第七十六話 八分前
「…電気、戻ってます」
その呟きが接続室に届いてから、数分。
練馬地下核融合施設は、三パーセントのまま動いていた。
完全復旧ではない。
低出力。
制限付き。
暫定運転。
それでも、外縁防衛線へ伸びる線は、細く青く光っている。
――主反応炉、低出力運転中。
――出力、三パーセント。
――冷却循環、維持。
――外縁防衛線、低出力供給継続。
――居住区空調、段階復旧開始。
――浄水系、段階復旧開始。
康生は固定台の上で力を抜いた。
左手の奥には、まだ冷たい感覚が残っている。
けれど、右手は使っていない。
施設にも、電源扱いはさせなかった。
練馬は、施設の中にある資源だけで起きた。
それが、少しだけ嬉しかった。
「康生、接続負荷低下。構成乱れ、現時点で検出なし」
アオイが言う。
「右手は?」
「構造安定率、維持」
「よし」
「疲労反応あり」
「それはある」
康生は背中を丸めた。
「めちゃくちゃある」
燈子は少し離れた椅子に座っていた。
右腕をかばい、左足を少し伸ばした姿勢。
まだ立っていない。
武器にも触れていない。
それだけで、康生は少し安心する。
通信の向こうでは、外縁側から報告が続いていた。
「外縁門、補助電源復帰」
「砲塔一番、自己診断中」
「砲塔二番、旋回系低速復帰」
「隔壁制御、応答あり」
「監視網、映像三割復帰」
三割。
低速。
補助。
全部、完全ではない。
それでも、さっきまでとは違う。
相馬が通信を受けながら頷いた。
「外縁側へ通達。復帰した装備は低出力運用に限定。前へ出すぎるな。手動班は退避経路を優先しろ」
「砲塔が戻ったなら、少しは楽になりますか」
康生が聞く。
相馬は短く答えた。
「中型までなら」
その言い方が、少しだけ嫌だった。
「大型は?」
相馬は答えなかった。
森川が表示板から目を離さずに言う。
「練馬は三パーセント維持です。今は上げません」
「上げたくなっても?」
「上げたくなってもです」
「現場ですね」
「はい」
燈子が静かに言った。
「それでいいと思います」
全員が少しだけ燈子を見る。
燈子は椅子に座ったまま、表示板を見ていた。
「焦って壊したら、戻ったものまで失います」
康生は頷いた。
「篠宮さんが焦るなって言うと、効きますね」
「自分に言っています」
燈子は少しだけ笑った。
その時だった。
通信音が、鋭く割り込んだ。
「外縁監視網、異常振動検知」
「北東旧連絡層、壁面圧力上昇」
「未確認反応、一」
「大きいです」
接続室の空気が変わった。
相馬が即座に通信機を握る。
「位置を出せ」
表示板に外縁防衛線の簡略図が映る。
青い線。
黄色い隔壁。
復帰したばかりの砲塔。
その外側に、赤い点が一つ現れた。
赤い点は、ゆっくり動いている。
だが、表示上の大きさが明らかにおかしかった。
「種別照合」
相馬が言う。
「照合中。中型ではありません」
「反応増大」
「旧閉鎖区画の内壁を押しています」
「大型判定、出ます」
森川が息を呑む。
燈子の手が、椅子の横に置いた武器へ伸びた。
康生はそれを見た。
「篠宮さん」
燈子の手が止まる。
彼女はすぐには答えなかった。
通信が続く。
「大型害獣反応、確定」
「外殻型」
「推定全長、七メートル以上」
「旧地下鉄連絡層を破砕しながら接近」
「進路、六番枝路方面」
七メートル。
康生は表示板を見る。
「でか」
アオイが短く言う。
「大型です」
「そのまんまだな」
「はい」
相馬が指示を飛ばす。
「六番枝路、全手動班後退。隔壁を閉じろ。砲塔一番、二番、低出力で迎撃準備。監視網は死角補正を急げ」
「了解」
「隔壁、閉鎖開始」
「砲塔一番、旋回」
「砲塔二番、照準補正中」
「手動班、後退開始」
表示板の黄色い隔壁が動く。
復帰したばかりの砲塔が、ゆっくり大型の方を向いた。
練馬が戻した細い電気が、外縁の機械を動かしている。
康生は拳を握った。
「いけるか」
誰もすぐには答えなかった。
砲塔一番が発射した。
表示板の青い線が一瞬太くなる。
遠くで、低い衝撃音がした。
赤い点は、止まらなかった。
二発目。
三発目。
通信が入る。
「命中」
「外殻損傷、軽微」
「大型反応、減速せず」
「隔壁閉鎖、五十パーセント」
「壁面圧力、上昇」
相馬が歯を食いしばる。
「砲塔二番は」
「照準補正完了。発射可能」
「撃て」
二番砲塔が撃つ。
今度は、表示板の赤い点が少しだけ揺れた。
だが、止まらない。
「大型反応、継続」
「六番枝路隔壁、変形」
