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規約違反者と監視AI 〜目覚めた未来で、人間扱いされたくて〜  作者: 八汐
第七章 地下の英雄

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第七十八話 射線

燈子の意識が沈んでいく。

白い背中が見えた。

黒い大型の前に立つ、光をまとった人影。

天使。

そう思ってしまった。

違う。

分かっている。

あれは石田康生だ。

自分と同じように困り、嫌がり、痛がりながら、それでも前に出てしまう人だ。

それでも、粉塵の中で白く光るその背中は、あまりにも現実離れしていた。

燈子は手を伸ばそうとした。

動かなかった。

声を出そうとした。

出なかった。


「篠宮さん!」


遠くで康生の声が聞こえる。


「下がって!」


返事はできない。

ただ、白い背中だけが見えていた。

自分が塞ぐ側だと思っていた。

外縁の穴を。

壊れた隔壁を。

人が抜けるまでの時間を。

けれど今、その前に誰かが立っている。

自分の前に。

燈子はそれを見たまま、意識を手放した。

康生は、燈子が崩れるのを視界の端で見た。


「アオイ!」

「篠宮燈子、意識低下。生命反応あり。即時搬送が必要です」

「搬送!」


康生が叫ぶ。

粉塵の向こうで、防衛隊員が動く。

だが、大型はまだ止まっていない。

黒い前肢が、康生の光の壁を押している。

外殻が軋み、床が割れ、通路の壁が悲鳴を上げる。

康生の右手が震えた。

見えない壁を作っているわけではない。

右手から出した微細な力場で、大型の進行方向をずらし続けている。

押し返すのではない。

受け止めるのでもない。

大型の力を、ほんの少し横へ逃がす。

旧地上開口部方面へ。

しらぬいの射線が通る場所へ。

それだけだ。

それだけなのに、重い。


「康生、右手出力上昇」


アオイの声が耳の奥に響く。


「抑えてる!」

「抑制不足。練馬送電母線への干渉はありません。ただし康生構成体に負荷増大」

「あと何分!」


シラヌイの声が割り込む。


「射線条件成立まで、残り一分五十秒」

「長いな!」


康生は歯を食いしばった。

大型が押す。

康生が逸らす。

床が砕ける。

粉塵が舞う。

遠くで砲塔一番がまた撃つ。

弾体が外殻に当たり、火花が散った。

大型がわずかに怯む。

その一瞬を使って、康生は右手を横へ払った。

黒い巨体が、数十センチだけ進路を変える。

たった数十センチ。

それでも、表示上の赤い点が旧地上開口部側へ寄る。


「誘導角、改善」

「射線条件、残り一分二十秒」

「対象進路、維持してください」

「維持って言うな!」


康生は叫んだ。


「こっちは維持するので精一杯だ!」


アオイが言う。


「康生、呼吸が乱れています」

「必要ない呼吸だろ」

「心理的安定には必要です」

「それなら今はいい!」


大型の前肢が再び振り下ろされた。

康生は光の膜を厚くする。

受ける。

逃がす。

逸らす。

衝撃が右肩まで抜けた。

右手の輪郭が、一瞬だけ薄くなる。

アオイの声が鋭くなる。


「崩壊兆候、微弱から中等度へ移行。康生、出力を下げてください」

「下げたら戻る!」

「保持時間を短縮してください」

「短縮できるならしてる!」


通路の脇で、防衛隊員が燈子へ走る。

大型の外殻片が飛ぶ。

康生は左手をかざしかけた。


「康生、左手使用不要。砲塔一番が遮断します」


砲塔一番が低出力射撃を行う。

外殻片が空中で砕け、壁に散った。

防衛隊員二人が燈子を抱え上げる。

燈子の手から武器が落ちた。

床に金属音が響く。

康生は一瞬、そちらを見た。


「見ないでください」


アオイが言う。


「分かってる」

「対象から視線を外さないでください」

「分かってる!」


大型がまた押し返してくる。

