入ってこない。

心配そうに覗く人。

手を合わせかけて、途中で止める人。

何か言いたそうで黙る人。

その中で、一人の若い整備員が、重い予備電源ユニットを抱えて歩いていた。

一人で持つには重そうな箱だった。

だが、その人は少しよろけただけで、自然に体勢を戻した。

康生はそれを見た。


「あれ」


アオイも見ていた。


「軽度の身体反応補助を検出」

「やっぱり?」

「はい。微弱なピコマシン適応反応と推定」


整備員は自分が見られていることに気づき、少し困ったように笑った。


「これ、どこ置きます?」


医療員が指示する。


「奥の保管棚。落とさないで」

「落としません」


普通のやり取りだった。

特別な英雄ではない。

伝説でもない。

ただ、少し重い物を運ぶ整備員。

その少しが、今の診療所を助けている。

廊下の向こうでは、別の作業員が薄暗い配管の奥を覗き込んでいた。


「そこ、詰まりかけてる。断熱材が噛んでる」

「見えるのか?」

「なんとなく」


アオイが言う。


「視覚補助反応、微弱」


康生は黙って見た。

さらにその奥で、子どもが走りかけた。

すぐ近くの女性が、振り返るより早く手を伸ばして止める。


「走らない。診療所の前」

「ごめんなさい」

「燈子さん寝てるから静かに」

「うん」

「反応速度補助、微弱」


アオイが続ける。

康生は小さく息を吐いた。


「いるんだな」

「はい」

「篠宮さんだけじゃない」


布の向こうで、燈子が少し動いた気配がした。

聞こえていたらしい。


「…そうです」


弱い声。


「私だけでは、ありません」


康生は布の方を見る。


「ですよね」

「でも」


燈子は少し息を整えた。


「時々、忘れます」

「自分が出なきゃって?」

「はい」


その返事は、小さかった。

康生は診療所の外を見る。

練馬の細い電気で点いた灯り。

軽度の適応者。

防衛隊。

医療班。

整備員。

市場から運ばれる配給箱。

子どもを止める大人。

それぞれが少しずつ動いている。

誰か一人が全部を背負っているわけではない。

背負ってはいけない。


「壁って、一枚じゃないんですね」


康生は言った。

相馬がこちらを見る。

アオイも見る。

布の向こうの燈子も、たぶん聞いている。


「外縁の隔壁も、砲塔も、防衛隊も、整備員も、診療所も、子どもを止める人も、篠宮さんも。全部で壁なんだと思います」


言ってから、恥ずかしくなった。


「すみません。なんか、変なこと言いました」


麻生が入口の近くで静かに言う。


「いいえ。良い言葉です」

「麻生さんが言うと重いんですって」

「重く申し上げました」


布の向こうで、燈子が小さく笑った。

痛そうな笑いだった。

でも、笑いだった。


「全部で、壁」


燈子は小さく繰り返した。


「そうですね」


診療所の照明が、一度ちらついた。

全員が天井を見る。

すぐに戻った。

医療員が壁面端末を確認する。


「電圧、安定範囲。大丈夫です」

「びっくりするな」


康生が言う。

アオイが答える。


「練馬は三パーセントです。揺らぎは想定範囲」

「想定範囲って怖いんだよな」

「はい」

「認めた」


布の向こうで、燈子がまた小さく笑った。

診療所の外では、誰かが配給箱を運んでいる。

誰かが故障した照明を確認している。

誰かが小さな子どもを抱き上げている。

東京地下は、動き続けていた。

大型は止まった。

燈子は倒れた。

康生の右手は少し透けた。

練馬は三パーセントのまま。

何も完全ではない。

それでも、人々は止まっていない。

康生は右手を見る。

指先はまだ薄い。

けれど、少しずつ輪郭が戻ってきているようにも見えた。


「アオイ」

「はい」

「これ、戻るよな」

「戻します」


また、予測ではなかった。

康生は少し笑った。


「頼もしいな」

「覚えます」

「そこは記録でいい」

「覚えます」

「頑固だな」

「康生ほどではありません」

「言うようになったな」


アオイは答えなかった。

ただ、右手を離さなかった。

布の向こうで、燈子が静かに言う。


「石田さん」

「はい」

「助けてくれて、ありがとうございました」


康生は少し黙った。


「俺だけじゃないです」

「はい」


燈子は答えた。


「分かっています」


その返事に、康生は少し救われた。


「でも、ありがとうございました」

「…はい」


今度は、それだけ返した。

診療所の外から、弱い灯りが差し込んでいる。

それは天輪でも、奇跡でもない。

練馬地下核融合施設、出力三パーセント。

壊れかけた送電母線。

暫定復旧の照明。

ただの細い電気だった。

けれど、その細い灯りの下で、東京地下の人々は動いている。

英雄一人ではなく。

白い光一つでもなく。

残っているもの全部で、壊れた壁を支えている。

康生はその光を見ながら、ようやく思った。

ここは、まだ生きている。

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