「外殻型、前肢で隔壁を押しています」
「閉鎖速度低下」
康生は表示板を睨んだ。
練馬の電気は戻った。
砲塔も動いた。
隔壁も動いた。
でも、足りない。
三パーセントの光では、止めきれない。
「出力、上げられないんですか」
康生が聞く。
森川は即答しなかった。
表示を見て、冷却系を見て、送電母線を見た。
「今上げると、冷却が持ちません」
「少しでも」
「少しでも、危険です」
アオイも言う。
「練馬施設の低出力運転維持を優先すべきです。ここで炉が停止すれば、外縁防衛線全体が再び落ちます」
「分かってる」
康生は言った。
分かっている。
今ここで無理に出力を上げて、練馬そのものが落ちたら終わりだ。
それでも、赤い点は進んでいる。
燈子が立ち上がった。
今度は、誰もすぐには止められなかった。
椅子の足が、小さく音を立てる。
燈子は武器を取った。
「篠宮さん」
康生が言う。
「座ってたんじゃ」
「座っていられる状況ではありません」
その声は静かだった。
怒ってもいない。
焦ってもいない。
だからこそ、止めづらかった。
相馬が振り返る。
「篠宮さん、砲塔と隔壁で時間を稼ぎます。あなたは待機を」
「隔壁が閉まりきりません」
燈子は表示板を見る。
「六番枝路を抜かれると、中間居住区へ近すぎます」
「手動班は退避中です」
「退避が終わるまで、誰かが前に出る必要があります」
康生は言葉を失った。
燈子は、自分が戦いたいわけではない。
英雄でいたいわけでもない。
ただ、穴が開いているから塞ぎに行く。
それだけだ。
アオイが言う。
「篠宮燈子の負傷状態では、大型害獣との直接戦闘は危険です」
「分かっています」
「推奨しません」
「はい」
「停止してください」
「できません」
短い会話だった。
燈子は康生を見た。
「石田さん」
「はい」
「練馬を、落とさないでください」
康生は何も言えなかった。
「戻った電気を、消さないでください」
そう言って、燈子は走った。
左足をかばっている。
右腕も万全ではない。
それでも速い。
接続室を出ていく背中を、康生は見ていることしかできなかった。
「相馬さん」
康生が振り向く。
「支援は?」
相馬は通信機を握ったまま、別回線へ接続していた。
「しらぬいへ緊急連絡。大型外殻型、東京地下外縁六番枝路へ接近。イージス支援要請」
少し遅れて、硬い声が返る。
「こちら、しらぬい。大型反応を確認。地下構造と射線条件を照合中」
「早く」
康生が言う。
シラヌイの声は変わらない。
「地上側の射線確保には誘導が必要です。現在位置では、地中構造物と居住区への被害リスクが高い」
「じゃあどうするんだよ」
「外縁六番枝路から旧地上開口部方面へ押し戻せれば、しらぬい艦載レールガンおよびイージス火器管制による支援射撃が可能です」
相馬が聞く。
「所要時間は」
一拍。
「射程および射線条件成立まで、最短八分」
接続室が静かになった。
八分。
短い。
短すぎる。
でも、戦っている人間にとっては長すぎる。
表示板で、燈子を示す青い点が六番枝路へ向かっている。
大型の赤い点は、隔壁を押しながら進んでいる。
相馬が通信を切り替える。
「篠宮さん、聞こえますか」
少しノイズが混じる。
「聞こえます」
燈子の声が返った。
息が少し荒い。
「しらぬい支援、最短八分。旧地上開口部方面へ押し戻せれば射線が通ります」
「分かりました」
燈子は即答した。
即答してしまった。
康生はそれが嫌だった。
「八分、稼ぎます」
通信が切れる。
康生は表示板を見つめた。
「稼ぎます、じゃないだろ」
アオイが横で言う。
「康生、高出力運用は推奨しません」
「まだ何も言ってない」
「康生の表情、呼吸、右手への視線移動を確認しました」
「見すぎだろ」
「必要です」
康生は右手を見る。
今なら出られるかもしれない。
衛星受電を使えば。
右手を使えば。
奥飛騨でやったように、制限を外せば。
でも、今の康生は練馬を起こしたばかりだ。
左手には接続負荷が残っている。
右手は安定しているだけで、治ったわけではない。
それに、ここは地下だ。
高出力の受電を無理に使えば、外縁だけでなく居住区にも影響するかもしれない。
練馬の送電母線にも干渉するかもしれない。
戻ったばかりの細い電気を、康生自身が壊すかもしれない。
分かっている。
分かっているから、動けない。
表示板で、燈子の青い点が大型の赤い点に近づいた。
通信が開く。
「六番枝路、篠宮燈子、接敵」
