第七十七話 八分
「まだ、塞げます」
通信に混じった燈子の声は、ひどく小さかった。
接続室の表示板には、外縁六番枝路の映像が映っている。
ノイズだらけの映像。
三割だけ復帰した監視網。
死角だらけの視点。
その中で、燈子は大型害獣の前に立っていた。
黒い外殻。
通路を埋める巨体。
隔壁を押し曲げ、天井の配管を潰しながら進む影。
その前にいる燈子は、あまりにも小さい。
けれど、彼女は引かない。
大型の前肢が振り下ろされる。
燈子は横へ跳び、壁を蹴り、外殻の関節部へ刃を入れる。
火花が散った。
大型がわずかに向きを変える。
「旧地上開口部方面への誘導角、修正中」
「射線条件成立まで、残り五分十秒」
シラヌイの声が淡々と響く。
五分。
康生には、それが永遠みたいに聞こえた。
燈子は大型を倒しているわけではない。
押し返しているわけでもない。
進路を、ほんの少しずつずらしているだけだ。
外縁六番枝路から、旧地上開口部方面へ。
イージスの射線が通る場所へ。
そのためだけに、燈子は大型の前に立っている。
「砲塔一番、再装填完了」
「砲塔二番、冷却完了」
「同時射撃、可能」
相馬が短く言う。
「撃て」
二つの砲塔が同時に火を噴いた。
映像が白く乱れる。
衝撃で、六番枝路の天井から粉塵が落ちた。
大型の頭部が少し横へ弾かれる。
その瞬間、燈子が前へ出た。
大型の脚の下に潜り込み、関節へ刃を叩き込む。
深くは入らない。
外殻が硬すぎる。
それでも、動きが一瞬止まる。
「誘導角、さらに修正」
「射線条件成立まで、残り四分四十秒」
「いける」
誰かが呟いた。
康生は何も言わなかった。
映像の中で、燈子の動きが明らかに落ちていた。
着地が遅い。
右腕が上がりきっていない。
左足を庇っている。
それでも、止まらない。
大型の尾のような突起が横へ薙いだ。
燈子は避けた。
だが、完全には避けられなかった。
身体が弾かれ、壁に叩きつけられる。
「篠宮さん!」
康生が叫ぶ。
通信に、短い息が混じる。
「…問題、ありません」
問題ある声だった。
燈子は立ち上がる。
立ち上がってしまう。
アオイが言う。
「篠宮燈子の運動能力低下を確認。継戦可能時間、短縮」
「どれくらい」
康生が聞いた。
アオイはすぐには答えなかった。
「アオイ」
「現在の負傷状態では、二分未満と推定」
接続室が静かになった。
シラヌイの声が重なる。
「射線条件成立まで、残り四分十五秒」
合わない。
どう考えても合わない。
康生は右手を見た。
まだ崩れていない。
練馬施設内のピコマシン濃度で、むしろ少し安定している。
だが、治ったわけではない。
奥飛騨で使いすぎた右手。
透けかけた身体。
アオイが何度も止めた高出力運用。
ここで使えば、どうなるか分からない。
分からない。
でも、燈子が持たないのは分かる。
「康生」
アオイが言う。
「高出力運用は推奨しません」
「分かってる」
「右手使用は禁止です」
「分かってる」
「衛星受電の制限解除は、練馬送電母線および外縁防衛線へ干渉する可能性があります」
「分かってる」
「康生の構成安定性を損なう可能性があります」
「分かってるって!」
声が跳ねた。
自分でも驚くくらい、大きな声だった。
康生は歯を食いしばる。
表示板では、燈子がまた大型の前に出ている。
大型の前肢を避ける。
刃を入れる。
壁を蹴る。
着地で膝が沈む。
それでも立つ。
「残り三分五十秒」
「射線、まだ通りません」
「大型反応、速度低下なし」
相馬が通信を握りしめる。
「篠宮さん、退避できるか」
ノイズの向こうで、燈子が答える。
「まだです」
「手動班は退避済みです。これ以上は」