康生は足を踏ん張った。

足元の床が砕ける。

膝が沈む。

右手の先で、白い光が震える。


「残り五十秒」


シラヌイの声。

五十秒。

短いはずなのに、永遠みたいだった。

康生は奥飛騨を思い出した。

あの時も、無理をした。

自分で何をしているのか、全部は分からないまま力を使った。

結果、右手は透けた。

今回も同じになりかけている。

だが、違うこともある。

アオイがいる。

相馬がいる。

森川が練馬を見ている。

しらぬいが射線を待っている。

防衛隊員が燈子を運んでいる。

康生一人で倒す必要はない。

倒してはいけない。

ここでやるべきことは、保持すること。

射線まで、位置を維持すること。

英雄になることではない。


「康生」


アオイが言う。


「出力を広げないでください。薄く、広くではなく、狭く、斜めに」

「注文が細かい!」

「必要です」

「分かってる!」


康生は右手の光を絞った。

壁ではなく、斜面。

受け止めるのではなく、滑らせる。

大型の前肢が光に触れる。

押し潰す力が、斜めに流れる。

黒い巨体が、またわずかに旧地上開口部側へずれた。


「誘導角、成立目前」

「残り三十秒」

「対象位置、維持」


相馬の声が通信に入る。


「六番枝路の手動班、全員退避完了。篠宮さん、搬送中」


康生は目を閉じそうになった。

だが、閉じなかった。


「篠宮さんは」

「意識不明ですが、生命反応あり」


アオイが答える。


「出血あり。診療所へ搬送中」

「助かる?」

「助けます」


その返答は、予測ではなかった。

康生は小さく笑った。


「頼む」

「はい」


大型が咆哮した。

音ではなく、圧力だった。

粉塵が波のように押し寄せる。

天井の配管がさらに落ちる。

康生の右手が白く滲んだ。


「崩壊兆候、増大」


アオイの声が近い。


「康生、もう限界です」

「あと何秒」

「十八秒」

「なら持つ」

「保証できません」

「持たせる」

「康生」

「持たせる!」


康生は右手を前に突き出した。

白い光が、一瞬だけ広がる。

防衛隊員の誰かが息を呑んだ。

それを気にしている余裕はない。

今はただ、間に合えばそれでよかった。


「射線条件、成立」


シラヌイの声が変わった。

わずかに低く、硬くなる。


「全員、退避確認」

「旧地上開口部側、射線確保」

「イージス火器管制、目標捕捉」

「艦載レールガン、低角射撃準備」

「地下構造保護のため、貫徹深度制限」

「三」

「二」


康生は大型を見た。

黒い外殻。

歪んだ前肢。

こちらを押し潰そうとする巨体。


「一」

「撃発」


音は、遅れてきた。

先に光が走った。

旧地上開口部の方から、白く細い線が六番枝路を貫いた。

それは康生の光とは違う。

熱でも、炎でもない。

圧縮された暴力そのものだった。

大型の外殻に着弾する。

一瞬、何も起きなかったように見えた。

次の瞬間、黒い巨体の上半分が内側から砕けた。

衝撃波が通路を逆流する。

康生は右手の光を畳み、身体を低くした。

アオイが前へ出る。


「衝撃防御」


光の膜が、康生の前で薄く展開する。

粉塵。

破片。

熱。

黒い粘液。

すべてが通路を満たした。

何も見えなくなる。

耳も聞こえない。

ただ、身体のどこかで、自分の輪郭が薄くなる感覚だけがあった。

まずい。

康生はそう思った。

右手が軽い。

軽すぎる。

身体の重さが、一瞬消える。


「康生!」


アオイの声が遠い。


「出力停止。即時停止。康生、応答してください」

「…止めた」


自分の声が掠れていた。


「止めたって」


右手の光が消える。

同時に、足から力が抜けた。

康生は膝をつく。

床が硬い。

その硬さが、妙に安心だった。

まだここにいる。

崩れてはいない。

たぶん。


「康生、右手を見せてください」

「後で」

「今です」

