第七十五話 練馬再起動
接続室へ戻ると、表示板には冷却循環系の図が出ていた。
赤ばかりだった線の中に、細い黄色が三本だけ混じっている。
冷却水再循環枝路、二十二パーセント。
主熱交換器入口側、三十七パーセント。
補助炉排熱連絡管、三十四パーセント。
足りない数字ばかりだ。
けれど、ゼロではない。
康生は表示を見上げた。
「限定でも、前に進める、か」
「便利な言葉ですね」
椅子に座った燈子が、小さく笑った。
右腕は膝の上。
左足は少し伸ばしている。
武器には触れていない。
ちゃんと座っている。
それだけで、康生は少し安心した。
森川が端末を操作する。
「低圧循環試験を行います。通常流量の二十パーセントまで段階的に上げ、五分維持できれば合格です」
「二十パーセントで合格なんですか」
「起動準備の第一段階としては、です」
「限定ですね」
「はい。限定です」
相馬が通信を開く。
「各点検班、低圧循環試験を開始する。再循環枝路、熱交換器入口側、排熱連絡管、異常時は即時報告」
通信の向こうから短い返答が続いた。
「再循環枝路、待機」
「熱交換器入口側、待機」
「排熱連絡管、待機」
「外縁供給監視、待機」
「居住区生命維持監視、待機」
康生は思わず言った。
「ちゃんとしてるな」
アオイが即座に答える。
「必要です」
「久々に聞いた気がする」
「記録しています」
「それは記録しなくていい」
森川が康生を見る。
「開始承認を」
康生は端末に左手をかざした。
「練馬施設管理系。低圧循環試験、開始」
表示板が白く点滅する。
――実行承認、受領。
――低圧循環試験、開始。
――補助循環ポンプ、起動。
床の下から、低い振動が立ち上がった。
五パーセント。
十パーセント。
十五パーセント。
数字が上がるたびに、壁の奥の水音が少しずつ太くなる。
一度、再循環枝路の圧力が跳ねた。
「再循環枝路、振動あり。黒い粒子を少量排出。漏れなし」
通信の声に、康生は端末を睨んだ。
「止める?」
アオイが短く答える。
「まだです」
「焦らない」
康生は自分で言った。
アオイが少しだけ間を置く。
「良い判断です」
「褒められると不安になるな」
圧力は揺れた。
だが、赤にはならなかった。
やがて表示は落ち着き、青い線が細くつながる。
――試験流量、二十パーセント。
――低圧維持試験、開始。
――維持時間、五分。
その五分は長かった。
誰も大きな声を出さない。
森川は計器を見続け、相馬は通信を切らず、千田は入口に立ち、麻生は祈りそうな顔で祈らないようにしている。
燈子は座ったまま、表示を見ていた。
立ち上がらない。
武器にも触れない。
ただ、見ている。
それが、康生には少し心強かった。
「排熱連絡管、温度低下」
「熱交換器入口側、流量安定」
「再循環枝路、圧力安定」
「外縁供給監視、電圧揺動小」
「居住区空調、変動なし」
「浄水系、待機継続」
相馬が頷く。
「繋がっています」
康生は表示板を見る。
外縁の砲塔。
市場の灯り。
診療所の空調。
浄水。
人の生活。
燈子が戦わずに済む時間。
水が回るというだけで、その全部に細い線が伸びている。
表示板が白く点灯した。
――低圧循環試験、完了。
――重大漏洩、なし。
――再閉塞、なし。
――冷却循環系、第一段階合格。
森川が大きく息を吐いた。
「通りました」
通信の向こうで、小さな歓声のような声が混じる。
すぐに抑えられたが、確かに聞こえた。
康生も息を吐いた。
必要のない呼吸だった。
それでも、吐かずにはいられなかった。
「赤が減った」
表示板の冷却系が、一部だけ黄色へ変わっていた。
アオイが言う。
「主反応炉起動準備、第一条件を満たしました」
壁面端末が次の表示を出す。
――燃料供給系隔離解除確認。