「抜かれます」
短い返答だった。
「ここで退けば、中間居住区へ近すぎます」
康生は目を閉じた。
見たくなかった。
けれど、目を閉じても、音は消えない。
衝撃音。
通信のノイズ。
燈子の息。
大型が壁を削る音。
そして、アオイの声。
「康生、見ることも任務です」
「それさ」
康生は目を開けた。
「きついな」
「はい」
アオイは否定しなかった。
「きつい任務です」
映像の中で、燈子が大型の側面に回る。
砲塔一番が撃つ。
大型が怯む。
その隙に、燈子が旧地上開口部側へ誘導する。
だが、大型も学習している。
黒い前肢が床を砕いた。
砕けた床片が散弾のように飛ぶ。
燈子は腕で顔を庇った。
遅れた。
破片が肩と脇腹に当たり、身体が崩れる。
「篠宮!」
相馬が叫んだ。
燈子は膝をついた。
大型が前へ出る。
隔壁が軋む。
六番枝路の黄色い表示が赤く点滅する。
――隔壁変形、限界接近。
――外縁防衛線、突破リスク上昇。
燈子が立とうとする。
立てない。
一度、膝が落ちる。
康生の中で、何かが切れた。
「アオイ」
「推奨しません」
「まだ何も」
「康生の意図は明白です」
「じゃあ分かってるだろ」
康生は固定台の拘束を外した。
アオイが前に出る。
「停止してください」
「無理」
「康生」
「無理だ」
康生は右手を握る。
「もう見てられない」
アオイの表情は変わらない。
だが、声だけが少し低くなった。
「康生が出れば、神格化は進行します」
「それも分かってる」
「身体が崩れる可能性があります」
「分かってる」
「練馬を落とす可能性があります」
「落とさない」
「保証できません」
「保証できなくても、やる」
接続室の全員が康生を見ていた。
麻生が何か言いかける。
千田が一歩動く。
相馬が通信機を握ったまま、止めるべきか判断している。
森川は端末を見た。
「練馬の送電母線には干渉させないでください」
康生は森川を見る。
森川は震えた声で続けた。
「出るなら、練馬を守ってください。戻った電気を、壊さないでください」
康生は頷いた。
「分かりました」
アオイが言う。
「条件を設定します」
「止めないのか」
「止めます」
アオイは即答した。
「ですが、康生は止まらないと判断しました。ならば、被害を最小化します」
康生は少し笑った。
「頼もしいな」
「覚えます」
「そこは今じゃないだろ」
「今です」
アオイは康生の前に立ち、短く条件を並べる。
「衛星受電、制限解除は短時間。外縁六番枝路内のみ。練馬送電母線への接続禁止。右手出力は大型の進行抑制と誘導に限定。殲滅ではなく、射線成立までの保持」
「分かった」
「高出力照射は禁止」
「分かった」
「居住区方向への出力は禁止」
「分かった」
「身体崩壊兆候が出たら即時停止」
「分かった」
「分かった、は実行保証ではありません」
「止まる」
アオイが一瞬だけ黙る。
「良い回答です」
康生は表示板を見る。
燈子が、まだ立とうとしている。
大型の前肢が上がる。
「間に合わない」
康生は走った。
接続室を飛び出す。
通路が流れる。
足音が硬く響く。
アオイが後ろから追う。
「衛星受電経路、再設定。外縁六番枝路、局所受電に限定」
アオイの声が耳の奥に届く。
「康生、右手出力上昇を確認」
「抑えてる」
「抑制不足」
「うるさい」
「必要です」
「知ってる」
通路の先に、赤い警告灯が見えた。
六番枝路へ向かう連絡路。
空気が粉塵で濁っている。
遠くで大型の衝撃音が響く。
康生の右手が熱を持つ。
熱ではない。
本当は熱ではない。
けれど、そう感じた。
皮膚の下で、細かい粒子が目を覚ます。
外から、見えない線が降りてくる。