「厳しい」

「必要です」


アオイが康生の右手を取る。

右手はあった。

だが、指先が少し透けている。

白い光の残滓が皮膚の下で揺れていた。

アオイの声が硬くなる。


「構造安定率、低下。崩壊進行は停止。回復待機が必要です」

「怒ってる?」

「はい」


即答だった。

康生は少し笑った。


「珍しいな」

「怒っています」

「そっか」


相馬の通信が入る。


「大型反応、沈黙」

「六番枝路、突破阻止」

「外縁手動班、負傷者なし」

「篠宮さん、診療所へ搬送完了」

「繰り返す。大型反応、沈黙」


接続室側から、誰かの安堵の息が通信に混じった。

森川の声が続く。


「練馬、三パーセント維持。送電母線、干渉なし。冷却循環、維持」


康生は目を閉じた。


「よかった」


本当に、それだけだった。

練馬は落ちなかった。

電気は消えなかった。

燈子は搬送された。

大型は止まった。

康生の右手は少し透けた。

それくらいで済んだのなら、安いのかもしれない。

そう思った瞬間、アオイが言った。


「安いと思わないでください」


康生は目を開けた。


「声に出てた?」

「出ていません」

「じゃあ何で」

「康生の思考傾向から推定しました」

「怖いな」

「必要です」


アオイは右手を離さない。


「康生の損耗を前提にした復旧は認めません」

「今回は復旧じゃなくて防衛」

「同じです」

「厳しい」

「怒っています」

「分かった。ごめん」


アオイは少しだけ黙った。


「謝罪受領。ただし、再発防止策が必要です」

「現場みたいなこと言うな」

「現場です」


康生は笑おうとして、咳き込んだ。

粉塵を吸ったわけではない。

呼吸は必要ない。

それでも、咳が出た。

アオイが肩を支える。


「移動します。診療所へ」

「俺も?」

「はい」

「篠宮さん優先で」

「篠宮燈子は搬送済みです。康生も対象です」

「俺、人扱いでいいんだっけ」

「いいです」


アオイは即答した。


「今ここで嫌がっているので、人として扱います」


森川の言葉を覚えていた。

康生は何も言えなくなった。

通路の粉塵が少し晴れる。

大型の残骸は、六番枝路の奥に崩れていた。

黒い外殻は割れ、動かない。

旧地上開口部へ向かう通路の先から、白い光がわずかに差し込んでいる。

そこへ向かって、砲塔一番と二番がまだ低く唸っていた。

練馬から戻った細い電気で。

細い電気。

三パーセントの光。

それだけでは大型を倒せなかった。

でも、それがなければ八分は稼げなかった。

燈子が誘導できなかった。

砲塔が撃てなかった。

相馬が退避を指示できなかった。

しらぬいが射線を取れなかった。

康生も、練馬を守る条件を保てなかった。

大型を倒したのは、康生一人ではない。

白い光だけでもない。

全部だった。

壊れかけた東京地下の、残っているもの全部。

康生はそれを見て、少しだけ息を吐いた。


「アオイ」

「はい」

「篠宮さん、助かるよな」

「助けます」


また、予測ではない返答。

康生は頷いた。


「うん」


背後で、防衛隊員たちが道を開ける。

そのうちの一人が、康生を見る。

白い光の残滓がまだ残っているのだろう。

目が、少し違っていた。

畏れ。

感謝。

混乱。

その全部が混じった目。

康生は嫌な予感がした。

だが、今は訂正する余裕がない。

通路のどこかで、誰かが小さく言った。


「天輪様が…」


アオイが一瞬だけそちらを見る。

康生は聞かなかったことにした。

聞いたら、また嫌になる。

否定したら、立っていられなくなる。

だから、今は歩く。

診療所へ。

燈子のところへ。

自分の右手を見られる場所へ。

練馬は、三パーセントのまま動いている。

外縁六番枝路では、大型の残骸が沈黙していた。

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