――点火系保護停止解除確認。
――送電母線段階接続準備。
――暫定外部保守端末、再接続要求。
康生は固定台を見た。
「やっぱり座るのか」
「はい」
アオイの声が硬くなる。
「ただし、接続深度は制限します。康生は電源ではありません」
「電源?」
康生が顔をしかめる。
「施設側が、康生の内部反応を起動補助に利用可能と判断する可能性があります」
接続室の空気が少し冷えた。
燈子が椅子から身を起こしかける。
だが、立たない。
アオイは続けた。
「その場合、拒否します。康生の損耗を伴う復旧は認めません」
森川も頷いた。
「技術班としても同意します。施設を動かすために、人を削るのは違います」
康生は少し困った。
「俺、人扱いでいいんですかね」
森川は真面目に答えた。
「少なくとも、今ここで嫌がっているなら、人として扱うべきだと思います」
康生は返事に詰まった。
「ありがとうございます」
「いえ」
アオイが左手の接続端子を確認する。
「接続開始。出力、最小。監査深度制限、設定。災害時復旧任務、優先条件として提示」
冷たい感覚が左手から入ってくる。
前より浅い。
だが、やはり不快だった。
表示板が点く。
――暫定外部保守端末、接続。
――規約違反状態、監視継続。
――限定承認、維持。
――起動準備工程、低権限拡張。
「規約違反、しつこいな」
「監視継続中です」
「知ってる」
燃料供給系の確認は、思ったより静かに終わった。
――燃料供給系、低圧加圧試験完了。
――漏洩、なし。
――圧力保持、良好。
――起動時低流量供給、条件付き可能。
「かなりいいです」
森川が言う。
「かなり、なんですね」
「かなりです」
続いて点火系。
磁場閉じ込めコイル。
予備励起電源。
主点火制御。
緊急消弧系。
表示を見ただけで、康生は嫌な顔をした。
「急に核融合炉っぽい」
「核融合炉ですので」
森川の正論が強い。
――点火系、保護停止。
――磁場閉じ込めコイル、待機。
――緊急消弧系、応答あり。
――炉心監視センサー、一部欠損。
――模擬起動試験、許可。
――主点火、禁止。
「主点火、禁止って出ると安心するな」
「はい」
アオイも頷いた。
森川が模擬起動を実行する。
部屋の空気が、かすかに震えた。
音ではない。
骨の奥に触れるような感覚。
康生は肩をすくめる。
「今の何」
「磁場閉じ込めコイルの低出力励起です」
アオイが言う。
「身体に来る」
「康生の構成が反応しています」
「嫌な言い方」
その瞬間、表示板の一部が赤く点滅した。
――外部保守端末内部反応、検出。
――未分類高密度エネルギー構成。
――起動補助適性、照合。
――外部端末出力補助、候補。
――中核特異点炉由来反応、照合開始。
アオイの声が鋭くなる。
「康生、応答しないでください」
左手に、引かれるような感覚が走った。
施設の何かが、康生の内側にあるものを見つけた。
「電源扱いのやつか」
「はい」
アオイは即座に端末へ介入した。
「練馬施設管理系へ通知。外部端末出力補助を拒否。康生を電源として利用することを禁止します。災害時復旧任務は、施設内資源により継続します」
表示が赤く揺れる。
――要求、受領。
――起動補助、任意項目。
――外部端末出力補助、拒否確認。
――外部補助なし、起動準備継続可能。
康生の左手から、引かれる感覚が消えた。
アオイが康生の肩に手を置く。
「康生、状態確認」
「大丈夫。右手は使ってない」
「接続負荷、低下。構成乱れ、現時点で検出なし」
康生は息を吐いた。
「今の、嫌だった」
「はい」
アオイが言った。
「私も、嫌でした」
康生はアオイを見る。
「お前がそう言うの、珍しいな」
「覚えています」
「何を?」
「康生は電源ではありません」
康生は少し黙った。
それから、小さく笑った。