軌道上の受電光環。
旧東京圏の上空に残る、使いすぎてはいけない力。
アオイが叫ぶ。
「受電開始。出力、最小域を超過。康生、抑制してください」
「してる!」
「さらに抑制」
「無茶言うな!」
「必要です」
康生の視界が白く滲む。
背中の後ろに、光の輪が広がるような感覚があった。
実際には翼などない。
ただ、受電経路を安定させるための微細な光の膜が、身体の周囲に展開しているだけだ。
分かっている。
これは天使ではない。
神でもない。
ただの、旧文明の危険な技術だ。
それでも、外縁通路にいた防衛隊員たちが息を呑むのが分かった。
「天輪…」
誰かが呟きかける。
康生は振り返らなかった。
何でも、言わせておけばいい。
余裕がなかった。
今はただ、間に合えばそれでよかった。
六番枝路へ飛び込む。
粉塵。
割れた床。
潰れた配管。
歪んだ隔壁。
その奥に、大型がいた。
そして、その手前に燈子がいた。
燈子は膝をついていた。
血が床に落ちている。
それでも、武器を手放していない。
大型の前肢が、燈子へ振り下ろされる。
康生は右手を前へ出した。
「止まれ!」
光が走った。
衝撃は、音より先に来た。
大型の前肢が空中で止まる。
見えない壁にぶつかったように、黒い外殻が軋んだ。
床が割れる。
康生の足元が沈む。
右手の輪郭が一瞬だけ薄くなる。
「康生!」
アオイの声が飛ぶ。
「崩壊兆候、微弱。出力を下げてください」
「下げたら潰される!」
「誘導に切替。保持しすぎないでください」
「分かった!」
康生は右手を横へ払った。
大型を弾き飛ばすのではない。
進路をずらす。
旧地上開口部側へ。
イージスの射線が通る場所へ。
大型が唸る。
その声は、獣というより、壊れた構造物が軋む音に近かった。
外殻の隙間から、黒い粘液のようなものが飛ぶ。
康生は光の膜で受け流した。
視界がさらに白くなる。
「残り二分十秒」
シラヌイの声が届く。
「射線条件、改善。対象を現在方向へ維持してください」
「二分もかよ」
康生は歯を食いしばる。
「長いな!」
大型が押し返してくる。
重い。
あまりにも重い。
右手だけではない。
身体全体が軋む。
奥飛騨の時と似ている。
だが、あの時ほど無制限には使えない。
ここには人がいる。
東京地下がある。
戻ったばかりの練馬がある。
壊せない。
壊せないから、余計に難しい。
燈子が、ぼんやりと顔を上げた。
視界は霞んでいた。
耳鳴りがしている。
通信の声も遠い。
自分がまだ六番枝路にいるのか、それともどこか別の場所に倒れているのか、よく分からない。
ただ、大型の前肢が自分に落ちてくるのだけは見えた。
終わった、と思った。
その瞬間、白い光が降りた。
人の形をしていた。
いや、人ではないように見えた。
背中に輪がある。
翼のような光が広がっている。
粉塵の中で、白く燃えている。
黒い大型の前肢を、その光が受け止めていた。
燈子は、朦朧とした意識の中で、それを見た。
天使。
そう思ってしまった。
違うと、どこかで分かっている。
石田康生だ。
規約違反者だ。
自分たちと同じように、嫌がりながら、困りながら、それでも前に出てしまう人だ。
それでも、その姿は天使のようだった。
白い光の中で、康生が振り返る。
「篠宮さん!」
声が遠い。
「下がって!」
燈子は返事をしようとした。
だが、声が出なかった。
代わりに、涙だけが少し滲んだ。
自分が守る側だと思っていた。
塞ぐ側だと思っていた。
けれど今、自分の前に誰かが立っている。
壊れかけた壁の前に。
大型の前に。
自分の前に。
燈子は、その白い背中を見た。
そして、意識がゆっくり沈んでいった。