「手動班、退避完了まで一分」
「隔壁、変形拡大」
「砲塔一番、弾体残量低下」
「砲塔二番、冷却待機」
映像が出た。
粗い。
復帰した監視網の三割だけの映像。
ノイズが多く、角度も悪い。
それでも、見えた。
通路いっぱいに、黒い外殻がある。
天井の配管を押し潰し、隔壁を歪ませながら進む巨大な影。
その前に、燈子が立っている。
小さい。
あまりにも小さい。
だが、燈子は引かなかった。
大型の前肢が振り下ろされる。
燈子は横へ跳ぶ。
壁を蹴り、砕けた床片の上を走り、外殻の関節部へ刃を叩き込む。
火花が散った。
大型がわずかに向きを変える。
「効いてる?」
康生が聞く。
アオイが答える。
「外殻損傷は軽微。ただし、進行方向の変更に成功しています」
「押し戻してるってことか」
「わずかに」
わずか。
そのわずかを、燈子は身体で作っている。
砲塔一番が撃つ。
燈子が跳ぶ。
大型が前進する。
隔壁が軋む。
燈子がまた前に出る。
通信が続く。
「旧地上開口部方面への角度、五度修正」
「射線条件まで、残り七分二十秒」
「砲塔一番、再装填遅延」
「砲塔二番、冷却完了まで三十秒」
康生は歯を食いしばった。
「七分」
「はい」
アオイが言う。
「長いな」
「はい」
燈子の動きは速い。
けれど、最初よりほんの少し遅れている。
右腕が使いきれていない。
左足も、着地のたびに揺れる。
大型の尾のような突起が横へ薙いだ。
燈子は避けた。
避けたが、完全ではなかった。
肩が壁に叩きつけられる。
「篠宮さん!」
康生が叫ぶ。
映像の中で、燈子はすぐに立った。
立ってしまった。
「大丈夫です」
通信に声が入る。
大丈夫ではない声だった。
康生は拳を握る。
アオイが言う。
「康生」
「分かってる」
「高出力運用は禁止です」
「分かってる」
「右手使用も禁止です」
「分かってる!」
声が大きくなった。
接続室が静かになる。
康生はすぐに息を吐いた。
「ごめん」
アオイは少しだけ間を置く。
「謝罪受領」
「そこは普通でいい」
「康生の精神負荷増大を確認」
「見てれば分かる」
表示板では、燈子がまた大型の前へ出ていた。
止めるためではない。
倒すためでもない。
八分稼ぐために。
大型の進路を、少しずつ旧地上開口部側へずらすために。
それは、戦いというより、身体で壁を押しているようだった。
「塞ぐ側」
康生は呟いた。
燈子が言っていた言葉。
自分が戦っているとは言わない。
守っているとも言わない。
塞いでいると言う。
今、本当にそうしている。
大型と居住区の間に立って。
壊れかけた隔壁の代わりに。
三パーセントの電気で足りない部分を、自分の身体で塞いでいる。
「残り六分」
相馬が言う。
「六分…」
康生の声は掠れた。
映像の中で、燈子が大型の外殻に取りついた。
関節部に刃を差し込み、体重をかける。
大型が暴れる。
燈子の身体が振られる。
壁に叩きつけられそうになりながら、それでも離れない。
砲塔二番が撃つ。
大型の頭部が横へ弾かれる。
通路の壁が崩れ、粉塵が舞った。
映像が乱れる。
「映像、補正!」
相馬が叫ぶ。
ノイズ。
白い砂嵐。
赤い警告。
康生は表示板に近づいた。
「見えない!」
アオイが冷静に言う。
「監視網が損傷しています。別角度へ切替」
映像が戻る。
燈子は立っていた。
立っていたが、膝をついていた。
左足が震えている。
右腕は下がっている。
大型はまだ動いている。
「残り五分三十秒」
シラヌイの声が入る。
「射線条件、改善中。旧地上開口部方面への誘導を継続してください」
「継続って」
康生は呟いた。
「これ以上どうやって」
燈子がゆっくり立ち上がる。
康生はその映像を見た。
見てしまった。
彼女はまた前に出る。
康生は、もう何も言えなかった。
アオイが横に立つ。
「康生」
「分かってる」
「まだです」
「分かってる」
「見ることも任務です」
康生はアオイを見た。
その言葉は正しい。
今の康生が出れば、練馬を壊すかもしれない。
東京地下を危険にするかもしれない。
燈子が作った八分を無駄にするかもしれない。
だから、見るしかない。
見て、待つしかない。
英雄が壊れていくのを。
康生は表示板へ視線を戻した。
燈子が大型の前に立つ。
青い点と赤い点が、ほとんど重なっている。
通信に、燈子の荒い息が混じる。
「まだ」
その声は小さかった。
「まだ、塞げます」
康生は奥歯を噛んだ。
八分。
それは、長すぎた。