「そっか」
点火系の表示が白く変わる。
――磁場閉じ込めコイル、低出力励起成功。
――緊急消弧系、応答確認。
――点火系保護停止、段階解除可能。
最後に送電母線。
内部蓄電系。
外縁防衛線。
居住区空調。
浄水系。
航空整備区画。
赤かった線が、ひとつずつ黄色へ変わっていく。
――送電母線、段階接続準備完了。
――内部蓄電系、条件付き接続可能。
――外縁防衛線、低出力受電可能。
――居住区空調、段階復旧可能。
――浄水系、段階復旧可能。
――航空整備区画、起動後再評価。
森川が深く息を吐いた。
「起動準備、主要条件が揃いました」
接続室が静かになった。
冷却系。
燃料供給系。
点火系。
送電母線。
全部が完全ではない。
黄色だらけで、赤も残っている。
けれど、表示板の中央だけが白く点灯していた。
――主反応炉、低出力起動準備完了。
――起動モード、制限付き。
――出力上限、通常時十二パーセント。
――外部補助、なし。
――暫定外部保守端末、起動承認待ち。
康生は最後の行を見つめた。
「ついに起こすのか」
「低出力です」
アオイが言う。
「限定で」
燈子が言った。
「前に進めます」
康生は燈子を見る。
燈子は座ったままだった。
立ち上がっていない。
武器にも触れていない。
だが、その目は表示板をまっすぐ見ていた。
外縁の壁。
市場。
診療所。
浄水。
防衛隊。
疲れた人たち。
そして、戦わずに座っている燈子。
全部が、この先の点火に繋がっている。
アオイが言う。
「康生。低出力点火シーケンスへ移行可能です」
「焦らない、だよな」
「はい」
「でも、ここまで来た」
「はい」
康生は目を閉じ、息を吐いた。
必要のない呼吸だった。
それでも、吐いた。
「練馬施設管理系」
康生は左手を端末に置いたまま言った。
「低出力点火シーケンス、開始」
表示板が白く輝いた。
――承認、受領。
――低出力点火シーケンス、開始。
――燃料供給、低流量。
――磁場閉じ込め、安定化。
――点火準備。
――三。
――二。
――一。
音はなかった。
ただ、床の奥で、深いものが目を覚ますような振動が生まれた。
照明が一度落ちる。
赤い非常灯だけが残る。
次の瞬間、白い光が戻った。
今度は、揺れなかった。
表示板に、太い文字が出る。
――主反応炉、低出力点火成功。
――出力、三パーセント。
――冷却循環、維持。
――送電母線、内部接続。
――外縁防衛線、低出力供給開始。
――居住区空調、段階復旧開始。
――浄水系、段階復旧開始。
誰も、すぐには声を出さなかった。
森川が両手で口元を覆う。
相馬が通信を握ったまま、わずかに目を見開く。
麻生は祈りそうになって、必死に堪えている。
千田は静かに息を吐いた。
燈子は座ったまま、表示を見ていた。
その目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
康生は固定台の上で力を抜いた。
「動いた」
アオイが答える。
「はい」
「練馬、起きたな」
表示板の赤は、まだ多い。
黄色も多い。
白くなった場所は少しだけだ。
けれど、外縁防衛線へ伸びる線が、細く青く光っていた。
通信が入る。
「外縁門、砲塔二基、自己診断開始」
「隔壁制御、補助電源復帰」
「居住区空調、送風再開」
「浄水系、補助ポンプ起動」
短い沈黙のあと、外縁側の通信に誰かの声が混じった。
「…電気、戻ってます」
それは報告というより、呟きだった。
燈子が小さく息を吐く。
「戻った」
康生は頷いた。
「限定ですけどね」
燈子は笑った。
「それでも、戻りました」
練馬地下核融合施設は、完全には直っていない。
けれど、眠っていた炉は目を開けた。
東京地下に、細い電気が戻り始めていた。




